なにごともなかりし日。雨の降る宵ごろ、ふと気持ちが緩み身体の緊張が解け、心を動かされるような涙ぐむのに近い感覚があり、それに伴って『ムーミンパパ海へいく』のラストのあたりの描写が浮かんできた。ので青い鳥文庫のそれを取り出し読み返していた。『ムーミン谷の仲間たち』で、ムーミンパパは若いころのあこがれ/空しさ/冒険家自認とは折り合いをつけ家庭の父親を引き受けたことが描かれているのだけれど、『海』ではさらに、頼られる/守る/強い/よく知る父親でありたい、一家の長でありたい、こうありたい、という像を描いてうまくいかないじぶん自身と和解したのだな、ということがきょうになって腑に落ちてきた。それは「らしさ」という役目から離れ、ただパパがパパであることの引き受けだったのでは。ムーミントロールは思春期に入って秘密を持ったり別人としての表情を見せ始めるし、ムーミンママも優しいみんなの理想像としてだけではなく怒る/メランコリックになる/プライベートを持った個人として振る舞ったり表現することを獲得するし、そこにパパ自身の和解が加わり、危うさを見せていた一家は家族の再生を果たし、落ち着くべきところへ落ち着いたのだと思う。再生が必要だったのは物語群のテーマが外の脅威からひとりひとりの内面へ移行していったこともあるし、メタ的には人気の出すぎたムーミン/外からのこうあってほしいという圧のかかるムーミンに対して、トーベの疲れやシリーズを終わらせたい思いがあったから、という理解。再生と言って収まらなければ、ムーミン一家は『海』で自由を再獲得した、と言い換えてもいい。それはそれとして、『海』のラストの描写を味わっているといつもそうだけれど、じぶんとしてはめずらしく時間を忘れて感動するという、いまいち伝わらない表現になる。夜の波打ち際にとどろくむちゃくちゃな荒々しさと不思議なほどの静けさ。そこにパパの海があった、という筆致。そこに描かれているとおり耳のはしからしっぽの先まで生気があふれてくる、そういうこちらの気持ち。そしてそれはパパがそうしたように、もし自身と和解できたときにはそうなるという気持ちなのだな、と腑に落ちた。小説のムーミンシリーズは小学生のころ出会ってからというもの折に触れかじるように味わっているけれど、こちらの段階に沿って読み方が変わってくる本というのは、希有なことだよ……。話は変わりそのあとの夜更け、ランプの前でぬいを抱きながら雨の音を聞いていて、じぶんの内面で段差のように引っかかるものがあるならそれはなんだろ、とサーチしていた。他者に怒りや反感や敵意を抱くこと、というのはそうと思った。そしてそれらの感情はまず自己へ向いたものが受け止めきれずに他者へ投影されている、和解とは対照的な、内的な敵対状態だとも。そこで起きていることの基本は自己-自己の反応であって、じぶんの弱さへの怒りや見つめたくなさや耐えられなさ、規範の強さからくる反動、抑圧とそこへの反発、そうしたものなのでは。それでふと、「他者にいらっときたら、そう感じたじぶんを許してみる?」と問うてみた。体やこころを構成するひとつひとつからの応えは揃って「そうすると気持ちいい、快楽だよ」というもの。それで思考する自我にも同じく問うてみると、やはり気持ちいいし、みんなの応えなら受け入れられるし、自己が作り替えられることも快楽だよ、という反応。ので、満場一致としてとりあえず上記の問いを採用。一貫した態度にならないかもという自我からの懸念はあったけれど、なにごともまずコンディションのよいときからできるようになっていくもので、それが身についてくれば場面ごとの広がりもあるはず。じぶんの内側に快楽という声での肯定のしかた/意思表明のしかたがあることがちょっとくすぐったい。一日でこれ以上の内的な声を求めるのは要求しすぎと思って自己対話を切り上げ、この雑記を書いてる。というか書き終えた。あとはねむる支度。
2026年4月14日(火)
起きるとすっかり楽になっていた。とはいえ身体は病み上がりといってよいみたいで、日がなストレスを感じてメンタルはしんどかった。夜になり楽になってきたけれどさ。遅れていたプロフィールカード作成をしてメールで送り、JAFに入会し、なぜか一部でだけ使えないカードのことで骨を折り、やっとタイヤ交換を済ませた。えらい。麻疹の感染状況を鑑みるに流行ると困るから、当該ワクチンを打っておきたい気持ち。急ぎではないものの帯状疱疹ワクチンもできるとよいのだけれど。じぶんを振り返るに、もうそろそろ身体を手入れしないとただ健康ではいられない、ということを実感してしまうね……。夕餉を食みながらかえるたちの声を聞いていた。
2026年4月13日(月)
朝から歯科へ行っておくすりを出してもらった。そしてしんどさにげんなりとおふとんで過ごすうち夜。いずれちゃんとした治療が要るとは言われたものの、現時点で五月を空けることはできないから、成り行きを見つつ治療予約を入れよう……。ひとまず眠れば楽になるし、起きたときにはましになっているはずだよ。フィジカル由来のしんどさと分かっているこんなときには、なにが辛いかの判断はしない。九州の海沿いの道の駅をGoogleマップでリストに入れていた。なまじ北海道という基準があるせいで九州にも身構えるのだけれど、九州一周を満喫するなら9泊10日コースみたいに書かれていても、それって点と点を移動して結ぶ感じなのかなーとか思う。回収しない、達成を取り入れない、予定も作らず、ただ気の趣くまま旅先で過ごすというのは、時間というものに対してすごく贅沢でありたいとじぶんは望んでいるのだな。景色や空気というものが、味わえるとたん嗜好品の趣を帯びてくるということについて、ほんとうはとくに非日常である必要はないのだろな。また別に、旅とか旅行とか書いておいて、旅行のなかに日常が構築され始めるという意味での旅はしたことないなー。それにしても、旅することで広がるのはじぶんの内側の風景なのだろう。
2026年4月12日(日)
五月のような爽やかな日差しと青空だった。そして風に当たっているといくぶん冷える。日中の物陰にはまばゆい季節特有の青みが乗ってきた。桜も散ったなーとあたりの木々を見つつ、切り替えのある気候だことと思う。桜がすっかり散ってしまうと、じゃ、もの憂いのはこのあたりでね、さあてここからはやることやっていかないと、みたいに足早な新緑の気分のようなものを感じる。そしてそれに追いついていけずにぼんやりしているじぶんのことも。葉桜が伸びていくなかで気持ちも身体も佇んだままなのは、学生のころからあいかわらず。あいかわらずというのか、この感覚は時をあっさりと越えてあのころと共にある、というのか。身体的。しょうもない話になるけれど、歯茎が腫れてしまい週末で病院がお休みなため、余りものの痛み止めと抗生剤でやり過ごしていた。おくすりに対するふしだらさも比較的あいかわらず。主治医から言われてここで触れていた「いまのじぶんに満足してみる」について別の角度から思ったのは、じぶんはじぶんに限界を認めていない、限界があるという前提をしていないな、ということ。一度は損なわれた機能であってもこの先は回復し続け緩やかに上昇し続けるみたいな想定がある。その側面で言うと障害を負うということに無自覚とも言えるのだろうか。そのあたりにおいて諦めるという発想はそもそも知らない潔癖な感じ。んー、どうだろうねえ。できることとできないことを受け入れろ、というのも違う気はしているんだよ。でも、このあたりの考えについてぜんぶを一度に書き出さなくてもよい気がしている。夜はまだ冷えてルームシューズが要る気温。ポケモンZAはひとまずエンディングが流れ、しんみり。ストーリーはまだ続くようす。キーボードを打つ手が止まり、なにか思案していたことはないかと頭のなかを見渡している、この感じがもしかしたら居心地はよいのかもしれない。書き出すだけ書き出したら一時的に空になる、その瞬間は、瞑想しているかのように思考がなくて軽い。ふだんほとんど触れないことだけれど、大変な時代だと思う。情報革命という苛烈さのなかにいるし、疫病も戦禍も日常的に触れているし、個は分断されやすく、欲望と抑圧が社会経済を駆動している。勝ち筋に乗るというやり方は個人的にしたくない一方、ちゃんとしなければという自己監視も強引に強いられたくはないなという思いがある。平穏はほしいものだけれど、それについてのさまざまな条件や留保、意味づけ、じぶんがなにをするのかということになると、歯切れのよい語りにはならない。夜更かしの時間を明朝へ回せるならよい傾向だね。おやぷみ。
2026年4月11日(土)
なにごともなく。日中は暑いくらいで部屋着をちょっと変えたり。体や心の声を聴くといってもそれは受け身になることではないなとか、ひとたび世界そのものが歪む体験を経ると基準というものが分からなくなるものなのだけれどとか、思考のなかにいる限り出口はやってこないよねというひまな過ごし方。ひまでいるのはいいけれどね。じぶんに無理強いをしないということについて試行錯誤だと感じているのは、そこの力み自体を緩ませられるとよいのだなとか。出口のない思考が走るときってそれがある種の安定状態になっていて、思考から離れるためになにかするというのが正解なのだよな。メタ的になっているね。ここで切り上げるのがいまの正解。
2026年4月10日(金)
またタイ料理の居酒屋で昼ごはんを食べた。メニュー表を見ているとおかみさんが裏メニューというなんだったかを提案してくれて、それに。ほかの席では酒の入った中高年男性らが殺伐と駄弁っており、こうした人たちもいるんだなーと思う。なんだか気分はよくて、ひとりで水をちびちび飲んでいた。カウンターの上には包装に入ったたらの芽が大量に並んでおり、訊くとここで売ってるよとのこと。確かめなかったけれど、その場で調理したりしてもらえたんだろうか。運ばれてきた料理は豚の各部の肉と巻いた餃子の皮を使ったボリュームのある煮込み。一度にこんないろいろな豚の肉を味わうのって初めてだ。骨までやわらかくおいしい。あとで伺ったところによると大鍋に作っており、それを買いに来るひとたちがいるとのこと。お会計の際におかみさんが揚げたばかりのたらの天ぷらをひとつくれて、思いがけないかたちで山菜を味わい、テイクアウトも受け取りつつお店を出た。そのあとは雨のなかを車でふらふらしつつ帰途。そのあとはポケモンZAを久しぶりにしたり、仔猫の相手をしたり、なんとなく過ごすうちに日付を越えていま。思うのは、じぶんはひとさまから分け与えても減らないものを贈与されている、そのひとの持つ幸を受け取っている、ほかのかたちにはならないものをおすそ分けしてもらっている、そうした感覚があること。たらの芽の天ぷらいただいてうれしかったもんね。いろいろ思い当たることはあるのだけれど、こうした感覚はじぶんのなにかへと回収せずに、ひととじぶんのあいだの流れや循環として捉えるとよいのかな。ほか、思い当たることといえば、やはりあの長年しつこかった怒りの感情になにか変化が起きていること。感じていることはあるけれど、いまはあまり言葉で確定させたくないから言及はこれくらい。このところ生活が乱れていたからほどほどでおふとんへ。
2026年4月9日(木)
納品へ行ったほかはだらだらと過ごす。
2026年4月8日(水)
なにごともなく。あすは喫茶店さんへ、納品と契約内容の確認に。
2026年4月7日(火)
なにごともなかりし日。
2026年4月6日(月)
なにごともなく。なにか不安のような焦りのようなものをうっすら感じると思って言葉を持たないこころを翻訳してみると、フィジカルのコンディション由来が半分くらい、もう半分は回復待ちで四月入りというとくに意味はない区切りがこころをざわつかせるのかなと思った。こうした暦とか年齢といった数字でしかない節目に気分が揺らぐということはあり、それはそれ以上のものではないのだよね。ほかに思い当たるのは、先の総会で活動的なひとたちに触れたこともあるのかな。それも自他を比べる必要はないからね。感触としては、なにもしていないということにすこし負い目じみたものを感じるところが出たのかも。主体性や内発性で行動できるならよい傾向だけれど、内在化された外部の声をじぶんのものと取り違えて不安になるなら、それを打ち消すために行動に出ようとするのは勘違いであり、体調を整えたうえでこの心身と向き合うか、現状の方針を信頼してあまり気にせずゆったりと過ごすのが吉。まあね、なにもしていないということが気になり始めたのであれば、一足飛びに現状更新のアクションを立ち上げようとするより、まずは散歩を日々の生活に取り入れることこそが正解と言えば間違いなく正解。散歩をしようかくらいの段階へやっとやってきたのかもしれない、というかおそらくそれが妥当であり、本日の答え。就労支援の場で周りを見ていて思ったのは、苦痛や焦りといった動機は押し出してはくれるけれど、そこから先では推進/牽引してくれる動機も要るので、もし状況が許すのであれば内発性の芽が出てからのほうが行動は起こしやすいのだろう、ということ。リハビリと就活で空っぽになっておいて、働きながら回復できるのではなんて目論見はアクセルとブレーキを同時に踏むような無理だった、というのは実際にしてみて得られた答えだったのだから、当分を回復期間とする方針はこのままでよいよ。そこでなにか得ようとかも考えなくてよし。のんびりする。そういえばアーマンディー・アップルブロッサムが花盛り。薄明かりの時間にデジイチで撮ったら綺麗かなとか考えつつも窓から眺めていた。
