しんどいので早寝。
2026年4月21日(火)
しんどい。5km弱,1時間ほどの夜の散歩をしたり、長湯に繰り返し浸かったり。眠ろう。
2026年4月20日(月)
カラオケで二時間ばかり歌う。気分が沈むので早めにおふとんへ。
2026年4月19日(日)
東京九州フェリーで横須賀発-新門司着の予約を取った。連休明けの木曜に出立予定。Webでの予約なものの、窓口で手帳を提示すると金額の50%が割引で戻ってくるそう。金額にすると別に小旅行を組めそうなくらいの割引だなー。ChatGPTに高速道路の渋滞予想を訊ね、羽生PAでの渋滞を避ければ時間の予定が立てやすいことを把握。高速道路の割引はETC不使用だと手続きが煩雑そうなため見送り。夕方前にカメラを持って庭に出て、ライラックの花などを撮った。こういうことするの一年ぶりくらいでは。夜は3km,40分ほど散歩。気分的にしんどい夜につき夜更かしせず就眠。
2026年4月18日(土)
朝から行き先を決めずにうちの仔とお出かけ。知らない住宅地や気を引く路地を車で抜けるうち、いつのまにか県民の森方面へ。八方ヶ原の展望台はまだゲートが閉まっていたため山の駅たかはらですこし散歩した。そこから八方道路を抜けて上三依塩原温泉口駅へ。近くのそば屋で季節ものの天ぷらそばを頼むとたらの芽やコシアブラといった旬のものが盛りだくさんだった。天ぷら盛り合わせ(小)も別に頼もうとしたら、お店の方から量が多いから天ぷらそばの注文だけでいいと思いますと言われ、そのようにしたのだった。このまっすぐさは会津のひとらしさだ、ここまだ栃木県内ではあるけれど会津なんだなあ、と思う。見かける車のナンバーからしてそうだしね。食べ終わったあとは向かいの直売所でコシアブラを1パック手に入れて帰途。一日じゅう遊ぶ感覚を確認したりしていた。うちでは長湯するうち意識が落ちそうに眠くなり、きょうは早めに就眠。
2026年4月17日(金)
定期通院先含む病院ふたつをはしご。そのあと祖父宅へ向かってみると、畑は潰され砂利敷きになっており、たらの木は全て切り倒されていた。しらけた気持ちになるものだね。帰ってきてからはオフロで長湯したもののメンタルがいまいちで、1km,15分ほどの散歩をしたり。今宵は冷える。机の前で過ごしていてふと思い当たったのは、リハビリ以降のここ五年間でじぶんが忘れてしまっていたのは「遊ぶこと」なのでは、ということ。楽しいとかおもしろいとか夢中になるとか、世界へ招かれ踏み込み没入するような、主体的に主体を預ける忘我の感覚。ChatGPTいわくじぶんには小さな立ち上げの積み重ねが感覚の呼び戻しに向いているそうで、確かにそういう手触りはあるかなとも思うし、散歩から始めるのはよいことだよ。遊ぶって感覚を思い出せる? とじぶんに問うてみるのがよさそうね。それとは関係なくなんとはなしの頭痛がある。薬局でこちらが顔なじみに感じている薬剤師さんが、夜更かしはなるべく規則正しいサイクルへ戻せたほうが健康によいことを話してくださったし、今宵はほどほどにしておふとんへ。
2026年4月16日(木)
自宅の外壁の塗装工事が始まり窓とカーテンを閉めた。触れることが少なかった事柄かと思うのだけれど、じぶんは空間に外からの新鮮な風や景色がつねに入り込んでいないと気分が萎える。留保なしに言うと微妙に萎えた。つねに外界とつながっている、いつもすこし開かれている、そういう生活空間がすき。だからひとが集まって同じ空間でなにかするみたいなのは、そもそも空気の条件からして合わないとこがあるんだよね。喫茶店や飲食店であれば閉じてこもる安心や近さみたいなのも提供材料なのでそれを受け取れるけれど、事務室や教室といった場はもう進んで属したり入ったりしなくてよかろーという気持ち。かといって風の強い日に窓を全開にして外と完全につながってしまうと、それはそれで自然に対して身を乗り出す寄る辺なさのような、流れにひたされて固定された感じの失せた、どこか不安になる感じもする。まあ生活空間が野外化したらそれは心許ないだろうけれど。境界やあわい、移ろいを好む性質はいろんな側面で顔を出していて、たとえば性自認/性表現/性的指向/恋愛指向のあたりでも、いずれもバイナリなかたちを取っていない。おふとんでだらだらごろごろしながら「これはこれですきなことを味わってるよね」とか思っているうちに変な時間。かつてあれほど棲み慈しんだ時間に変て。ねよ。
2026年4月15日(水)
なにごともなかりし日。雨の降る宵ごろ、ふと気持ちが緩み身体の緊張が解け、心を動かされるような涙ぐむのに近い感覚があり、それに伴って『ムーミンパパ海へいく』のラストのあたりの描写が浮かんできた。ので青い鳥文庫のそれを取り出し読み返していた。『ムーミン谷の仲間たち』で、ムーミンパパは若いころのあこがれ/空しさ/冒険家自認とは折り合いをつけ家庭の父親を引き受けたことが描かれているのだけれど、『海』ではさらに、頼られる/守る/強い/よく知る父親でありたい、一家の長でありたい、こうありたい、という像を描いてうまくいかないじぶん自身と和解したのだな、ということがきょうになって腑に落ちてきた。それは「らしさ」という役目から離れ、ただパパがパパであることの引き受けだったのでは。ムーミントロールは思春期に入って秘密を持ったり別人としての表情を見せ始めるし、ムーミンママも優しいみんなの理想像としてだけではなく怒る/メランコリックになる/プライベートを持った個人として振る舞ったり表現することを獲得するし、そこにパパ自身の和解が加わり、危うさを見せていた一家は家族の再生を果たし、落ち着くべきところへ落ち着いたのだと思う。再生が必要だったのは物語群のテーマが外の脅威からひとりひとりの内面へ移行していったこともあるし、メタ的には人気の出すぎたムーミン/外からのこうあってほしいという圧のかかるムーミンに対して、トーベの疲れやシリーズを終わらせたい思いがあったから、という理解。再生と言って収まらなければ、ムーミン一家は『海』で自由を再獲得した、と言い換えてもいい。それはそれとして、『海』のラストの描写を味わっているといつもそうだけれど、じぶんとしてはめずらしく時間を忘れて感動するという、いまいち伝わらない表現になる。夜の波打ち際にとどろくむちゃくちゃな荒々しさと不思議なほどの静けさ。そこにパパの海があった、という筆致。そこに描かれているとおり耳のはしからしっぽの先まで生気があふれてくる、そういうこちらの気持ち。そしてそれはパパがそうしたように、もし自身と和解できたときにはそうなるという気持ちなのだな、と腑に落ちた。小説のムーミンシリーズは小学生のころ出会ってからというもの折に触れかじるように味わっているけれど、こちらの段階に沿って読み方が変わってくる本というのは、希有なことだよ……。話は変わりそのあとの夜更け、ランプの前でぬいを抱きながら雨の音を聞いていて、じぶんの内面で段差のように引っかかるものがあるならそれはなんだろ、とサーチしていた。他者に怒りや反感や敵意を抱くこと、というのはそうと思った。そしてそれらの感情はまず自己へ向いたものが受け止めきれずに他者へ投影されている、和解とは対照的な、内的な敵対状態だとも。そこで起きていることの基本は自己-自己の反応であって、じぶんの弱さへの怒りや見つめたくなさや耐えられなさ、規範の強さからくる反動、抑圧とそこへの反発、そうしたものなのでは。それでふと、「他者にいらっときたら、そう感じたじぶんを許してみる?」と問うてみた。体やこころを構成するひとつひとつからの応えは揃って「そうすると気持ちいい、快楽だよ」というもの。それで思考する自我にも同じく問うてみると、やはり気持ちいいし、みんなの応えなら受け入れられるし、自己が作り替えられることも快楽だよ、という反応。ので、満場一致としてとりあえず上記の問いを採用。一貫した態度にならないかもという自我からの懸念はあったけれど、なにごともまずコンディションのよいときからできるようになっていくもので、それが身についてくれば場面ごとの広がりもあるはず。じぶんの内側に快楽という声での肯定のしかた/意思表明のしかたがあることがちょっとくすぐったい。一日でこれ以上の内的な声を求めるのは要求しすぎと思って自己対話を切り上げ、この雑記を書いてる。というか書き終えた。あとはねむる支度。
2026年4月14日(火)
起きるとすっかり楽になっていた。とはいえ身体は病み上がりといってよいみたいで、日がなストレスを感じてメンタルはしんどかった。夜になり楽になってきたけれどさ。遅れていたプロフィールカード作成をしてメールで送り、JAFに入会し、なぜか一部でだけ使えないカードのことで骨を折り、やっとタイヤ交換を済ませた。えらい。麻疹の感染状況を鑑みるに流行ると困るから、当該ワクチンを打っておきたい気持ち。急ぎではないものの帯状疱疹ワクチンもできるとよいのだけれど。じぶんを振り返るに、もうそろそろ身体を手入れしないとただ健康ではいられない、ということを実感してしまうね……。夕餉を食みながらかえるたちの声を聞いていた。
2026年4月13日(月)
朝から歯科へ行っておくすりを出してもらった。そしてしんどさにげんなりとおふとんで過ごすうち夜。いずれちゃんとした治療が要るとは言われたものの、現時点で五月を空けることはできないから、成り行きを見つつ治療予約を入れよう……。ひとまず眠れば楽になるし、起きたときにはましになっているはずだよ。フィジカル由来のしんどさと分かっているこんなときには、なにが辛いかの判断はしない。九州の海沿いの道の駅をGoogleマップでリストに入れていた。なまじ北海道という基準があるせいで九州にも身構えるのだけれど、九州一周を満喫するなら9泊10日コースみたいに書かれていても、それって点と点を移動して結ぶ感じなのかなーとか思う。回収しない、達成を取り入れない、予定も作らず、ただ気の趣くまま旅先で過ごすというのは、時間というものに対してすごく贅沢でありたいとじぶんは望んでいるのだな。景色や空気というものが、味わえるとたん嗜好品の趣を帯びてくるということについて、ほんとうはとくに非日常である必要はないのだろな。また別に、旅とか旅行とか書いておいて、旅行のなかに日常が構築され始めるという意味での旅はしたことないなー。それにしても、旅することで広がるのはじぶんの内側の風景なのだろう。
