イナカの灯台

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2010年11月

2010年11月5日(金)

ここ一週間ほど、原付であちこち出掛けていた。紅葉の下見という下心もあったのだが、十日ほど前に塩原の奥の上三依(かみみより)へ行ったときは紅葉はまだ始まっていなかった。ただ一本の木立だけが真っ赤に染まって、近くのそば屋のおっちゃんが嬉しそうに話していた。昨日、那須野ヶ原公園へ行ってみたところ木々が少し赤く変化していた。数日前に市内の母の実家へ行ったときに祖父が「あと一週間か十日でここらにも霜が降りる」と言っていたから、その通りなのだろう。黒羽の雲厳寺の境内はまだ青々としていたなあ。ゆっくりと秋が山から下りてきているのだろうか。

昨日の午前中は那須野ヶ原公園へ行ってきたが、何もせずに原っぱで昼寝ばかりしていた。良く晴れていたんだもの。昼時になり小学生の群れがご飯を食べにやって来て、寝ている側に陣取り始めたので、様子を見計らって退散。朝のうちはジョギング客や犬の散歩連れなど人が多かったけれど、昼を過ぎてしまうと公園内はやや閑散としていた。祝日の翌平日だからだろうか。園内をぐるりと一周、散歩して帰る事にし、ドングリなどを拾った。

夕刻、友人からメールが届いて、遊びに来ても良いかと言う。構わないよと返すと30分ほどでやって来た。相変わらず彼はうちの猫に目がない。「サキちゃん、会いたかったよお」などと猫なで声で言っている。猫も僕の部屋まで付いてきたので入れてやり、最近の出来事や音楽の話に花が咲いた。話に寄れば彼は、つい最近入社したばかりのケーキ屋を首になったそうだ。詳しい事情はここでは省くが、とにかく彼の友人の紹介で今度はパチンコ屋の従業員をやる事になったらしい。大変だったな、まあ次の仕事が見つかって良かったじゃないか、と言うと微妙そうな表情をしていた。彼も原付に乗って会社へ通うのだが、これからの時期は寒いからねえ、と言っていた。この辺りは冬になると「那須おろし」という冷たい強風が吹く。彼はヘルメットがフルフェイスではないため、風が当たって寒いのなんの、ということらしい。通勤も大変だ。

ひとしきり最近の一押しピアノ演奏家などの音楽の話題を語り合ってから、彼は帰っていった。すでに夜十時ごろになっていて、夜風がとにかく寒い。彼の原付はマニュアル式でもらい物のため、今日僕の所へ試運転に来たという事もあったのだが、発進するまでの手順がめんどくさい。僕のDioなんか楽だよ、地球にも優しい、などと軽口を叩いた。ようやくエンジンが掛かったのでさよならを言って見送り、ささっと家に引き込んでしまった。じきに霜が降りる。寒いのだ。

2010年11月10日(水)

原付で病院へ行ってきた。朝一番で出掛けた為、待合室で待つことなく診察。ついでにインフルエンザの予防接種をお願いする。看護師さんの話で、今年のワクチンは新型フルーと季節性の二種類が混合されたものだと聞かされた。去年の予防接種のときはそれぞれ合わせて二本の注射を打たなくてはならなかったと聞いて、去年の接種を避けておいた自分にうなずいてしまった。注射も採血も嫌いではないのだが。

十時半ごろに病院を出、買っておいたコンビニ弁当を近くの公園で食べる事にし、途中でブックオフに立ち寄った。開店まで駐車場で待つ事しばし、やはり一番で入店する。人気のない店内が気持ち良い。漫画本を三冊、あまり迷わずに購入した。僕は以前に、和泉なぎさ氏の「リアリスの私写真」と冬目景氏の「LUNO」という漫画を古本屋で見つけてから、「一冊で完結している漫画本」にはまっているのだ。もちろん物語の大まかな流れをぺらぺらっと読んでみてから購入するかどうか決めるのだが、四コマ漫画などを除き一冊で完結している漫画というのは、その性質上こじんまりと程よくまとまった作品に当たる事が多い。だらだら立ち読みして内容をある程度まで把握してしまってから家でまた読み返すというのは性に合わないのだ。関係ない事だが、一週間ほど前に105円で買ったダニエル・キイス氏の「アルジャーノンに花束を」はまだ手を付けてすらいない。ハツカネズミが出てくる話だったような。近いうちに読んでおこう。

店を出て原付にまたがり「烏ヶ森公園」へ向かって国道を横に逸れた。この烏ヶ森公園の真ん中には烏森神社というのがあるのだが、僕は今回来るのが初めてなので先に弁当を食べて一休みする事に。ベンチに腰かけて弁当とコーヒーを取り出しちびちびと食事。弁当のご飯に手を付けた瞬間、あ、これは失敗した、と思った。コンビニのレジで「暖めますか」と訊かれたとき、ぼんやりとしていて「結構です」と答えてしまったのだ。御飯粒がすこし糊化していて硬い。ああ、これはあんまり美味しくないなあと思い、ベンチ前の池の鴨に餌をやるまねをしつつ、黙々と箸を動かした。

野良犬かな半分ほど食べた頃、黒茶色の中型犬がリードも無しにとたとたっと駆け寄ってきた。周囲には飼い主らしき人物はいない。不意を突かれて足を動かすと、その犬はびくっと飛び退いて、ちょっと用心する様子を見せた。きっと野良犬なのだろう、うちの飼い犬も元野良で人の足の動きに非常に敏感だから、その反応ですぐ分かった。ひとかけの硬いご飯を地面に転がしてやったところ、ゆっくりと近づいてきてぱくんと食べる。もう無いよという身振りをすると池の向う側へ駆けて行ってしまった。耳の後ろに草の種を沢山ひっつけていたなあ。藪の中でも走っていたんだろう。

食べ終わって、コーヒーを片手に芝生のある方へ向かう。日が照っている間は昼寝なのだ。少し離れたところでは作業員のおっさんたちがなにやら談笑している。ごろりとくつろいでひなたぼっこ。焼けるような日差しが心地よかったが、一時間も経たないうちに広い雲の縁が太陽をかすめ始め、次第に薄日になり、とうとう曇ってしまった。日が当たらないとこの時期は風が冷たい。やおら腰を上げて芝を払い、神社のある方へと向かった。

烏森神社烏森(からすがもり)神社は松林に囲われた小高い丘の上にあった。階段を上ると少し息が切れる。歩いているうち四、五人とすれ違って挨拶。平日でも割合訪れる人は多い様子だ。そのうち頂上の神社にたどり着いてちょっと驚いた。普通の神社かと思っていたが稲荷神社なのだ。正確には神社の後ろに稲荷の祠がある、という風なのだが。朱の鳥居 祠 お稲荷さまキツネの小さいぬいぐるみを連れてこなかった事を少し後悔したが、まあそんな事はどうでもいい。祠に続いているらしい朱の鳥居をくぐると、あった。お稲荷さまだ。駒狐さま、とでも言うのだろうか、右と左で顔がちょっと変わっている。奥の祠はこざっぱりと掃除されていて、落ち葉よけなのかボンネットのようなもので被われている。真新しい銅板葺きの祠に青い榊。つい最近整備されたばかりのようだ。そういえば朱の鳥居の手前の神社の壁に古い絵馬が並んでいたなあ。誰かがいつも手入れしているんだろうか。

お稲荷さまの前に五円玉をお供えして写真に撮り、来たときに素通りしてしまった案内板をよく読んでみた。

烏森神社

一 御祭神 天照大神・豊受大神・倉稲魂の神・印南丈作/矢板武 大人命

一 創立年代 延喜二年(九〇二)創建
明治二一年(一八八八)四月五日 烏ヶ森稲荷神社遷宮

……

一 由緒沿革
烏森神社の前身、烏ヶ森稲荷神社は、平安時代の延喜二年(九〇二)、上石上村(現、大田原市)の農人田守という人が、烏ヶ森の丘の上に祠を建て、豊受姫命を祀り五穀豊穣を祈った事に始まると伝えられています。……鎌倉時代初めの建久四年(一一九三)、将軍源頼朝の那須野巻狩の際、この丘を展望所として、総指揮を執ったと伝えられ、……明治十八年(一八八五)四月十五日、開拓事業の成功を祈願し、那須疎水開削の起工式が神前で行われました。……明治二一年(一八八八)、社殿竣工、四月五日、開拓者の氏神として、……遷宮式(ご神体を移す式)を盛大に執り行い、烏ヶ森稲荷神社は、「烏森神社」となりました。……以来、烏森神社は「開拓のおやしろ」として崇敬され、現在に至っております。

平成十一年(一九九九)九月吉日 烏森神社社務所

社務所なんてどこにあっただろうか、と思いつつも、この烏森神社と稲荷の謂われについて中々面白い事が書いてあって、この案内板を素通りしなくて良かった。この辺りは昔から水の利が悪く、明治時代になって那須疎水が開削されたのだが、その当時の非常な苦労を偲ばせる遺物があちこちに残っている。僕も那須疎水開削の苦労を描いた演劇「那須の大地」を小学生の時に見た事があり、友人の一人が後年演劇でそれを再びやると言うので見に行った事もあり、地元の歴史としてちょっと興味のある事柄だった。那須野巻狩でも関わりのある神社だという事で、先だって玉藻稲荷神社を見てきている自分にとってはとても面白い。ちょっとWebで調べてみたところ、先月十月二十三・二十四日に那須塩原市で「那須野巻狩まつり」というのが行われていたらしい。隣の市なので情報が入ってこなかったのは残念だが、機会があれば来年行ってみたいと思う。

ちょっと話が逸れたが、「この丘を展望所として……」というくだりに感心して、丘を降りるときに下界を眺めてみると、松林の間から西那須野や大田原の町がよく見えた。そうやっていると何だか地元や地域の歴史が身近に感じられるから不思議だ。先々週に「那須野ヶ原風土記の丘」という史跡や文化財の展示施設で知識を仕入れてきた事もあるのかも知れない。近々またどこか歴史を学べるところを探してみよう。

2010年11月14日(日)

今日は母の誘いで笠間稲荷神社に出掛けてきた。車で揺られる事一時間半、茨城県の笠間市へ。

参道に近い駐車場はどこも満杯だった。母の目当ての「笠間の菊まつり」というのが10月16日から11月23日まで開かれているらしくて、加えて日曜日の朝だった事もあり、付近は人でごった返していた。この103回目のお祭りでは、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」を模した菊人形展と菊花の品評会をやっており、参道から手水舎、御本殿、裏庭の有料展示ゾーンに至るまで、笠間稲荷神社を貫くように五千鉢以上という菊花が展示されていた。

大和古流奉納たどり着いた朝十時ごろは、菊の花の香りが漂う中、拝殿の前の広場で「大和古流奉納」という奉納の儀が行われていた。男性が垂れ幕の的に弓を射って場を清めているらしいのだが、人だかりの為によく見えないしアナウンスも聞き辛い。四神の朱雀がどうだとか玄武がなんだとか途切れ途切れに聞こえてきている内に、儀は割とあっさりと終わってしまったらしい。七五三で来ている子供連れ向けの行事が始まったようだったのでその場を人に譲って離れた。手元のパンフレットによれば、大和古流(こる)奉納式とは、諸処の芸や道を継承している大和古流の当主がその奥義を奉納する式、なのだそうだ。

菊 虻社務所の反対側に展示向けの菊花がずらりと並べられていた。先日大田原市の産業文化祭でやはり菊の展示会を見てきたが、それよりもだいぶん規模が大きい。花の善し悪しは素人目には分かるはずもないのだが、一つ一つの花ぶりは見事だと気圧された感じがした。菊花の種類も数百以上と絢爛豪華だ。肌寒い空のもと、何匹かの蜂や虻がたかって蜜をすすっていた。

お稲荷さまの群れ御本殿の裏手の売店が建ち並ぶ方へ歩んでいくと、ケヤキかなにかの木の隣にお稲荷さまが地面に沢山並べられていた。石造りのものもあれば焼き物のものもある。見た感じどこか欠けたりしている風でもないし、どうして置いてあるんだろう。不思議な光景だ。

銀杏の紅葉裏門を出て菊人形の展示場である笠間稲荷神社美術館へ来た辺りで、あたりがやたら臭うのに気がついた。地面を見ると紅葉した落ち葉に混じって、銀杏が至る所で踏みつぶされている。これのニオイだったのかと少し顔をしかめながら券売所の脇を通った。正面に櫓があり、でん、と坂本竜馬とその妻お龍の菊人形が佇んでおり、日本初新婚旅行、とこれまたでかく看板が立っている。その周りを囲むように意趣をこらした菊の展示が行われていた。それは古都の風景だったり富士山だったりと、よく作ったなあとただただ感心するばかりだ。竜馬と加尾美術館の中では坂本竜馬の生涯をパネル展示と菊人形の組み合わせで展示していた。悲しい事に僕は高校で世界史や日本史を学ばなかったので、龍馬の事もあまりよく分からなかったのだが、江戸と明治という時代を駆け抜けた志士だったようなことは分かった。写真が大好きだったらしく、晩年はゆったり暮らしたようで何よりだ。

菊も見終わって、茶店で味噌田楽と甘酒を頼むとお茶が出てきた。気遣いに心も温まる。ちゃんちゃんこのお稲荷さまとちびコウ参道をぶらぶらと歩いている内にちゃんちゃんこを着たお稲荷さまを見つけ、ぬいぐるみと一緒に写真に撮った。仲見世でお稲荷さまの焼き物を見つけ、家の部屋に置くつもりで三寸のを買ってしまった。鳥居をくぐり表道に出ると、バスでやって来たらしい観光客達が大勢、門の脇の椅子に座っていた。その横でまたちょいと休憩。やがて歩くうち、笠間のマスコットキャラクター、いな吉くんというのが目に入った。辺りの店は笠間稲荷神社にあやかって、いなり寿司やキツネの焼き物などを並べているようだ。半ば歩行者天国とかしている道路を渡り、車に戻った。大変活気のあるところだったなあ。来るのに時間は掛かるが、また新年に入ったら行ってみたい。

おうちのお稲荷さまで、こちらが自室のCD棚の前に置かれたお稲荷さま。対でひと組だった。神棚が無くここしか場所がなかったので、ここにお酒も備える事に。何か御利益でもあるかなあ。

2010年11月18日(木)

大間々の展望台からこれは矢板市の八方ヶ原・大間々の展望台から眺めた那須地域。左手に那須連峰がある。本日の八方ヶ原は天気が変わりやすく少し吹雪いていた。

昨日は那須温泉郷の殺生石へ行ってきた。曇りがちな天気のもと那須街道を抜け湯本へ至る道へ。

殺生石のふもとから流れ出でる湯川を渡る手前の駐車場に車を止め、まずまっすぐ殺生石へ向かった。殺生石辺りは礫や岩がごろごろしていて歩けないため、観光用の歩道が敷かれている。一番手前にあるのは盲蛇石。これは案内によって「Mojaishi(もうじゃいし)」「めくらへびいし」と二つの呼び方があるようだ。この石は賽の河原と呼ばれる岩だらけの一帯にある。賽の河原のイメージからなのか単純に登山道としての中途にあるからなのか知らないが、そこかしこに小石が積み上げられている。ふつうはこれをケルンcairnと言い、いつ、どこで誰が始めたのか分からないくらい世界中の山々で見られる光景でもある。が、ここは亜硫酸ガスや硫化水素ガスの吹き出す死の地だ。亡者と鬼の三途の川縁といった方が似合っているのだろう。

盲蛇の湯の花木道を歩き、湯の花採取場へ至る頃には、辺りはすでに濃い硫黄の匂いで被われていた。ここの湯の花にも謂われがあり、昔、ある男が盲の蛇に出会い親切にしてやったところ、その恩返しとして湯の花の作り方を教わった、のだとか。側の小石を拾ってみると、それは黄褐色をした硫黄と小砂利の混ざったそれだった。

教伝地蔵賽の河原だから地蔵菩薩もいる。河原中央の教伝(教傳)地蔵と千体地蔵だ。実際には千体もいないのだろうが、ひとつひとつに編み帽子がかぶせてあって和む。花も供えてあるのは近くの温泉神社の人のものだろうか。教伝地蔵のあるところは教傳地獄と呼ばれていて、これまた昔、親不孝をしたために天罰を受け死んでしまった青年を供養しているという。

九尾の狐伝説、殺生石木道の突き当たり、正面の断崖上にあるのが殺生石だ。殺生石と言えば九尾の狐、玉藻の前。鏡が池のほとり、桜の木の上にいるところを三浦介義明に矢で射貫かれ絶命した……ここまでが玉藻稲荷での言い伝え。こちらでの伝えによれば、この妖狐は死後、更に毒石へ姿を変え毒気を放って人畜に危害を加えたとのこと。そのため「殺生石」という名が付いたのだが、案内板にはのちに会津示現寺の玄翁和尚が岩にこもる妖狐の恨みを封じ、ようやく毒気も少なくなったと書かれている。予備知識では確か、和尚が金槌(玄翁)で岩を打ち砕き破片が日本各地へ四散し、そのため各地に九尾の狐伝説が生まれる事となった、はずだったかな。大陸、つまり海を渡って飛んでいった破片もあって、それが向こうでまた伝説を生んだという話まであるくらいだから、玉藻稲荷と殺生石との間の伝承は多少のズレくらい構わないのだろう。

頬っ被りのきつねさん 那須湯泉神社と九尾稲荷木道を左手に逸れて橋を渡って数百メートル行った先に、那須湯泉神社と九尾稲荷がある。何だかこの雑記ではキツネや稲荷神社の事ばかり書いているような気もするが、烏ヶ森稲荷といいここといい、なぜ稲荷というのは脇とか隅っこのほうにあるんだろうか。それはともかく、この九尾稲荷神社には詳しい説明書きが見当たらなかった。造りもそう古くはないし、おそらくは九尾の名を冠したのみでごく普通の、五穀豊穣を祈るための社なのだろう。

那須温泉の発見にも謂われがある。七世紀頃の昔に、狩りで傷ついた白毛の鹿を狩人が追っていたところ、その鹿が温泉に浸かり傷を癒しているのを見つけた、というのが那須温泉の初まりだという。

鹿の像近くに足湯に浸かれるあずま小屋があったので入ってみた。結構熱い。足湯は二つの湯に分かれていて、僕の反対側の湯ではおばちゃん方が三人、同じように足を浸かりながら談笑していた。しばらくして湯から上がり帰り道へ戻っていったが、家に着くまで足はぽかぽかしていた。うむ、今度は体丸ごと湯に浸かりたい。

2010年11月20日(土)

馬鹿みたいに天気が良かったので散歩に出掛けた。

よく分からない山の中を登ったり降りたり、農家のおっちゃんに道を訊いててくてく歩く。干してある大根家の前にぬか漬けのためのものであろう大根が干してあった。山の中なので起伏が激しい。くねる林道を歩くのは楽しいが、上り坂はあんまり面白くないな、などと考え事をしながらぶらついた。農家のおっちゃんの話で羽田沼だけでなく琵琶池にもハクチョウは来るよという事を教えてもらったので、ハクチョウ到来の季節になったら行ってみようと思う。一時間ほど歩いただろうか。万歩計を持って出るのを忘れたので詳しくは分からない。額に汗がにじむほど良い天気だった。落ち残った柿

午前中に郵便が届いた。何かと思って差出人を見るとVISIT FINLANDとある。思い出した。一週間ほど前、フィンランド政府観光局(リニューアル中らしい)のWebサイトで観光案内の資料を送って貰えるよう頼んで銀行振り込みをしてきたのだ。

何故唐突に観光パンフと思われるかも知れないが、体を最も壊していた時期に、僕はパンフレットとか本屋の無料小雑誌を集めるのに凝っていた。空想や妄想の種を育むのにそれらがもっとも手頃だったのだ。そういう事をarmchair travelingと呼ぶ事を知ったのは結構後になってからだ。あまり関係ないがarmchair travelerでググると最初に出てくるAmazonのAmazon.co.jp: The Armchair Traveller;Southbound:というアルバムは僕も持っている。中にはode music productionの創始者となったbayakaやchari chariの名で知られている井上薫氏など大御所の音楽がいくつか収まっている。紙のジャケットの内側には雪国を歩く場面と南国の浜辺に横たわる座椅子の写真が拵えてあって、Southboundの名の通り南へ旅立ちたいとき聴くと良い一枚だ。

話が逸れたが、僕は元来空想好きな上に収集癖持ちだった事もあり、あちこちの観光パンフ集めは次第に熱狂的なものになっていった。そこで興味を持った(最近は「触手を伸ばす」とも表現するらしいな)のが世界各国の政府観光局で配布しているパンフレットだ。ネットで資料請求出来る国のものはほとんど集めたと思う。んで、今更になってフィンランドのパンフを請求した理由だが、フィンランド政府観光局刊行の「トラベルノート」を久しぶりに眺めようとして部屋を探したのだが見つからないのだ。置く場所は本棚しかないから迷うはずはないのだけれど、良く引き出すからだろうか、どうにも何かの拍子に無くしてしまったらしい。仕方なく再度請求をした、というわけだ。フィンランドの観光パンフ今回届いたのがこちらのパンフ達で、画像の中の「Finland Summer Guide 2009」以外のものは無料で上記のサイトから請求出来る。もちろん他に有料パンフは沢山あって、フィンランド観光局のものは出来が良く内容も充実しているので、一度サイトからご覧になるといいだろう。

政府の観光パンフというのは七割方が有料で、ネット上からの請求の半分位は切手支払いとなっている。観光収入に力を入れていない、若しくは自国を広報する手段をWeb上に持っていても内容に乏しい国々は、資料を請求しようにもそもそもフォームが無かったり、どんな資料があるのか書いていなかったりする事が多い。そういうときは都の各政府大使館へ足を運んで訊ねればいいだけなのだが、何せ今暮らしている地元は首都圏とはいえ端の端っこだし、熱烈に蒐集していたころは関西の方で生活していたしで、訪れる機会に恵まれずにいる。今はもう熱烈な衝動と妄想がやってこないので、いずれいわゆる「若い頃集めていたレコード」になるのかなあ、と思ったり。

フィンランド政府観光局刊行トラベルノート「トラベルノート」の事。親しみやすいテンポで綴られた38ページの小雑誌で、国の統計情報から首都ヘルシンキ周辺の地図や施設・散策案内、フィンランドに関する細々とした図鑑などど、とても濃い内容となっている。想像を刺激するのにちょうど良い写真と文章のバランスが旅へのあこがれを非常に良く?き立ててくれる。僕は現在体を壊して療養中の身だが、それを治して海外へ行けるようになった暁には、夏の北欧にもぶらっと行ってみたいと思う。

2010年11月21日(日)

大田原市佐久山・御殿山公園の紅葉祭へ行ってきた。箒川を渡って段丘を登り、佐久山街道へ。一見寂れた感じのある街路だが、この地域では結構頻繁にイベントや祭りが開催されている。

紅葉祭開催期間の末日・十一月二十五日までは、午後五時から九時半あたりまで園内のライトアップが行われているとのこと。もう時期的にぎりぎりだし、折角のいいお天気なので昼間に出掛けた。駐車場の脇ではおっちゃん達が仮設テントのもと談笑しており、公園の入り口で地元のおばちゃん達がおでんや甘酒、大判焼きを売っていた。財布の中に百円玉が一個転がっていたのでそれでおでんのこんにゃくを買った。ほんのり柚子の香る味噌を付けてもらって、まずは食べる。地元らしいそれなりな賑わいの中で、携帯電話から一眼レフまで様々にカメラを持った人が目の前を通り過ぎていった。

カエデ ツタが登る 一面の紅葉御殿山公園は山の側面にある。眺望の良い場所を探して傾斜の急な階段を上りながら、辺り一杯のカエデの大木を見渡した。名札を見ると土佐楓とある。何故土佐なのか分からずにいたが、今ググったところではこのページ那須高原の四季 佐久山御殿山もみじ祭が詳しい。以下、引用の引用。

佐久山御殿山公園の楓について

安永年間(1772~1780年)佐久山藩主として四国山内土佐守一豊の子孫である資敬公(福原家佐久山藩23代藩主)が養子として迎えられた時、純粋の土佐楓5~6本を持参し、佐久山城敷地内に植え故郷を偲んだと伝えられ、今は1本のみ現存している。

佐久山地区活性化協議会が配布する資料を引用

佐久山と聞くと僕はどうしても夏場の花火大会を思い出してしまうのだが、ここ御殿山公園は佐久山城趾であり、割と市内でメジャーな方の観桜、観楓スポットだ。丘陵の南東側にある展望台に登ってみると大田原市街地が一望出来た。少し下に目を動かすと箒川、佐久山街道(旧陸羽街道)、佐久山小学校が順に見え、学校脇の銀杏の木が見事ビビッドな黄色に染まっていた。

園内をぶらついているうち、枯れ草の茂みに鳥居が立っている事に気がついた。見ると御殿山稲荷神社とある。こんなところにも、と、思わず写真にぱちり。鳥居 質素である。駒狐さまはいなかった。灯籠の後ろに寄進と書いてあり、雑草に半ば埋もれるように石碑が立っている。

御殿山稲荷神社

縁起

此の稲荷神社は鎌倉時代則ち文治三年那須の守護那須太郎資隆公次男佐久山次郎泰隆公此の地に初めて築城せし折城内鎮護として京都より伏見稲荷の神霊を奉祀す

……

廃藩置県後は旧藩士により祭祀し護持されてきたがその社殿老朽し仍って佐久山在住藩士子孫十七名相計りここに新殿を建立す

……

平成十年七月吉日

漢字ばかりで読みづらいが、文治 – Wikipediaという年号は十二世紀、鎌倉時代のもの。那須太郎資隆というのは那須氏初代当主であり那須与一公の父親であるらしい。此の稲荷神社、かなり由緒と歴史ある代物だ。その割には参道は雑草で一杯だったし、こっそり覗かせてもらった内部は質素な造りになっている。まあいいや、こういう神社のあり方も、忘れられずにいるだけ恵まれているのだろう。

割とあっさりとした帰り際に近所の母の実家へ立ち寄っていこうと思い、手土産に大判焼きを買った。売店のおばちゃんの話で、近々市だったか地元新聞の写真コンクールがある事、上手いのが撮れたら応募するといいよという旨を聞いた。いやいや、と苦笑いしてその場を立ち去ったが、そうだな、そういう目標の建て方もあるなと思った。

それから実家に向かい、祖父と祖母に御殿山稲荷神社の事を尋ねてみた。「お稲荷さまといったら警察署の前のだろう」。どうやら地元の祖父母も御殿山の稲荷神社の事は知らなかったらしい。代わりに、近所で「お稲荷さん」と呼ばれている、個人のお宅で祀っている稲荷(神社ではない)のことを聞かせてもらった。ああ、確かにあの民家の脇には鳥居があるが、稲荷だったのか。そう話しながら、この地元の史跡の話もしてもらった。年上の人の話は聞くものだなと改めて思う。今度晴れている日にその辺りへ出掛ける事にして、今日はこの辺でおしまい。

2010年11月23日(火)

黒羽矯正展行ってきた。毎年この日になると近くの県道沿いが渋滞したものだが、今日に限っては午前中の雨模様にやられて人出も押さえられた様子だ。みかん一箱と煮卵六つ、函館少年刑務所謹製の○獄(まるごく)ポーチなどを購入してきた。○獄ポーチ

この矯正展の展示販売家具は品質が非常に高く、数万円から十数万円という価格に抑えられた家具が赤札で掛けられ、日が高く昇る頃には続々と売約済みになっているのだ。総檜の日光彫りなどに触れてきたが、質感のずっしりとしたそれはしかし決してくどくないという印象を受けた。

ところで、いつもの日記。「何処其処に行ってきた」では飽きてしまうし、そろそろ過去に追いやってよい記憶だと思うので、僕がかつてそこにいた場所の事を誰にともなく紹介しておく。

人は誰しも多くの陰を抱えて過ぎ去って行くもので、僕の駆け抜けた時間もそうだった。過去形で書いているのは今現在、僕が自分の人生の一部をすでに生きたと感じているからだ。全うしたとは言えないが、今の自分につながる時間と時代を駆け抜いた、そういう実感がある。有り体に言ってしまうなら孤独の連続で、それに割と偶然にも耐えきってしまった自分が居た、耐えきる事に人生の一部を賭けていた。かつて「人生、59敗1勝くらいでいいんじゃないか」と教えてくれた方がいたが、僕はすでに一回勝利して、今現在を有余と猶予の渡河にいると感じている。

現実に話を戻せば、僕が実際に居た、ポラロイドSX-70の600高感度フィルムの青さに似た時間と場所、それは京都駅の屋上だった。正確にはJR京都駅伊勢丹ビル側の屋上庭園を臨む工事現場だ。京都駅ビル屋上にヘリポートがあると知ったのはこのときにだった。

至るまでの通路はこうだ。草津方面から東海道線を下車し西跨線橋を中央改札口へ向かって歩く。一階の中央コンコースをJR京都伊勢丹、The CUBEに向かいエスカレーターをてっぺんまで上がる。正面に位置するJR京都伊勢丹ビルの右側入り口を跨ぎ通路を突っ切ると、ビルの屋上庭園とは別の工事現場へ至る非常階段がある。ここは常時警備員が徘徊していて鬱陶しい事この上ない。七階辺りまでの扉一つだけは従業員の清掃業務のため必ず鍵が掛かっていない。頃合いを見計らって、時間は夜か昼の十時過ぎ辺りだろうか、階段を一気に非常口まで駆け上がる。鍵には緑のプラスチックの鍵カバーが掛かっている。これを外してまたかぶせ、ドアをくぐる。周りはフェンスに囲まれた一坪庭、向う側には京都伊勢丹屋上庭園が見えるはずだ。フェンスを跨いで登る。左側コンクリート壁の下の陰に脚立が隠してある。これを立たせてコンクリを素早く登り、あとは架線にそって剥き出しの忘れ去られた工事現場を渡り、L字にもう一つの屋上非常口扉が見える位置まで小走りに駆け抜けていけばいい。

そうすると少し開けた場所に出るだろう。目の前にはどこからか通じている非常口と、もう一つコンクリ壁に打ち付けられたはしごがある。これを登れば、京都タワーを除き京都で一番見晴らしのいい屋上に至る、というわけだ。

あの場所には大切な思い出が残されている。が、僕はそこを立ち去って、もう別の人生の渡河にいる。僕の第一の生は言ってみれば屋上と青空だった。立つ鳥跡を濁さずというが、僕がこれまでの事々と別れるにはいつも、文章に直すのが一番の方法だった。あとは誰かがあの空や屋上を受け継いで、それをまた誰かに受け継がせて行けばいい。

この文章がWebのキャッシュのどこかに幾らかでも残り続ける事を期待して、今日の日記ここでおしまい。

2010年11月25日(木)

先日祖父から聞いた金丸の飛行場跡の倉庫を見に、那須野ヶ原CCの辺りまで行ってみた。行ってみたと言っても、常々通る道の脇だからたまたまちょいと折れて入ってみた、というのが正しい。平べったい弧を描いたコンクリートの壕があった。金丸原飛行場跡こちらの金丸原飛行場跡というページが詳しい。祖母の話では戦時中(小学三年生だったか)、兵隊さん達がぞろぞろと宇都宮駐屯地から金丸演習場までの40kmの道のりを歩いてきた場を見た事があると言い、へとへとに疲れ切っていたその様子がかわいそうだったと語った。その頃、太平洋戦争のことを大東亜戦争と呼んでいたという。

祖父の言っていた警察署の前の「御稲荷さん」にも今日行ってきた。経塚稲荷神社だ。学生の頃、良くこの辺りで昼飯を食べていた。朱の鳥居 駒狐様 ひがん桜石碑に寛永十年(一六三三)建立とあるから、そう古いものではないらしい。少なくともこの辺り一帯の、那須野巻狩の前後に建てられた神社・稲荷とは別の性質のものだ。例大祭は四月第一土曜日、神域を護る杉木立の隣にある「ひがん桜」の樹齢は約180年とのこと。社務所は公民館を兼用していた。この稲荷、地元の人々に親しまれながら今に至る、地域密着型の神社のようだ。まあ稲荷というものはだいたい地域と密接な関係を持って存えているものなのだが。佐久山の御殿山稲荷神社のようなのは多分例外だろう。

近くの交差点の角に珈琲専科・茶羅という喫茶店がある。以前に何度か立ち寄った事があり、ここは外観も内装も、いかにも純喫茶という風で好ましい。ただメニューがおしなべて高めだ。経塚稲荷神社のついでにと、ぼちぼち立ち寄って中へ入った。ちゃらんちゃらんとドアベルが鳴る。

カウンターにつくとしばらくしてメニューとおしぼりが渡された。何の気なしにカプチーノを注文。待っている間、ぼんやりと辺りを眺めてみた。正面の棚には高価そうな金の縁取りやら何やらを施されたコーヒーカップが並び、真ん中にはブランデー等のお酒の瓶が置いてあった。多分このブランデーでカフェ・ロワイヤルなんかを淹れるのだろう。棚の下にはKEY COFFEEの青い缶がマンデリンとかグアテマラとかキリマンジャロとかのラベルを貼られて置かれており、目の前のカウンターの向こうで小さめのサイフォンが三つ、静かにバーナーで炙られていた。店の奥ではスーツを着た男性が新聞を広げ、近所の奥様連中がなにかしら雑談し、入った事のない右側の部屋にも誰かいただろうか。横のおっちゃんが「んじゃ、そろそろいくか」と独りごちてお会計の方へ歩いて行った。

肘をついてしばらく瞑想していると「どうぞ」とカプチーノ。GABANのロゴの入ったシナモンスティックが添えてある。質感と香りから察するにセイロンシナモンだろうか。クリームの上にもシナモンが一振りとオレンジピールがちょっぴり。とりあえずカップに口を付けると、冷たくて濃くさっぱりしたクリームと熱々のエスプレッソの層が流れ込んでくる。クリームは何か変わったものを使っているようだが、僕の舌では分からなかった。一息ついて、スティックでくるくるかき混ぜながら、小説のネタの事やなんかを考え、ひとくち、ひとくちと飲んでいるうちに時間が過ぎていった。

割と長居せずに会計をして店を出た。そういえば学生時代は良くこの店の前を通ったが、入る事は結局無かったな。それだけ僕自身が変わったという事でもあるのだろう。またの機会にここへ寄ってみようっと。

2010年11月30日(火)

大田原市の諏訪神社と不退寺の薬師堂行ってきた。どちらもこまめな手入れが行き届いているようで好ましい。

諏訪神社諏訪神社にはいわゆる大東亜戦争で亡くなった戦没者の慰霊碑がある。……と知ったのはこの神社を一巡りしてみたときで、先日の雑記の戦争つながりで書くのにちょうど良いからここにピックアップしてみるだけだ。時代は昭和十四年八月の北支那から昭和二十年の九月シンガポールまで、没年は二十一歳から三十一歳、十一名の名が掲げられている。若い。僕と同じくらいの年頃だ。言葉にするにはちと重い。灯籠

諏訪神社は大田原自然遊歩道の第五コース、ホロの碑と境の松との間にある。都市計画道路三三一号線(国道四百号線)のたいら屋前交差点を南側に折れ、道なりに数百メートル程行った右手の杉木立だ。下枝が払われて道沿いからも社殿が覗けるので行ってみれば簡単に分かる。

諏訪神社を後に不退寺薬師堂へ向かった。大田原の旧中心街、与一通りというのだったか、その通りの突き当たりに薬師堂はある。蛇尾川方面から蛇尾橋を渡ってまっすぐ商店街を行けば正面に参道と大銀杏の木がある。ちょっと言うと、先ほど触れた諏訪神社の道沿いにも大銀杏があり、こちらの方は杉林に囲まれていて紅葉の季節以外はあまり目立たない。どちらの銀杏も樹齢は分からないが同じくらい背が高く立派だ。

一面の黄色薬師堂は参道の辺り一面に銀杏の黄色をまき散らして佇んでいた。雲一つ無い晴天のもと、その黄色が眩しく染み入る。通りかかったおばちゃんとすれ違って挨拶。案内板に有形文化財の文字があり、寛永年中(1624~1644)ごろ大田原氏によって建立とある。先日の雑記の経塚稲荷神社と成立した時代が重なるあたり、この時代の大田原(大俵が語源とも言われている)は城下町・宿場町として大層繁栄していたんだなあと思う。それを象徴的に表していたのがいつぞやの金灯籠なのだが、金灯籠そのものはこの雑記に書いたとおり旧市街地の活性化のための家屋解体とビル建築にあたり場所を移されてしまい、今では街の交差点の読み仮名にその名がただ残るばかりだ。

幾つかの案内板を巡って回るうちに面白いものを見つけた。「大田原の盆おどり唄」というもので、昭和53年9月7日選定とある。この盆踊唄は毎年八月の与一まつりで行われている盆踊りだ。以下抜粋。……大田原の盆おどり唄の起源についてはつまびらかではない。発祥の地は下町(中央二丁目)薬師堂の庭とも言われている。……唄の節回しも田舎節から都節に変わり、音楽的に統一性を欠くが、一種独特で他には見られない節回しである。……大田原の盆踊り唄は残り少ないふるさとの盆踊唄の一つである。……

薬師堂では冬の間に甘茶を振る舞うイベントがあるのだが、詳しい日程を失念してしまった。下町のささやかなお祭りだから見逃してしまうかも知れない。花市の頃だったかな。まあ出会えたら幸運、位に思い留めておこう。

話変わってメールアカウントの掃除。今使っているメーラーはnPOPQというもので、これがシンプルで使いやすいのだが更新停止からずいぶん経つソフトだ。今日はWindows Liveメールを使って、普段特に巡回していないアカウントも含めてお掃除とバックアップを取ることにした。未読メールが1037通、そのうちYahoo! アカウントの広告とSPAMが半分。ネット記事の定点観測をしているGmailアカウントを読了にして、私用でいくつかメインで使っているZenno.comのフリー・100円メールの容量確認やら細々とした調整。Zenno.comのWebメールは出先で使うのにもってこいなので重宝している。ぷらメールは仕様が複雑なのでメーラー側で振り分け。nPOPシリーズの当初の目標はフロッピーディスク一枚に収まる簡易メーラーだったらしいが、今ではWebメールやUSBメモリと言うものがあるし、しかし使い慣れたアプリを手放すには少々惜しいということで、現在から当面の間はこのnPOPQとカスタマイザひとつでやっていく事に。なんとかバックアップも取ったし、メーラーも定常運転へ。

Webを検索していて、昔の大学の先輩を見つけた。サークルが同じだったので何度か世話を見てもらった事がある。セミプロのアコースティック・ギター弾きの方で、こちらのYoutube – 「風を誘う少女」は昔、その先輩から200円で買ったオリジナルCDに収まっているそれのバージョン違いだ。とてもいい曲なのでもっと他の人に聴いて欲しいと思う。こんなWebの片隅からだが一応、エールを込めて。

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