2021年6月30日(水)

気がかりがあって泌尿器科へ行くと、採血はあす朝にとのこと。市のワクチン接種について検索したところ、僕は基礎疾患持ちに該当するため接種券の送付申請ができるらしい。おそらく申請するけれど、ためらいが生じることにげんなりする。権利は淡々と行使すればよいはずで、公表はしばらく先というのが落としどころかな……。すいかずらのグラハム・トーマスは、すでに六つついてる花序のひとつが咲き乱れるように花開き、近づくときつい香水の香りを漂わせている。茉莉花もぱらぱら咲き始めた。気の塞いでしまいがちな時間を過ごしていることだし、こうした花を見ることに重きを置けたらずっと楽になれるのだろうな。

2021年6月29日(火)

HTML5がメインストリームの規格ではなくなっていたことを、少し前になにかの記事で読んだ。サイトの構文をXHTMLからHTML5へ書き換えたときは、新しい機能を持ったタグの多さに四苦八苦したんだよなー。これから切り替わっていきそうなHTML Living Standardは、それまでのものとの差分が現時点では少なく、個別の機能に小さな修正や強化を積み重ねていくようなアップデートの仕方がされているそう。いずれ書き換えられるだろうか。あー、まだまだ活力は戻ってこないらしい。こういうときに感じる焦りや苦しみは、こうあるべきなのにそれができていないという乖離にあるから、自分を縛る義務感はとりあえず外してしまおう。心がネガティヴな状態はいぜん続くように思う。

2021年6月28日(月)

自分が人より勝っている必要はない/他者と比べる必要もないってことは、日ごろ思い出すことではあるけれど、今のところ際限なく葛藤してしまうことであるなー。常に願って動機付けをしながら認知へ軌道修正を入れていけば、それはいずれ自分の考えになる、ということも知ってる。おとといから茉莉花が咲き始めた。すいかずらもつぼみの付いた蔓を獰猛に伸ばしている。もうじき六月が終わってしまうことに実感が伴わない。外界が閉ざされているときは当たり前だけれど意識の向きが内面へ向かうもので、春からlisnのお香を焚くペースが増えている気がする。言葉に頼らないイメージの世界を続けざまに旅行できるのが心地よいんだよね。「SMOKE TONE 04」に続けて焚く「231 AVENUE」は、日の光がよく差し込む喫茶店からおもての人通りへと繰り出すイメージがとりわけ気に入っており、香を何本も取り出したときのしんがりの組み合わせとして重宝してる。

2021年6月27日(日)

本を読んだりして過ごす。きのう二度目のワクチン接種を受けた母は、今回のほうが副反応は弱いと言っていた。午後から庭いじりをしていたからその通りなんだろう。日没後にしとしとと雨。宵の過ぎにごみを出した帰り、朴の木の下で雨宿りをすると雨音は大きくばたばたと聞こえた。あー、心が弱っていると些細な失態をひどくいたたまれないものとして思い出してしまうなあ。活力があるときにはそうしたことは脳裏を横切ることすらないから、物事というのは主観での受け止め方次第なのだと思う。それはそうとしても客観というのは仮想で、人に生まれたら自分の視野からものを見て生きざるを得ない以上、心の向きやスイッチを入れたり切り替えたり、楽になる認知のチューニングを探しながら試行錯誤しような。

2021年6月24日(木)

夕方近くに激しいらいさまがきた。鉢のくちなしは短く刈り込んで坊主にし、花やつぼみが残った枝は挿し芽にするつもりで瓶へ活けた。買った時点でひょろひょろと徒長していた株だから、来年へ向けて花芽が形成されはじめる前に樹勢を整え、鉢植え向きの株に仕立てたい。これだけ強く剪定してしまうとどれほど芽吹くものか、想像はまったくつかない。植物は試行錯誤と経験値だと思うから、屋内に置いて様子を見るつもり。すいかずらと茉莉花は花芽がいくつも充実してきてる。こちらの二つはわりあいマイペースで、気温さえあっていれば花をつける植物。そろそろ梅雨の湿度は過酷になるだろうからすいかずらの葉裏に注意する。『アマゾン河の博物学者』を読み進めた。

2021年6月23日(水)

バイク屋さんが来て原付のオイルと後輪のチューブを交換してくれた。前輪のタイヤは年末あたり交換時らしい。チェーンが緩まない運転してるから儲からないなとか、原付きれいにしなよおじいちゃんの乗るやつみたいだよ、なんて掛け合いのあとで帰っていった。それで買い物から戻ってきたあと、メラミンスポンジとぞうきんを使って原付を掃除。クレマチスにさび病が更に蔓延しそうなことに気がついたため、患部の葉を母と取り除き、霧吹きに入れたラリー水和剤を執念深く葉の両面へ吹き付けた。クレマチスにとって夏は過ごしにくい季節なのだろうな。これまで歴史に触れずに来たからと読んでいた世界史の解説書はしばらく前に役目を果たした。戸田山和久氏の本に「歴史を年表にまとめてみるといいよ」と書かれていたこともあり、このタイミングで個人的な参照先を作ろうと思い立った。それで、おもに自分が気になる出来事ばかりWikipediaからピックアップしながら、表計算ソフトを使って年表をまとめる作業を始めてる。これたのしい! 急に開けた野原を駆け巡って美しい花ばかり見て回る喜びだ。いや、歴史は美しくないようだけれども。年表をまとめたい動機として「創作世界で登場させたい技術や概念を取り扱う上で、こっちの歴史感覚をベースに補正したい」というのもあった。あんまりかっちりやると想像の足を引っ張るだろうから、自分の凝り性が煮詰まらないようほどほどに埋めていこう。19世紀のあたりのセルは科学や技術の発展に目を見張ることになりそう。文学ジャンルとしてのスチームパンクはこうした時代の推進力をベースにしているんだなーと思ってわくわくする。活力が戻ってきたかも。

2021年6月22日(火)

叔父の命日につき、墓へ母と出向いて花を供えた。あす朝に原付の修理のためバイク屋さんが来る手はず。二晩ほど水切りしたヨーグルトに畑のディルをちぎって混ぜ、食べた。わりと行ける新鮮な味だ。ディルの香りそのものが馴染みのないものだけれど、透明感のあるグリーンというんだろうか、プレーンなヨーグルトチーズの酸味も加わって、朝を感じる目の覚める味だと思った。一緒に味見をした母は口に合わなかったそう。残った乳清は牛乳とレモン汁を使ってリコッタチーズにした。こちらもヨーグルトチーズのように冷蔵庫で水切りしている最中。畑の土は堆肥を混ぜすぎたらしく、植え付けた野菜の成長が遅くなってしまった。ので、ディルの収穫量も現時点では限られるのが少し残念だ。それはそうとして、こうした変なことを実行に移せる活力は多少なり戻ってきたのかもしれない。

2021年6月21日(月)

夕方の買い物の帰りに、道沿いにある見晴らしのよい高台のことを思い出し、夏至だからねというよく分からない理由を付けて原付で上っていった。夏場らしく水蒸気で霞んだ遠景のなかに、沈み行く太陽と車が往来する町並み、獲物を探すつばめや東の寝床へ向かうからすの群れなどが目に入った。地平線近くの雲間に滑り込んで輪郭がはっきりした太陽を見ながら思う。標準的な恒星があそこで煮えたぎっていることや、光の速さで何分もかかる距離にありながらあれだけの面積を視野に持つこと、この空があの雲のように様々なレイヤーを持ち、その上部には剥き出しの宇宙空間とあの恒星があるんだ、ということなどを。そしてその空に、暗い森から日だまりへ飛び出し、日焼けした道を抜けてたどり着く、風が吹き抜ける夕暮れの草原のことを重ねていた。もしいつか自分の創作世界の中で、その草原に誰かがたどり着いたときには、その様子をなんとか書き起こしてみたいな……。レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)を読んで何度も泣きそうになってしまった。そう、これ。こういう言葉だったんだ。自分の中にもそれなりに残存して自然へと惹きつけられる原動力のことが書かれていた。この歳になれば物事に名がつくことは怖くない。センス・オブ・ワンダーとタウマゼインを希求しながら生きていこう。ほか林将之『樹皮ハンドブック』(文一総合出版)のめぼしいページに付箋を貼った。携行しやすい装丁のなかに必要な情報が載っており、これもよい本になりそうだ。夏至の夜につき、読みさしにしているたのしいムーミン一家とムーミン谷の夏まつりを、作中で夏至のあたりまで読み進めるつもり。訪れる季節と物語を撫でながら過ごす寝しなは、上質な甘い菓子に感じる。