2020年11月30日(月)

岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(光文社新書)を読み終えた。距離感の話だった。自分に人を避ける性質は少なからずあるよなーというのは、巻末の自己診断テストでもやんわりと示された。ある程度は適応力もあるでしょ、ということだったけれど。母を大切にしないとね……。本棚へ戻すとき、この岡田尊司という方が『統合失調症』(PHP新書)と『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)の著者でもあることに気がついた。おそい。PHP新書のほうは当事者への敬意や希望を感じさせるような記述だったのを、印象深く思っていたのだった。今回の本にもそうした熱量を感じる。人様のインスタで見かけ、多少の心当たりはある気がして手に取った本だったけれど、これでどうするかというと、もうちょっと周囲との距離を意識的に解いてよいのかもね。電撃文庫の古橋秀之『ブラックロッド』『ブラッドジャケット』を入手。これはTwitterでオカルトパンクの名作として話題に上がっていたもの。今朝起きたときはだいぶん寒かった。茉莉花ちゃんは芳香を放ち、さらに花芽を伸ばしてる。あしたから十二月。

2020年11月29日(日)

球根から伸びた白い根が綺麗。買い物へ行くついでに日没直後の空を撮るなか、足下の自分の影が前方へ、太陽の方角へ伸びていることに気がついた。振り返れば月。夕方に影が逆を向くところは『蟲師』に出てくる大禍時みたいだ。

2020年11月28日(土)

Super Takumar 28mm F3.5をカメラに付けて散歩へ。日没の時間から逆算して、夕方の斜光が使えるタイミングで町の中を歩いた。このレンズはゴーストやフレアが出しやすいことで知られたオールドレンズらしく、僕もそれを期待して手に取ったのだった。たしかに簡単に出る。マニュアルフォーカスでピントを合わせることには自信がなかったけれど、風景が主でそれなりに絞って使うため、多少雑に合わせても鑑賞できるくらいのものが撮れた。ただ、やっぱり古いレンズであるらしく、白飛びや黒つぶれが起こりやすいうえに発色もうーん、という感じ。換算42mmの画角はとても使いやすかった。太陽を活用して光芒を乗せることができるレンズだから、思いがけないものが撮れそうだ。それはそうとして視力が落ちている。星でも見たものだろうか。

2020年11月27日(金)

マウントアダプターKとSuper Takumar 28mm F3.5(後期型&SMC無し)をポチった。この28mmはフレアやゴーストが盛大に出るという定番のオールドレンズ。僕の使っているAPS-Cなら28mmはフルサイズ換算で42mmとなり、PENTAXが主張している真の標準画角に近い。使いやすい画角だと思う。PENTAXのKマウントの前身がM42マウントで、これはかつてユニバーサル規格として一時代を築いた、オールドレンズのマウントにおける最大手なのだとか。その流れからKマウントはM42マウントとの互換性を簡単に持たせられるようになっており、そのアタプターが冒頭のマウントアダプターK。ペンタキシアンはオールドレンズ沼と隣り合わせな生態をしていたんだね……。バブルボケというものを調べるなかで、Fujinon 55mm F2.2というレンズが気になった。こうしたボケの定番はMeyer-Optik Domiplan 50mm F2.8というレンズらしいのだけれど、フジノンのほうがボケ量は大きいのでは+多少廉価ということで、ヤフオクの出品を見てる。この55mmにクローズアップレンズを付けたらボケ量や最短撮影距離を有利にできたりしないだろうか。

2020年11月26日(木)

歯科へ。入り口でリモート検温装置の前に立ったところ、一緒にモニターに映っている案内の方の体温は表示されるのに、僕だけそれが表示されない。帽子を取ってみてとかおでこを出してみてとか屈んでみてとか、言われるままにやってみても一切だめ。「こんなこと初めてです」と言われて「体温がないんですかね」と変な返事をした。案内の方ふたりと僕とで少し試行錯誤したあと、ふたりのうち男性からはたと「もしかしてバイクで来られました?」と尋ねられ、あっ、と原因が分かった。検温装置は対象を顔認識してからそこを温度測定してモニターへ表示しているようなのだけれど、僕の顔は風が当たり続けて冷えていたため、測定できる範囲かモニターへ表示する範囲を下回っていたらしいのだった。人間の体温の幅を決め打ちしていたら、たまたま例外もあった、ということ。仕方ないから一般的な体温計を借りて、36.3度ということでやっと入口を通過できた。次の治療はまた一週間後。

2020年11月25日(水)

電話以外で通話するのは久しぶりだった。うまく話せた気がしないな……。シャコバの花は一週間ほど経ったものからぼたぼた落ち始めた。

2020年11月24日(火)

祖父の物置を母と片付けていた。上の写真はそこにあった薬箱。貼られたステッカーに使われていた時代が反映されている。祖父、というより、かつてここで何代かに渡って営まれた家族の暮らしを、こうして手仕舞いにすることの風が吹くようなさみしさは、自分より母が感じているのかも知れなかった。義母といとこたちは一月以上前に、その同じ敷地から引っ越していった。残った屋敷は母が引き取り、義母たちの家の買い手候補ともっか話をしているところ。仕方がないかもね、祖父母は嫁いびりをしたわけだし。彼らについて不思議なのは、他者を抑圧したり貶めたりして、それで死ぬまで一方的な関係のまま逃げ切れると思っていたんだろうか、ということ。歳を取ればその他者からは庇護を受けたいわけで、いくら自分はえらいんだと思い上がっていたにしても、形勢が逆転した場合のリスクは想像しようと思えばできたはずだ。実際にこうなったわけだし。まあ、家の後を継ぐものがいないとして、屋敷や畑の面倒は叔父が最後まで見るつもりだったそうだから、彼ががんで亡くなったことは、よりによって扇の要が解けるのかよというようなピタゴラスイッチ的案配だったけれど。後年の祖父は僕に、ほかの連中からでかい顔をされてしまうなあ、と弱々しく漏らした。黙って聞いていたけれど、祖父は家父長制依存のはかない権力を叔父一家にも、うちの親たちにも、横暴に振るったよ。そればかりではないにしても、それについては禍根が残った。驕りや過信が想像力を失わせるのだとして、自分はこの先想像力を持ち続けられるんだろうか。叔母やいとこたちについて思うことも多いけれど、生きてる相手であるし、それ以上にもうほとんど他人だと思ってる。あちらにしてみれば旦那の実家と疎遠になっただけのことで、いのち自体はそちらへ受け継がれていく。あした、金属回収業者の人が物置に残った金属類を持っていってくれるそうで、きょうは僕が引き取りたい工具や農具を別けておいたりもしたのだった。形見分けってところ。こんな執着をしてるのは僕だけだ。USB経由のマイクが新しいパソコンではなかなか使えなかったので、ごく一般的な3.5mmジャックのマイク/イヤホンマイクをAmazonでお取り寄せ。

2020年11月23日(月)

『ボヘミアン・ラプソディ』観た。QUEENの曲はグッチ裕三さんが改変してるニコニコの動画で聞いたのみだったのだけれど、この作品を観てみて、ああこれもそれもという感じにどこかで耳にしていた。パートナーから友人となるメアリーの「あなたこれからいっぱい苦労する」というせりふも、ラストのライブエイドでのフレディの歌声も、肌の感覚から出てくるものは避けようもなく強い。フレディを駄目にするところだったあのマネージャーの、独占したい相手を周囲から孤立させるやり方もげろげろではあるのだけれど、それよりも大元にある、迷いのなさは逸脱となめらかに接続していて知らずのうちにそちらへ行ってしまうことがある、そのことにひんやりする。見守ってくれる人たちや帰るべき港がいることのありがたさには、駄目になりそうなとき指摘してくれることも含まれることを、自分の冷淡さにいちいちげんなりしながら思う。ただ、迷いがないことがびっくりするくらい周りからの評価に結びつくことも、良くも悪くもなんとなくそういうのあるよなと心当たりがあったりする。ブライアンのふんわりした感じが謎の癒やしだった。この作品の柱の一つなセクシュアリティに関しては、他人が関わってくる面倒くささってあるよという閉口がまず出てきてしまった。自分の場合、他者への関心が全体的に希薄なことに加えて、分類されることを避けたい気持ちがあるように思う。このへんの感覚はゆっくり漂流し続けているから、断定せずに現状ではとするけれど。でもまあフレディの時代にヘテロ以外で生きる大変さはもう人権がない感じだったんだろう……。『ムーミン谷の夏まつり』でねずみのばあさんが「劇場はこの世でいちばん大事なもんじゃ、してみる勇気はなくても、どう生きたらいいか教えてくれる」みたいなことを言っていた。ままならなさに絡め取られながらも気高く歌うことを選んだフレディを見ると、自分にとっての劇場には映画も加わったよと思う。

2020年11月21日(土)

きょうのフリマは普段の週末と同じ規模だった。出所を確かめずに情報を鵜呑みにすると肩透かしを食らうな……。プライベート・プレス(個人誌)の『アフリカ』が直近の三冊ぶん届いた。たまたまネットで知り、「日常を旅する雑誌」というコピーに興味を感じて取り寄せたのだった。少しずつ読んでいく予定。日没後にISSを見た。まばゆい光が正確に空を渡っていく様子は灯台の動きのようだった。あれはコストで言えばピラミッド並みな史上まれに見る建造物であること、そこに人がいて遥かな高みから地上を見下ろしていること、あれは人間の宇宙に対する最前線なこと。あの光を見るとき、日々の生活の中にも宇宙開発の根が下りている。なんの気まぐれか分からないままに、ごく短い話をいくつか書く。話と言うより断片。