イナカの灯台

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避難所にしそうなところ(随時更新)

Twitterになにかあったときのために。拠点はおおむねこのブログ。

2025年8月20日(水)

母が出先で仔猫を拾ったとのこと。キジトラの♂。動物病院へ一晩預け、あす連れ帰ってくるそうで、うちでいっしょに暮らすことになった。仔猫には最近何度か縁があったわけで、そのキジトラがくるのはもうなにかの流れかのようなものでは。きょう考えたのは「じぶんはじぶんの意思を尊重する、他者からの強制は受けない」ということ。思えばひとを責めることに際限はないけれど、じぶん自身がどうするかについてなら迷うことなどないのだった。主体性や自他境界のこと。午前中は刈り払い機用のガソリンを買いにいき、庭の内外の草刈りや芝刈りをしてあとはのんびり。庭木のヤマボウシが幹の途中から折れずに曲がってしまっており、これはあとで支柱をつけるつもり。春先からも含めてこのところの出来事には、まさにこのタイミングだと感じられることがいくつもあり、そうしたことはあるのだろうと思う。偶然とか必然というよりは、なにかの采配といった言葉が浮かぶようでもあり、ある道を歩いて行けば出くわすことといった感じもする。なんとなく、このまま変化していくことに加えて、耳を澄ますことが大切という気がする。

2025年8月19日(火)

しっかりめの掃除をしてすっきり。スーパーにて買いものを済ませたところ通り雨に降られ、急ぐこともないからと雨の当たらないベンチで空を眺めていた。夕餉に黄金桃という桃を食べたのだけれど、口のなかにくちなしの香りそのものが広がるようでびっくりした。もう一種食べた白桃系はくちなしの香りはそこまで強烈でなくて、もしかして好みの品種に出会ったのでは。

2025年8月18日(月)

だるくて気が乗らないなー、という判断で今週はお休みを取った。こういうとき気分を優先できるようになっててえらい。しばらく前から気づいていることとして、鉢植えのブリジャソットグリースといういちじくがふたつ、実をつけている。このいちじくは大鉢へ植える前に根を充実させようと思って、一年ほど前から手ごろな大きさの鉢で管理していたのだった。じぶんはいちじくの育て方が下手らしく、庭に何度も植えつけては枯らしたり弱らせたりしている。このブリジャソットグリースも枝葉が充実しないなあと思っていたところ、青くて小さな実に気がついた次第。うまく熟すまでそこにあるか疑問もありつつ様子見することにした。

2025年8月17日(日)

産直を覗きに行ったほかはうちでだらだらしていた日。

2025年8月16日(土)

のんびり。きのうのことをいくぶんゆとりを持って振り返り、「こういう人物との共依存から脱出できたんだ」と不思議にほっとする感じが湧いてきてる。大切なのは、これまでの関わりそのものは否定しないこと。そうすればこれまでのじぶんの判断や感性を否定せずに連れていける。空心菜の美味しさにやっと気がついて直売所で見かけると手にしてる。さっと炒め物にすると歯ごたえがあってうま味も強くて、すきな野菜だなあと思う。ふと思い出したのは、先の春にバンコクへ行ったとき海沿いのレストランで食べた、「朝顔のつるの炒め物」。翻訳アプリで読みとり注文したメニューだったけれど、いくつもの知らないスパイスがごりごりに利いていて、こんな美味しい料理があるんだとびっくりした。あの朝顔らしき野菜は空心菜かその仲間だったのでは。ついでに思い出す、露店で買った発酵ソーセージを巻くのに使った、チャプルー(ハイゴショウ)のぴり辛い美味しさ。(緑ではなく)青い胡椒、という表現が浮かぶような香りで、生のまま丸かじりすると野菜そのものが美味しかったのだった。日本で手に入らないかなーと検索すると苗だけは売っており、植物の世話をする気力があるときなら部屋で育てているかもと思う。いまなんだかしみじみと思うのは、好きになった野菜、旅の思い出、そうしたものの手触りがじぶんをやわらかく包んでくれることのありがたさ。宵のころからより強くなった雨音には身体が緩むのを感じるし、いまは安心をよく味わうのがよいよ。

2025年8月15日(金)

産直を覗いたり、模型店で花火を買ったり。分かるはずと思って伝えたことが分からなくて/受け入れられなくて猛烈な反発を受けたこと、その想定がもはや成り立たないのだから、しかたのないことだなと思う。ベースの部分で「これって対等なの?」と問うたことの帰結なわけで、そうではなかったことの証左かもしれず、おそらくじぶんが成長したことで身の丈に合わない服を脱ぐような営みの一環なのだろね。強烈な攻撃性が引き出されたことは、「してあげているのに不服を言った」というかたちなどでの、なにかしらの図星だったのかもしれない。というか、ケアやアドバイスは要らないと伝えたことが発端でこれなのだし、ある種の共依存があったと考えるとすっと通るけれど、どうだろう。愛情や献身と呼べばいろいろに解釈できるだろうけれど、それらを拒んだとたんに狼狽→豹変でこの有様であり、それらによる支配があった/その支配を逃れたのではという気がするよ。気は沈むわりに楽でもあり落ち着いているのは、食い違っていたことで苦しかった前提と事実を一致させたところにあるんだろう。それなら、受け入れるがよい。さて、どうしよう。手放すと入ってくるという因果はたしかで、よいこととそうでないことはあざなえる縄であるし、こうしたことが起きるのはものの運びが大きく変化しているしるし。すこし離れたところから花火大会の花火を打ち上げる音がどん、どどん、と不連続に聞こえてくる。きっと、どうしなくてもいい。日々の選択がじぶんをどこかへ連れていってくれる。であるなら、日々の生活をなるべくよいあんばいにしておくことには、よい流れを引き込む力があるはず。しばらくはそりゃつらい。でもね、痛みは痛みでしかないし、生きていて痛みを避けたら鈍感になっちゃうからね。力を抜いておやり、じぶん。

2025年8月14日(木)

注文ふたつを梱包し直して発送。途中、梱包材など買う都合もあって車でホームセンターへ向かい、買いものついでに広い駐車場の隅で車を止める練習をした。ひとまず初心者マークなど貼り付けたり。コンビニの駐車場に止めるのってむつかしい。おとといの出来事からずっとしんどい。動揺のあまり、直接の相手に向けたかった負のエネルギーで、身近にいたこちらが切り刻まれたのだなと思う。激しい警戒感と闘争/逃走反応を感じる。週後半を休めるように調整しておいてよかった。

2025年8月13日(水)

早めに出かけていって敷地内の人目につくところをひととおり手入れし、お盆後半をお休みすることをお伝えして、お昼には帰途へ。気持ちよく休むために自然と集中して作業したわけだけれど、こういうのって頑張りになっちゃうのか謎。鉢植えへの水やりの件で指示したTさんから話があり、奥さまもいいよって言っていたけどどうする? とのことだった。個人的に確執があると嫌なので、当該の方が出勤のときはこちらがうまいことやることに。そのTさん曰く、○○さんは九月か十月でアレだから、××ちゃん(職場では下の名前でちゃん呼びされている)が気を遣う回数もあとそんなにないと思うよ、とのこと。あー。具体的ななにかではないけれど、なんかあれこれ察するものはあるよ。。。この件に関するもやもやが晴れたのはたしかで、うちへ帰ってきてからはのんびりしてる。

2025年8月12日(火)

なにごともなく。友だちとやりとりしていたら途中からアクシデントがあり、話が別物になった。こうしたときは丁寧にやるのがよいよ。あすはお仕事へ行こう。人目につくところをひととおり整えて、あとはお盆休みへと洒落込みたい。

2025年8月12日(火)

朝、雨降りにつきあすまでお休みの電話を入れた。だるい件は指示した方に報告したところ、話に入ってもらうことに。しんどさから抜けた日。降ったり止んだり、日差しもさしたりと、気温は抑えめで湿度のわりに過ごしやすい天気だった。夜に窓辺でぬいとのんびりしていて旅客機の音を耳にしつつ、感受が外界へ向かっていることにほっとする。ふと思う、頑張りすぎ、引き受けすぎ、とアドバイスしてくれる人たちは周りに複数いるけれど、こういう思いでしているのだから見守るに留めてほしい、というように境界を引いたことがなかった。すればよいことをしなかったのは、いやでも、と返ってくるだろうことに無気力を覚えるからで、望み通りでありたい箇所には繰り返し境界線を引けばよいことなのだった。たぶん、アドバイスをすれば耳を傾けるひとという認識には、よいところもそうでないところもあるのだろう。いまやっと芯を形づくっているところで、ありがたいからといってなんにでも頷くのはそろそろ考え直す時期なのだろな。瞬発的な判断が出にくいのはじぶんの感情形成的な背景からしてひとまずそういうものと前提を置いたほうが楽だし、アドレナリンが即座に出るような神経系でいるよりはくつろぎすぎるじぶんがよいよ。じぶんの善し悪しで選択していることについて面倒でも、そのことだけでも、説明しよう。。。別の話として、孤独と呼ばれているものが世間ではいかに避けたいものか折に触れ語られるのを見るにつけ、あなた方はそうなんですねみたいになる。この話の留意点はただひとりでいられることと孤立感が別物なこと。こんな場末だからひっそり書くけれど、じぶんはおそらくすでにじぶんとの折り合いがついており、じぶんがすき、ひとりでいるときこそじぶんと共にいられる、という状態になっているのだろな。シゾイドパーソナリティーというのは背景や説明用の言葉でしかない。病中の沈潜、暗闇を行く感じ、あの時間が自己との対話になっていたのかもしれず、それと引き換えにいまの静かなよろこびやくつろぎが得られたのかもというのは、物語の様式のような不思議さがある。しんどさから抜けたのはそうとしていつもより書いているような。もう二時。これ書き込んで窓辺でのんびりする。

2025年8月10日(日)

雨降りの日。あすあさっても雨の予報なのでたぶんおやすみに。夜の道を車で出かけてスーパーまで行ってきた。往きて還りし。

2025年8月9日(土)

ねむたい。

2025年8月8日(金)

定期通院先へ。夕餉にすいかとメロンを食べ過ぎてねむたい。おやすみ。

2025年8月7日(木)

くだもの市場へ。帰り道、自転車に乗った高校生くらいの子が視界の端で転び、とっさに原付を止めた。どこが痛いか訊いたり、曲がった自転車のかごを直すのを手伝ったり。血が出るような傷はほとんどなく、立って動けるくらいの打ち身が主のようだった。あんまり気の利いた言葉も出なくて、帰って落ちついたらぶつけた箇所をよく確認してみてください、くらいのことを伝えて立ち去った。以前にも同じ状況に遭遇したことがあるんだよね。そのときは相手が恥ずかしがってこちらもうまく言葉を伝えられなかった、そのことを思い出す。誰かが急な事故や怪我に遭ったとき、車を運転してるから止まれないとか、他人に期待をするなとかではなくて、見かけたひとが駆けつけてくれるものであってほしいなーと願うよ。今回のように車が行き交うところでひとりで転べば、他人の視線と無関心を感じることは、怪我くらい痛いはずだもの。しんどさはきのうに比べて減じたものの、おとといの件でずっと腹が立っており、しょうもないことにリソースを費やしていると思う。夜は比較的涼しめで虫の声がよく通る。

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