企業へのサイバー攻撃や個人情報流出が一気に増え出した感。厳密にはここが焦点かというと異なるけれど、利用中のサービスのパスワードを洗いざらい変更しておいた。使っているメールアドレス、むやみと多いんだよね。そこが生命線なので、この機にメールパスワードにはランダムな文字列を使った。ついでに各サービスのセキュリティを確保するつもりで二段階認証その他のオプションを入れたり。それから、いま使っているデスクトップ機の一次データ置き場なドライブをまるごと、ほかのドライブの空き領域へコピー。日付を見たらこの手のバックアップをしたの、2020年以来だ……。この自作PCを組んでから一度もしてなかったうえ、マシンそのものもスリープとかはなく六年間ずっと稼働し続けてる。各ドライブの健康度をチェックしたところみんな元気ぽいけれどさ。そういうところ、頑丈さでストレージを選んでいるおかげで長く使っていると地味にありがたさを感じる。こういうトラブル対策ってトラブルがなにも起きてないときに手を入れておかないと意味がないから、腰を上げといてよかった。きのうの寒気や眠気はどうやら流感ではなかったようで、呼吸法が迷走神経など刺激したのかも。きょうもそうした呼吸をしていたら、胸の奥あたりの使い慣れていないなにかしらの器官がしばらく鈍痛。いまは治ったけれど……と確かめるように息を吸ったり吐いたりしてみてふと気がついた。心なしか、のどから気管、そして肺や横隔膜にかけての空気の通りがよくなっているような。あれ、この微妙に息がしやすいのってなんだろ。なにか変わった気がする。使っていなかった部位を使ったことではじめびっくりした身体がストレッチをしたように動きに慣れ可動域も増えた、とか? そもそも深呼吸のための呼吸法をとか思ったのは、じぶんの呼吸のしかたはずっと浅く、それは長年にわたる身体のエネルギー節約のしかただった、という考えがずっとあったから。いまは狭まっていたものが広がったかのような呼吸の通りのよさを感じる。もうしばらく深呼吸する呼吸法を心がけてみる。
2026年10月4日(日)
本を読むなどのんびり。買い出しにでた夕方から寒さを感じたり、へんに強い眠気やだるさを感じたり。風邪の入り口なのか、試していた深呼吸のための呼吸法のせいなのかわからない。体温はいまのところ平熱。ごはんは抜いておふとんで過ごそう。
2026年10月3日(土)
昨晩は早めに眠ったのに、起きたのは昼を過ぎて午後だった。おくすりの影響もあれば、目覚ましをなるべく使わず睡眠に時間を取っているから、まあそうなるでしょうよ。いまの時期は窓開けて眠るのが気持ちいい気温だしね。ぬいのうちの仔と床に寝転がってごろごろしていると、近場の田んぼでコンバインが刈り取りをしているのんびりした音が届き、しばらくして稲の米っぽい青いにおいが風に乗って流れてきた。夕方は車を運転して空の色が綺麗だとか思いながら、前に一度行ったスペイン料理のお店へ。ミックスサラダとサーモンのスープをセットで頼み、飲みものはトニックウォーター、ほかエスカルゴやピンチョスを追加。食後はエスプレッソでのんびり。このお店で過ごすたび身体もこころもくつろいでうれしいようなほっとするような気持ちになるなあ。そうした気分になれるコンディションのとき足が向く、ということでもあるのかもしれない。いずれにしてもおいしくて居心地のよいお店があるうれしさ。お店を出たあとは持ってきた本をどこかで読もうと思い、ジャズ喫茶と聞いていたお店へ入ると、たまたま演奏技術かなにかを学ぶ集まりをしていたためそちらは止めた。そしてはじめから行くつもりだった近場のカラオケ店で一時間ばかり歌う。カラオケは半年近く久しかったけれど、意外と身体が声の出し方を覚えているようでもあり、でもそのあいだ声帯使い慣れてなかったのがわかる感じでもあったり。この半年近くがほんとうにね、底つき体験の年としてもよいくらいにね……。歌い終えて外へ出ると大気は涼しかった。まっすぐうちへ帰るのもねと思い、音楽流しながら遠回りして帰着。長湯から上がってなんとなく過ごし、これを書いていたら、やっぱりこんな時間に。二ヶ月近く前、八月のお盆前くらいにこれは厳しいと思うくらいの状況に陥ったわけだけれど、そこで前へ進む選択をしたことで自分自身の道が開けている状況へ持ち込めたし、ショックを受けたところで一ヶ月も経てばまったく異なる気分で過ごせているはずという内的な経験則≒レジリエンスは改めて確かめることができた。このままじぶんを労り、余力があれば動かすとよいよ。おやぷみ。
2026年10月2日(金)
定期通院先へ。もしなにかあった場合は各方面へ問い合わせを回せるようにしたいと主治医に話すと、同意書をつくって持ってきてもらえればそれを読み、よいと判断した場合にはそのようにします、とのこと。同意書くらいならChatGPTでなんとかつくれそうね。じぶんの安心と立場を考えてもしもの場合のため、治療とサポートの三角形にこの導線を巡らせておく。それからおひるは外食にしようと思い、ときおり行くタイ料理の居酒屋へ。スキ(タイ風すきやき・麺と季節野菜入り)と、クンシェナンプラー(生えびスパイシーサラダ)を注文。汗が流れるほど辛くておいしい。他に客は女性二名連れが二組と男性一名の計三組。なんとなくわかるようなことがある。居酒屋って店主によって店の空気が異なり、それによってそこの客層には特徴が出るのだな。このタイ料理の居酒屋は、タイ出身かつ日本暮らしのほうが長いママが中心となって営んでおり、お店そのものも女性陣で回しているようだった。性別はこちらが見かけからそう表現しているだけだけれどね。だからランチタイムの客層が性別を問わないのかな、と思ったり。というのも房総巡りと九州一周で居酒屋探索をしてみて思うに、このタイ料理の居酒屋のような客層傾向のところって、全体から見るといくぶん少ない側に思えるんだよね。たぶんこの話題は書くなら丁寧に書く必要があるからこのまま。そのあとどこか散歩したくてGoogleマップで渓谷のほうをみたものの気が変わり、すぐ近くの小高い丘の公園へ向かった。日差しのあたたかい穏やかな日和で、木陰を通るとすこし涼しくよい風が吹き、足もとの落ち葉からは乾いた葉特有の匂いがした。ぶらぶらと巡る。ベンチに座っているひとや談笑しているひと、丘の上の神社まで上るひと下りるひと、公園で遊ぶ子供たちの声やそれに付き添っている親たちの姿など。松林からは松やにの甘い匂いがした。そんな松林の一角から下界を眺めていると、日差しとともに心地よい風がそよぐ。目を閉じて、人の世のあちら側より自然の世界があるこちら側へこよう、と思った。そよぐ風を身体で心地よく味わい、しばらくして目を開けた。こちら側へきたわけだ、と思った。それだけのことといえばそうかもしれない。こちら側でよいと思っているよ。それからまた公園の歩道をふらふらと歩き、シロツメクサの生えるあたりで四つ葉のクローバーを探してみたり、東屋の椅子とテーブルに突っ伏して過ごしたり、池を渡る橋の上から周りの景色や岸辺に上がって並んでいる鴨たちを眺めたり。子供たちの遊ぶ声がなんだかしっとりと聞こえたのは、かつてじぶんもまたそうであった記憶が忘却からわずかに呼び起こされたからなのかもしれない。公園で遊ぶ子供たちの声、というときょうのような秋なのだな、と思う。それは郷愁の小さな呼び声だったのだろうか。そこから帰途へ。気がつけばネガティヴ思考に陥ったりせず感受を味わって過ごした日だった。夜はクライシスプランの書き出しをいくらか。書き出した中には、就眠+起床のサイクルでどの状況にいるかの目安もあった。日付が変わる前にこれ切り上げて床へ就こう。
2026年10月1日(木)
やっと晴れた。日差しがまぶしい日。蜘蛛の糸やとんぼの羽が日差しにきらきら光っていた。そろそろ立て直すことを考えてもよくない? ということで、ロードマップとクライシスプランを紙に軽く書き出すことに。もう遅いからねむる。
2026年9月30日(水)
なにごともなかりし日。生活サイクルがしばらくずれ続けてる。ストレスを受けている状況下につき、無理もないところはあるけれどね。とはいえ、それに耐えるとなると「じぶんに我慢をさせるわけ? それはじぶんに優しくなくない?」という。状況を変えるための働きかけは検討したほうがよいよ。ことしは直近十年くらいにおける底つき体験の年となるのでは、というぼんやりした予想。
2026年9月29日(火)
なにごともなく。ちまちま読み進めていた岡田尊司『愛着障害と複雑性PTSD 生きづらさと心の傷をのりこえる』(SBクリエイティブ)を読了。すっきり。あとで付箋を貼ったりマーカーを引いたりして再読すると思う。
2026年9月27日(日)
作家展の最終打ち合わせのための集まりへ。それが終わった後の雑談で、きのこ採りについてメールでやりとりをしていた写真家のKさんと、予定のすりあわせなどあれこれ。金曜の悪夢からきのうの件といい、消耗するなー。時間が経てば気分なんてどうとでも入れ替わることは経験則で、浮きも沈みもほどほどにいなしていくのが知恵と言えば知恵。疲れているようだね、おふとんへ。
2026年9月26日(土)
心の中のなにかが死に、もうそれについて苦しまないように感じられる。とりあえずセルフビルドに関する資金繰りは筋道がつきそうで、そこに関してはじぶんの行きたい道から障害物がなくなる状態。ここから先に必要なのは自分自身へのコミット。
2026年9月25日(金)
NPOさんで面談。朝というより未明に夢見が悪くて目を覚ました。それが影響したのかどうなのか、日がなメンタルの具合が悪くて長湯をしたり。心地よい夜の時間を不快な思考に費やすのは損でしょ、という発想がちらつく。それが板につくと幸せなんだけれど、とか思ってうだうだしているうちに夜は更け、具合もそれなりにましになった。気分は変わるというのは前提だし、しんどいと他責や呪詛はきついし、そうなるのは仕方ないとして決定項としないだけでもまし。たかが気分であって深刻になることもないのだけれど、一方で気分障害の苛烈さは知らないわけではないというか、どちらかというと身をもって知ってるほうでは。生きものである以上、浮き沈みはあるから、状況ごとにその波を乗り越えていくことに力まないのがよいのかな。とくに結論を目指さない思考が走るときは休むに似たりで眠ったほうがよいとき。すこし前から雨音と、それに伴いかえるの声が聞こえてきた。
