2026年7月30日(木)

午前中はギャラリーへ向かい、そこからオーナーさんと一緒に別の喫茶兼ギャラリーへ移動。こちらもオーナーさんが運用しており、こちらで展示するために打ち合わせをした。日程はひとまず決まり、案内はがきとプロフィールカードの製作がじぶんのおもなタスク。めんどくさいけれどやればできるでしょ、たぶん。セルフビルドとオルタナ系の暮らしについて話すと、タイニーハウスの設置やキット提供も手がける地元のハウスメーカーの社長さんと知り合いなこと、働くということとなりわいについての書籍をいくつも出版されている陶芸家さんが地域にいらっしゃる話を伺った。正直なところ、求めている知りたいことが直球で手に入るというのは、ひとえにこのオーナーさんのお人柄と人脈なのかと、不思議なところがある。もうちょっとなにかの理があって、こうと決めて行動するとき世界は力を貸してくれる、のでは。もしチタケを持ってきた場合にこの店先で売ることできます? とオーナーさんに訊ねると、いいよ、店の取り分が二割になるけれど、と快諾してくださった。メールできのこ採りについて伺っている写真家さんからは返信待ちのタイミングで、そこはこちらの完全な皮算用なのだけれど、卸して並べられる先があるということだ。そのあと実際にタイニーハウスや避暑地らしい家屋が立ち並ぶあたりを案内していただいたあと、ギャラリーへ戻って別れ、買い物をして帰途。今後、じぶんのエゴや醜さは避けようがないな、ということを思う。いまさらでありずっとそうだったのだし、必要ならそうすればよいよ。Distillの有料プランでレンズの入荷しそうなところをチェックしているのだけれど、これだとひと月あたりトータル3万回のチェックが上限みたいで、それに引っかかり月が変わるまで監視が動かなくなってた。チェック間隔を調整。

2026年7月29日(水)

やおらごみを片付けスマホを返送した。それから各方面へメールや電話を入れ、それぞれ予定が立てば摺り合わせる方向へ。じぶんはめんどくさいことを片付けるとき「めんどくさい~だるい~やだ~」と気持ちを口に出すと作業に取りかかりやすいんだよね。嫌がる自己をよしよしをしている感じ。夕方にはすこしだるさを感じ、行動することには気疲れしたのだなと思う。のんびりするうちに夜。故障して返送したスマホから取り出せずバックアップもあんまりしていなかった、亡くなった杢の写真や動画のことを思うと、水の流れるような強くはない悲しみを感じたりはする。すこしは残っているけれど。雑記を日々書きつけていても日ごろ考えていることってあんがい俎上に乗らないもので、いまある一つは、できることをしたことにどんどん変えていこう、というもの。種を蒔いてときには水も遣ってみて、なにかが育ちそうな庭を保っておく。あるいは持てる可能性をひとつひとつ検証して完了形というかたちに潰し、刈り込んでいく。すこし別の話で、収入やなりわいを成り立たせていくことも、セルフビルドで家を作ることも、旅や庭や犬や猫との暮らしを実現することも、ぜんぶ同時進行するのがよいなと思ってる。愛着や安心の問題があってそのために活力や持久力が不足しているとしたら、それらを解いていくためには逆説的に愛着や安心を実現できることが必要になってくる。ひとつひとつ手続き的に解こうとしたのでは解けない。もつれた糸をほぐすように、雲を掴むように、知恵の輪を外すように、循環へ入っていくように、全体に取りかかることでいつのまにかふと解けていることに気付くときがやってくる、そういうアプローチがじぶんには向いていると思う。考えることはあれこれあっても、ひとまずきょうは立ち上がり動き出せた、そのことでじゅうぶん。そういえばふと思い出していることがある。三月の房総巡りで入った土産物屋の方と立ち話になり、「(こういう商売をしていると分かることで)お店に入ってくる人は足取りが迷ったりするのですが、あなたの歩き方には迷いがなかった」と言われたのだった。それなりに売り場をいったりきたりうろうろして品定めしていたつもりだったのだけれど。そのあとお誘いいただいて連絡先を交換した。見つけてもらった気がしないわけではなかったし、旅というのはこうした出会いが起こりうるのだなと思ったりもした。明朝はギャラリーで打ち合わせがあるから遅くならないうちにねむろう。

2026年7月28日(火)

午前中から駅へ向かい、新幹線経由で都内へ。帽子のフルオーダーをしたCA4LA表参道店へ向かうのに竹下通りを通ったのだけれど、じぶんの性質を鑑みるにこんなまるでそぐわないところにいることがおもしろくて、ちょっと笑ってしまった。お店では仮縫いしていただいたキャスケットについて試着と確認の打ち合わせ。当初はモカっぽい色合いに青みの強いティールグリーンの差し色をお願いしたのが、実物を見ると後者の色がなかなかよくて、色を入れ替えて差し色をメインに持ってくるかたちで変更を依頼した。そのためもういちど店頭へきての直接受け取りに。今回で用事が終わらないのは手間だけれど、その場で感じた違和感を無視せず要望に反映できたのは個人的にわりと大きなこと。いままで違和感を掴むのは弱く無視するのは強かったし、とはいえ把握できた違和感って精度が高いと実感するようになったから、帽子の仕上がりはよくなるよ。とくにどこへも立ち寄ることなく帰途につき、その途中で熊本が地震に見舞われた情報が入ってきた。新幹線の窓際で、もう何年かご無沙汰している、いまこの瞬間に世界としっかり接続しているというときの祝福の感覚が、ほのかではあるけれどすぐそばへ近寄っているのを感じた。やっぱり失ったわけじゃない。この感覚は状況がよい流れにあるときの副産物なんじゃないかなと思う。きょうのあんな微細で儚いひと時の予兆に、行動する背中を押されている気がする。

2026年7月27日(月)

抜糸。二週間後に様子見となった。ほか、なにごともなく。使わないInstagramのアプリ設定を開いて思う、むやみに機能を盛り込みすぎて不便になってる例では。スマホ交換で通知設定を見直していたら「投票へ行くことを促す通知」みたいな項目まであって余計なお世話でわらう。あす、オーダーした帽子の途中確認で都内へ出かける予定。半年前までのじぶんならひとの多いところへ敢えて行こうなんて思わなかっただろうし、実際、旅行を除いてもう十年とかそれ以上の期間、田舎にこもってた。とれる選択肢を広げてはいるんだね……。今回は体調的に疲れてるから、用が済んだらすぐ帰るつもりだけれどさ。帽子くらいでそういうふうに行動できるのはまあ歓迎することだよ。悩みの類型に、とりあえずの答えは見えていてそれを選ぶのがいや、みたいな悩みかたがあると思う。悩みっていうには書いていてしょうもなさはある。とりあえず散歩なり軽い運動しようよっていうじぶんとそれを面倒くさがるじぶんがいて、そんなことでいちいちじぶんに駄目出ししなくても気楽に過ごせるのが最良だよ、とか。書いていて思う、出口のない思考に走るということは暇なのだな。『SMALL HOMES』をめくりながら感じることに、じぶんは暮らしたい家のイメージについて色を第一に考えるぽい。趣味性や好みを優先するところではやっぱり他の要素を差し置いて色から入ることが多い。家については木材を落ち着いたブラウン/モカ系の色合いにしてそのトーンで作れたらとうっすら思う。というか参考にしている『SMALL HOMES』が手作りオンリーなためこちらの発想も当然引っ張られ、思い浮かべるものは木と漆喰が基調になるよね。深く思っていることを書くことって意外とないからいまのそれを書いておくと、いま暮らしている家と庭に愛着や安心を持てないという感触が強まってる。この環境に居続けることで生きる活力がジリ貧になっていくのでは、じぶんが削られているみたいだという感じがする。安心できる住まいを用意して庭を相手にひとりで暮らすというのは、じぶんにとっては人生のリソースをいくらか割いて実現したいと思えるものらしかった。それは、いまここで幸せを汲み出せるのなら、取り組むに値する目標のように思う。意外。夢とか目標とかは個人的にわりと疎んできた発想なのだけれど、これはちょっと扱いが違う、と。ここでそれなりに書いている、窓辺で静かに過ごす習慣については、生における安心感の不足を反映したものなのかもね。飛躍して感じるのは、生育過程で愛着について満たされたひととそうでないひとというのはなんというか、違うなあということ。違うというのはそうで、この世はそうあるようにあるのであり、好きにしてもよいし、適当にしてもよいし、生きものであることには特にそれ以上も以下もなかった。強いて言えば心地よさを感じ取れるじぶんがよいな。散漫な思考がいろいろ浮かぶときはひとまずくつろいでいるのかもしれない。すこしのんびりしたらおやぷみ。

2026年7月25日(土)

朝から道の駅の直売所へ。好物の空心菜が手に入って運がよかった。でかい青唐辛子を手に取って眺めていると老婦人から「これ辛いんですかねえ」と訊かれ、そんなに辛くないと思うんですよねえ、などとやりとり。あとはうちで過ごすうち夜。強い日差しに涼しい北風が流れ込んだようで、気候は梅雨明けの暑さのはずが風はお盆明けごろのそれみたいにざわめいていた。ロイド・カーン『SMALL HOMES The Right Size 小さくはじめる住まいの哲学』(トゥーヴァージンズ)にじぶんの想定するセルフビルドの規模にぴったりの住まいが列挙されていた。小屋くらいの規模だとTiny Homeになるようで、居住空間だけでなくバストイレキッチンといった定住要素も備えつつ自ら作る小さなおうち、というくらいのニュアンスがSmall Homeという感じ。この本が並べているのは住まいでありつつ人生の作品といった趣。じぶんの場合はそこまで凝らずとも予算と期間を圧縮してよりシンプル/実利を目指してもいい。氏家誠悟『自分でわが家を作る本。』(山と溪谷社)は20年ほど前の情報であり、じぶんで作るのは楽しい、という方向性。畠山サトル『350万円で自分の家をつくる(改訂版)』(X-Knowledge)が短期間かつ低価格というコンセプトなのに比べると趣味的な要素も多そうだけれど、基礎知識としては押さえどころかも。関係ないけれどヤマケイの古めの書籍って文章に特有のにおいがあるよね。そういえばひとさまの日記を読むにつけ、その文章が持つ自己なり自我との距離感を思う。じぶんが書いている文章はマクロレンズの接写ぽくて、自我の近さがちょっとむさ苦しいように感じてる。読んでいて風通しを感じる文章って自我との距離を保った広角レンズ寄りの写りだなー。書くことなくなったからここで切り上げ。

2026年7月24日(金)

定期通院先へ。起きがけにそわそわ感があると伝えると、あなたはこのところいろいろありすぎたから原因が判断できない、しばらく様子を見ていくしかない、とのことだった。まあごもっともと思うし、やっぱり一連の状況は厳しかったか、とも思う。ひとまずいま眠たいから早寝。

2026年7月23日(木)

なにごともなく。暗くなってきてからまたくちなしやコモンセージとバジルを摘んで活け、机の上に飾り、その前で過ごしていた。春からこっちじぶんが見失っていたもの、それは内側へ沈むこと=自分自身の感覚や言葉を汲み出すこと=外の世界との交感、なのでは。いろいろあって心も身体も語らずに騒いでいるような、思考や感受に至らないような深層の乱れ、あるいはがちゃがちゃした整わなさにまとわりつかれてる、というか。まあ大変だったからね。思い通りに行くとか行かないとか言いだすのはおかしな話で、花は誰のためでもなく自ら咲くように、世界はこちらの都合などお構いなしに動くもの。それでよいし、生きものなら同じ状態はいつまでもは続かないことを前向きに捉えたほうがこの際よかろ。話は変わり、セルフビルドに関する情報は集めよう。建てやすそうなのは平屋だけれど、窓辺にいるときは目線が高いとうれしい。星を眺めるために、屋根の上を平らにして寝転べるとよいね。天井がなければ空間は広く感じるのだろうな。じぶんの求める環境ならおそらく水は井戸を掘り、浄化槽もいる。その手の本をまず読んでみて思ったのは、セルフビルドはDIY的な作る営為より、法に則った手続きと書類の煩雑さや、周囲との連携のほうが主体ぽい、ということだった。当たり前だけれどCAD引いて耐震性などもじぶんで計算して、それをもとに書類を提出したりもする。はじめはこんなささやかな家で暮らしたいという願望をかたちにしていくのがよいよ。想像なり妄想なりは得意でしょ。また話は変わり、なりわいやオルタナティヴな働き方についての情報も集めようね。そういう本が並ぶオルタナスペースや本屋の情報はちょこっと手に入ったから、そのうち帽子の仮縫いチェックの件で都内へ行くついでに巡れたら。

2026年7月22日(水)

微妙に気が重かった歯の手術の日だった。歯茎を切開して歯根や骨をごりごり削り、縫合。これ麻酔なしだと拷問のそれなんだよねと思うと、麻酔の都合のよさに変な気持ちがする。あす消毒、一週間後くらいに抜糸。この件が気がかりで予定を立ち上げるのを控えていた側面もあるのだけれど、結果的にはそれでよかったかな。しばらく出血で皮膚が黒ずんだり唇が腫れますよと言われていたし、抜糸まではのんびりすることをよしとしよう。面倒だけれどじぶんのためであることを済ませてえらい。交換品のスマホが届いて移行作業中。のんびりしなね。

2026年7月21日(火)

外でラーメンを食べてきてから、部屋の片付けと掃除をした。思えば九州から帰ってきて以来。やっと。気分的にはしみじみとさっぱり。思うに、NPOさんへリハビリに通うようになってそのまま元通所先で就活をし、そこから仕事を始めて辞め、いまに至るまで、じぶんの活力はひたすら低下してるんだよね。それでなぜいままで動けているのというと心や身体の声を無視して限界を超える性質があるからで、それは美質ではなく疾患の発症に直接作用した。内面化された社会の要請をお断りし、いま活力切れで動きたくないという気持ちを生活に反映できているのはよくできていると思うし、とはいえ現状もいつまでも続けられるものではないから立ち上げられることから徐々にね、という方針が持てているのはよいことだよ。話は戻り、なぜ活力がどこまでも低下していくのか、の答えはおおよそ出てる。症状や投薬でぼんやりしていたころは認識できなかったけれど、回復が進むにつれ状況把握や現実認識の能力が戻り、そのためにじぶんが置かれていた状況や環境がどんなものであったか、否応なく直面することになった。症状が取れ疾患から回復したらこんどは生い立ちや愛着の傷と向き合うことになりつくづく思う、疾患を誘発するだけの環境にずっと置かれていたよ。疾患そのものが心身の持久力を劣化したゴムみたいにぼろぼろにしたところへ、これはむごいなと思う現実がリハビリによってよりはっきり見えるようになり、それが活力にとって猛毒として作用してる、というのがじぶんの理解。回復せずぼんやりしているよりは、ものごとが見えるようになるほうを選びたいとはいえ、見えるようになった現実にここまで消耗するとはねえ。厳しいな、と思うと同時に、そう思うのは自分の心、とも思う。煮詰まったように感じるのは気分であり、気分は本質ではないから猫の目みたいに変わるし、まともに受け止めなくてだいじょうぶ。こうしたときこそ必要なことだけなるべくこなしておいてあとは気楽さや無為を味わうほうがいい。いまいちばん求めているのは活力で、ならばそれは無理矢理追いかけないほうがよい結果になるはず。そして大切なのは、幸せはいまここにある、ということを覚えておくこと。夜になればぬいたちといっしょにランプを灯した窓辺で静かに過ごし、虫の音や物音や旅客機の音に耳を澄ませたり、ほの明るい夜空を眺めたり、好きな飲みものをちびちび飲んだり、花や香草を活けて香りを嗅いだり、好きな本や雑貨はたくさんあるし、紡ぎ語りたければ惑星ひとつぶんある。かけがえのない豊穣はじぶんで手に入れているんだよ。呪詛や不愉快を反芻しがちなのは後遺症としてみたほうがよい側面もあるにしろ、それらの豊穣に目を向けられたならいまここで幸せも体現できていると知るだろう。いつか手に入れるとか、誰かといられるならとか、この条件でならとか、そんな外側には預けずに自分自身の感受として育てたものは、大きく強い幸せというよりは、静かに揺るぎなく満たしてくれる。その「いまここ」に満ち足りてこそこの先へ続く道が拓ける、うっすらと見える道しるべのようにそう思う。趣くまま書いていたらなんかよくわからない方向へ延びてしまった。こうしたときの言葉ってふだんから水面下でこねているもののようでもあるし、ときにはじぶんでもすこし意外に感じるものが出てきたりする。窓辺でのんびりする。