2020年5月30日(土)

以前撮った写真のうち、デジタル現像していなかったRAWファイルを編集していた。保存用HDDを漁ると掘り出し物がちらほら出てくるからありがたい。あした大叔父に電話する予定。それで会えたらちょっと話を聞いてもらえたら、と思ってる。

2020年5月29日(金)

昼過ぎの八溝山地から雨雲が湧き出していた。五月はまだ終わっていないのに、空は一足早く夏になってる。そろそろ梅雨前線が九州にかかってくる頃とのことで、平年並みなら関東もあと一週間かもう少し、といったところ。聴く曲が春のものから移動し始めた。それから、布団やぬいぐるみのダニが気になったため、布団乾燥機を動かして殲滅している最中。週末はどのみち深夜ラジオを聴くために起きてることだし、夜中まで続けて一度に終わらせてしまおう。唇は若干荒れ気味。

2020年5月28日(木)

三月は蛍光灯 / 四月はろうそく / 五月はクリア電球 / 六月は月明りと常夜灯 / 七月は自動販売機 / 八月は紫電 / 九月は街灯 / 十月は西日 / 十一月は東の空 / 十二月は玄関照明 / 一月は焚火 / 二月は朧夜

月ごとに夜の光源にはどんなイメージがあるか、というのを温めていたのがこれ。二月の光源は、夜縛りでなければ午前の日差しかなあ。

2020年5月26日(火)

午後より雨。気候はもう初夏に踏み入れており、天気がいい日の午後にはこうして夕立が通りすがるようになってる。雨脚が遠のく宵のころって、夕立のしっぽのようなものが有機的な闇の向こうをずるずると這って行くみたいで、なんというか辺りがうら寂しい密林に思える。

以前ここに書いた『スプリガン』を読み終えた。オカルトネタの飽和ぶりがすごい。理念のためにあえて守護に回る人って、言い切ってしまえば簡単なのは分かっているけれど、格好いいなあ。優の父親が神秘を追い求める冒険者であったり、師匠の朧が求道心のために他者を犠牲にしたりするのとは対照的だよね。自分も欲で駆動する性質が強く、そうとは思わないままに周りの人たちの盾の内側にいることへの後ろめたさを感じる。感謝していこうな。そして、ボー・ブランシェがああなってしまってやり切れない。脳筋のネオナチであることを除けば(それでほとんどだ)暑苦しくていいやつなのに……最後まで哄笑していてほしかった人物だ。登場したころはこの人ズレてる枠かなと思って読んでいたけれど、それでいてブレることは一切なく、終盤すごい化けた。検索したら「気高い差別心」「ベジータ理論」とか評されていて笑う。

漫画サイトaluでスプリガンと同時に薦められた『パンプキン・シザーズ』も古本で手元にあるんだけれど、こちらにはちょっと嗜虐性を煽るところがあり、そういうのが苦痛に感じられたので、読むのをやめた。aluにはほかに『プラネテス』を挙げてもらったような。いずれ。残酷描写の閾値って僕の場合はどのへんにあるんだろう。ヘルシングくらいだとなんか大丈夫。その場面に必要があるか無いかをこちらで取捨してるんだろうか。

2020年5月25日(月)

自作PCへのデータ移行も済んだから、筐体を据え置くついでに部屋じゅう掃除したり、ケーブル類を束ねたりした。お嬢様の巻き髪みたいなあれ(名称がわからない)でDisplayPortや電源ケーブルなどを束ね、くるくると覆う。乱雑だったものが単純になる気持ちよさ。検索したらスパイラルチューブというそう。古いマシンのウィンドウを閉じて電源を切る際に、別れのようなさみしさを弱く感じた。『ムーミンパパ海へ行く』で、島での生活が始まり砂浜の高いところへ移動させられた冒険号に対し、ムーミントロールが「かわいそうに、でもボートは眠っているのかもしれない、それに漁に出る日はあるだろうし」と思う場面がある。あんな感じ。自分は情がわいたのかもしんない。あの古いマシンを引っ張り出す機会はあるだろね。

きょうはただ、生きていることに感動していた気がする。開闢以来、果てしない未来へ向かって暗く冷えていくだろうこの宇宙にいま溢れる、相対的にはほんのひとときに過ぎない恒星の光のさざめきや生命の生み出すしわぶきが、そうしたものを実現可能な諸要件を備えたこの時空に鳴り響く、祝福の鐘か鈴の音のように感じられるのだった。命というものは、うねる岩の混沌からひとりでに発生するもので、在りようそれ自体に聖性を宿すように思う。触れて感じることのできる彩りあるものごとを、ちょうどよい時代に存在しながら受け取る幸運が、おそらくはかなくいずれ消えていくものだとしても、ここにいる一個体としてこの移ろいゆく様子を、夜が明け日が沈むときと同じように満ち足りて見ていたい。

すいかずらの’グラハムトーマス’のつぼみはいい感じに成長してる。今朝は目覚ましがなにか鳴らず、寝過ごした。歯科の予約はまたね。

2020年5月24日(日)

穏やかなる日。網戸から風がゆるりと抜けていく。youtubeで機動戦士ガンダムF91という作品を観ていた。ガンダム作品に触れるのはこれが初めてのような。んー、地球はなにかの理由で住みにくい場所になっており、近傍宇宙への移住が進んでいる、という前提がたぶんシリーズ全体にあるお話ぽい。人らしさと機械じみた、が対照的に見えた。パン屋のお嬢さんは成り行きにすんなり順応していくけれど、抗わないのだろうか。小惑星らしきものを資源にして宇宙空間にコロニーを建造できるということは、もっと人間向きの条件がある場所、例えばほかの惑星表面やそれらの衛星圏にも、地球を離れて自律した居住エリアが広がっていたり……するのかもしれない。それとも、未来の人類はモビルスーツといった有用なテクノロジーを手にしながら、地球の周りでああした諍いを繰り返しているんだろうか。本来ならそうしたことを制御する立ち位置なはずの連邦政府というのがなんかダメそう、というのは伝わってきた。

明日は歯医者の予約が入ってる。緊急事態宣言が出され自粛の嵐が吹き荒れた四月半ばに、一度この予約を先延ばしにしたのだよね。感染の拡大を食い止めるために協力することは妥当な判断だったと信じるけれど、自分の小さな虫歯はこのあたりで治療されるがよかろう。

2020年5月23日(土)

明け方までラジアンFを聴き、起きたら昼過ぎになっていた。夕刻より雨。録画のベニシアさんを観る。物忘れが増えたとのことで、細くなられたなあ。かえるの声は盛りを過ぎつつある。ゆっくりと春が終わっていく。

2020年5月22日(金)

道の駅の産直へ。歩道の中に設けられているささやかな緩衝地帯としての芝生に、赤と白のニワゼキショウや黄色いカタバミが満開となっていた。ここには初夏にかけて、ネジバナの群落も現れる。ネジバナのほうは芝生が伸びるとまとめて刈られてる。こういうものに注意を払う人はあまりいないのだろうけれど、ここへ来れば特色ある小さな草花を確実に見つけ出せるから、個人的にはきのこでいうシロ(発生ポイント)扱いをしてる。ただ、なにもなさそうな道端にしゃがみ込む熱心な人というのは、他の人から見ると意味が分からないね。日本のネジバナには花期が初夏と秋で異なる二種類のタイプがあるそう。そうした報告を束ねるハッシュタグ #ネジバナリレー #ねじばなネットワーク がTwitterにあると知り、咲いていれば写真に撮ろうという下心もあって訪れたのだった。それから、バイオームという自然の生き物の図鑑をつくるアプリを知ったので、知っている植物たちをリストに加えようという思惑もあった…のだけれど。これは撮った写真に位置情報の付いていることが必要で、うっかりその設定を切ったスマホで撮っていた。急ぐものではないからまた追々。営業を再開した産直の様子は普段通り。出入り口付近にはナスやバジルなど、菜園御用達な苗が並んでいた。野菜を作る祖父がいないと、こうした苗には少し距離が開くなあ。

それから果物市場へ立ち寄ると、気の早い桃やぶどう、メロンにスイカなどが並んでいた。袋詰めの小梅も置かれてる。茨城産のスイカは都市圏に近く土質が良いとかで、このへんではわりと定番の産地。春先は果物のバリエーションの少なさが惜しいものだけれど、しばらく見ないうちに世の中は移ろっていき、売り場に並ぶものも品定めする人も賑わいが出てきていた。うん、よいことだ。これからの季節、青果売り場の芳醇な香りが好きなのだよね。

雨が降る。祖父と一緒に収穫した枇杷を漬けた果実酒が、もうそろそろ一年経つ。今年の一月ごろになんとなく禁酒を始めたら現在まで続いてしまっており、自制できる自信があればちびちびやるんだけれどなあ、みたいに思う。禁酒はあくまで自分ルールなんだから、酒の味見も緩い裁量でやればいいと思うよ。大叔父のどちらかに持って行けば相手してもらえるかもね。