2025年7月8日(火)

早めに行って引き続き草刈りや植栽の剪定などし、早めに上がり。あす行ったらしばらくお休みにすることにして、おふとんでゆっくりする。臥せっていた時期は別枠として、じぶん、関わってくれる人々から褒めていただくことの多い生き方をしているように思う。そう感じるということなのか、そうした人々と関係をつくりやすいのか、褒めるところが多いのか、とまで考えてこそばゆくなった。こうした性質はこれまで搾取的なタイプに狙われやすいことと裏表だったから、一概に喜ぶところでもないんだけれどさ。こんなことを書くのも、仕事先で手入れした箇所についてけさ奥さまから「(同僚の)Tさんが絶賛してた、いままでで一番だって」と言われたため。いままでというのは歴代の庭担当の人々。こんな感じでしょっちゅうできばえを褒めてもらっており、たしかによくやっている部分だと思うから、やる気は出るよね。こういうのはたぶんもう謙遜とかは要らなくて、実力だと思っていい気分になるところなのだろう。以前友だちから、「(かつては)褒めてるのにぜんぜん受け取ってくれなくてじれったかった」と言われたことがある。疾患を通した失意みたいなものは自覚しにくかったけれど、たぶんそこはいろんなものを麻痺させてやり過ごした(うえで回復にも手間取っている)くらいにはきつくて、やっとそれとなく変化した箇所。きのうと比べてきょうは余計な思考もあまりなく、楽。夜の庭には虫の声が増えてきたような。

2025年7月7日(月)

早めに出て駐車場や植栽周りの草刈り。那須街道の入り口あたりにはちょうどヤマユリが咲きはじめており、重たく酸味のあるチョコレートのような甘い風を原付で切りつつ上がっていった。車で行くひとはこの甘い風に気がつかないかも。暑い日らしく、朝のうちから空には薄雲が引かれていた。暑さは大変だけれどストレスはいまのところないなあとか雑多な思考をしつつ、一区切り付けて昼過ぎには帰途へ。疲れはあったらしく床ですこしまどろみ、夕餉を食み、ぼんやりのんびり過ごすうちにもうこの時間。雑多とかぼんやりとは言うけれど、いまは負荷が軽いのであってネガティヴな思考はわりとひっきりなしに走る。これだけ生活を取り戻しているのだからよくやっているよ。今週はずっと暑い予報なため、あすも早いうちに行って早めに終わらせることにして、夜もほどもほどに。Solty Sea Sourというビールはタスマニアの牡蠣やムール貝、海水や海藻が使われているとのことで、海の味がしておいしいというか、うまい。なんだかんだすきなことをしてる。

2025年7月6日(日)

ハイゼットカーゴの納車日。youtubeで検索すると車中泊やアウトドア向けにカスタムしているひとの動画がいろいろ出てきますよ、ということを伺った。いま見たところ。へー……。車に関してはペーパードライバーなので、まずは練習のために教習所へ連絡をしないとね。二年前の冬明けに植えたマートルは、今期になりはじめて香りがよく清らかな、白い花を咲かせた。耐寒性の面でここの冬は厳しそうと思っていたものの、しっかり根付いてる。感じのよい植物だねえ。セファランサス・ムーンライトファンタジーもぽんぽんとはじけるような丸く白い花を付けてる。かわいいー。忙しいとかだるいとか世話ができてないとか、なんだかんだ言って、庭の植物には気持ちをほぐしてもらっているし、好き好んで苗を植えつけた過去のじぶんからも確かな贈りものをされている。いまは受け取ったり休んだりする周期ってことを、庭はそれとなく教えてくれるように思う。

2025年7月5日(土)

びんごみを収集センターへ出し、洗濯機を二度回し、映画を観て夕餉。できたことを充実とするのは好みでないにしても、自覚以上に身体は動いており、まあ焦らないことだよ。『ベルリン・天使の詩』観た。踏み出してしまったダミエルと握手に応じなかったカシエルの対比にしんみりする。マリオンの暗喩めいた試しの言葉、これはサーカスのひとじゃなきゃだめだよねという奇妙な納得があるよ。明かされる秘密はすっと抜けるようで小気味よかった。どう生きるかの前に生きる? が描かれる感じ、天使の抱擁に応じない人物の提示も含めて、すきだな。別の話として、副交感神経があんまり優位だと無気力や意欲のなさにもつながることに関連して、じゃあ交感神経を軽く働かせてみたらと思い、してみると、できるぽい。なにかするために「よし!」と立ち上がる瞬間のわずかに身体に電気が走る、あの感じの維持。外からの強いストレスにはやはり翻弄されてしまうとはいえ、こうした微弱な状態への柔軟な切り替えは、身体を賦活するのに向いているのではないかなあと思う。こうした感覚の話はひとに伝わりにくいと思うので(控えめ表現)、ここでぶつぶつ書き散らしてるのがよいよ。もう七月という現実感のなさ。かつて七月の印象として、水に沈んだガラス板の屈折する感じ、ものが二重に見えるような、輻輳するような、変調する感じ、ということを書いた記憶がある。まだその感じはある。

2025年7月4日(金)

茶トラはご近所の外飼い猫らしいと分かり放した。子猫の声もきょうは聞こえず、こうしてなにごともなかったかのように過ぎていくのだね。

2025年7月3日(木)

夕立のほかはなにごともなく。夜、勝手口に仕掛けた保護器に猫が入ったようで見にいくと、成猫の茶トラがいた。あー……一瞬だけ姿を見ている子猫は白に黒いぶちがあったんよね。昨日今日と子猫の声が聞こえていなかったのは、おそらくそのタイミングで、この茶トラが子猫を縄張りから追い出して代わりにごはんを食べていたのだろう。ご近所に猫を何匹も飼っているお宅があるから、茶トラはそこの猫かもしれない。子猫はこのあたりから追い出されてどこかへ行ったのかもね。ひとまず夜であるし、当該のお宅へ訊ねるのは明朝にして、茶トラの入ったケージにはタオルと新聞紙をかぶせた。まあ嫌がるよね。話がややこしくなったなー……。キャリーバッグはあるから必要なら動物病院へ連れて行くけれど、茶トラはいいとして子猫どうなるん。外からはときおりケージを出たがっている物音がする。こんなことはしたくないけれど、あす朝まで待ってそれからなんとかしよう。

2025年7月2日(水)

無理する前にさくっと楽をしようと思ったことと、実際に気分がよろしくないこともあり、日曜までお休みの連絡を入れた。Oreston 50mm F1.8が数日前に届いていたため、それをカメラに着けて市街地を散策。そこかしこで発達する夕立のために曇りがちの天気で、ボケの輪郭があまり出ないコンディションではあったけれど、それでも特徴的なざわざわした感じのボケかたをするのは分かった。晴れた日ならもっとおもしろそうね。しんどいのできょうはここまで。

2025年6月30日(月)

あれこれと考えてそこはかとなくげんなりする日。気分は日々の気温のようなもので、平年値を期待しても実際にはそうはならないのだよね。あるいは容器に入った水のようなもので揺れ動いているのが常態。こうだから行き詰まるとかこうすればよくなるとか、それはわかるけれどねとか、こうした状態のときはおおむね思考する心身のコンディションそのものがよくないので、移ろうじぶんに期待して早めに休むのが吉。……仕事中、無理しないでとすごく気づかわれており、ありがたさとは別枠で「無理というわけではないのだけれど」という思いがある。たぶんこれにはいくつかあって、ひとつは無理の基準が高いせいで平気だと思ってしまうこと、もうひとつは多少無理しても素早く済ませるほうが話は早いと思っていること、あとはなににつけてものめり込んだり波に乗れる性質があるため無理と感じないこと。いろいろ考えはするもののどこに焦点を当てて振る舞うかというところに落ちつくのだろな。適当にやって周りも納得するならそうしたらという。しょっちゅう手は抜いているので、よりアピールする必要があるのだろう。そういうのもなんとなく面倒な気がするよ。休むに似たりにつきおやぷみ。

2025年6月29日(日)

なにごともなかりし日。ぱたぱた飛行機とホワイトウイングスのレーサー554をつくっていた。ホワイトウイングスは小学生のころよく遊んでいたいた懐かしさがある。上手に調整して飛ばすと30秒や1分といった滞空時間を誇ったり、上昇気流に乗ると視界から消えることもあるとか。もっかのところ、飛ばしに行くよりはつくってるほうが楽な感じする……。いま思ったのだけれど、べつにあすの出勤を気にしてもう眠る時間だとか言わなくてもよいのだよね。なぜだか朝のこの時間には仕事を始めてこの時間には帰り、残りの時間をのんびり過ごす、みたいなスケジュールを勝手に組み立てていた。有意義やコントロール性という強迫が張り付いている。自律的であれば好ましいだろうけれど……。ちょうどハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』(岡崎暢子訳、ダイヤモンド社)が手元へきたところ。たぶんこの本にはいまみたいなことが書いてあるんだろな。そういえばアンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上)』(小野田和子訳、早川書房)もいっしょにポチった本。観測範囲では絶賛されているもののネタバレ厳禁な物語らしいから、映画化される前に読んどこ。今夜は外で子猫らしきみゃおみゃおという声が幾度も聞こえており、懐中電灯を持ってあたりをうろうろしてみたものの猫は姿を潜めてしまう様子。餌付けになるとちょっとねと迷ったものの、じぶんが食べるつもりだったモンプチを皿に出し、勝手口に置いてみた。猫缶は淡白で酒の肴に合う、ということはていねいに説明しておきたい。いま見にいったらもうお皿が空になっていた。どうしたものだろ。