めんどくさかった用事を片付け、細々とした買いものも済ませて帰途。やな感じが身体に居着かないよう厄落としも兼ねての暴言になるけれど、なんだそのつける薬もない対人様式は、おまえの壊れ方を私に無駄に開陳するんじゃないよ、みたいなすっごく厭な出来ごとがあった。その人自身が作りだす地獄に自身で囚われている、そしてそれに気付く段階は過ぎているタイプの拗らせ方。こういうのはパターンとして見ており、過去にも判で押したように似通った拗らせ方をした相手に遭遇したことがある。他者に対する敵意や執念がそのひとの空気としてぐちゃぐちゃに醸されているような。こちらの身体が拒絶を感じたということについて、それは否定しなくてよいし、理解や包摂を試みなくてよいのだろう。そして、ひとはどうありたいかはじぶんで願うことができ、おおむねそのようになっていく、そう思うなら文句もほどほどに適当にしとくがよいよ。セルフケアして眠ろう。思い出した、出かけた帰り道、夜桜を毎年見に行く高台へ花の下見に赴いた。桜は三分か四分咲き。枝先の花やつぼみを見上げていると、ゆるやかでよい風が吹いていて、身体のなにかが弛むみたいだった。ほんとうはね、そうしたひとときこそが人を生かす。目も当てらんねえぜ、みたいに思ってても、世界はその美しさを無頓着にこちらへ注いでいる。
2026年3月29日(日)
タイ料理の居酒屋を新たに見つけ、そこでヤムウンセンを食べた。ここも手加減なしに辛くておいしい。ここのヤムウンセンは挽肉とピーナッツ入りなのが特徴。テイクアウトもして、それから近場のブラジル食材店へ。旅の帰り際にもブラジル料理を食べて思ったけれど、ブラジルのひとというのは肉を、それも特に牛肉をたくさん食べるのかな。店内には焼いたソーセージと鳥の丸焼きが並んでいた。店主にあれこれ訊いて、よくわからないお茶や飲みもの、ココナッツのお菓子など買ったり。花屋へ立ち寄って机のうえに飾る花を見つくろい、それからこんどはGoogleマップで見つけたアジア食材店へ。スリランカものが多めだったろうか。こちらでもお店の方にあれこれ教えていただき、ジャックフルーツ入りのカレー缶だったかとお香各種などを手に入れた。ここでなら冷凍ドリアンが手に入るということを知ってしまったよくわからない喜び。どちらの食材店も、異邦の雰囲気を感じるひとたちが出入りしたり買いものにきていた。なんというか、地域に小さく海外が点在しているような、そこへ入れば異邦の気配に包まれるということが、おもしろいような不思議なような。うちへ帰ってきてからは花を飾り、先のお香を焚くなどしてのんびりするうち夜。夕にはことし初めての雷が幾度かとどろき、宵から夜半に書けてすこし雨が降った。町中には桜が咲きはじめていて、コブシとモクレンの白も目立つ。桜を撮らなければという焦りは全くなし。思うのは、回復というのは曖昧な状態を曖昧なままくぐり抜け、あとから意味がついてくる、そうしたプロセスなのかなということ。だとしたら言語化なんてものも善し悪しよね。ここでむやみやたらと言葉を書き出すことは、まあ習慣になっててしてしまうんだけれどさ。主治医があまり指導めいたことを言わず見まもりに入っているように見えるのは、こちらがくぐり抜けるべき曖昧さを外からの答えで収束させないための配慮なのかもしれない。また別の話として、回復とはつねに新たなじぶんの創造なのだろうということ。一度元気を取り戻したときにはできたことを、いま再度取り戻したいと思っても、おそらくひとのあり方はその都度異なるんだ。あのときはああいう芽吹き方をしたものが、今回はそうはならずに別のかたちを取って現れてくる。具体的にいうと前回の回復では写真/創作というかたちが現れ、いまは飲食店開拓/知らない場へ踏み込んでみるというかたちが現れてる。どちらにも探索モードが働いているのはじぶんの根がそういった張り方をしているからかもね。先は自然や地域に対して発現していたのがいまは文化に対して立ち上がってる。こういうのって必要に応じて現れるような側面もあるのではと思うけれどどうだろ。結論なし。外からはまとまった雨の降る音が聞こえてくる。
2026年3月28日(土)
なんだか旅の疲れが取れないなーと身体が凝るようなげんなりした感じを覚え、こういうときはねと夜の散歩へ出かけた。かえるたちの軽やかな声がもう聞こえ始めていた。水の入った田んぼは数ヶ所だけだったけれど、そこに水鳥の小さな群れがいるようで、こちらの気配に合わせて向こうも場所を変えているのが声と音で分かった。薫る風の中に沈丁花を見つけたり。帰ってきてからオフロに浸かり、それで疲れはそこそこ取れた気がする。それとは別の話で、HEMのお香を70種類ほどウェブでポチった。はまったものに突進しますね、とかつて言われたことがあるけれど、うん。でも本家のサイトを見たら香りの種類でいうと400種以上のラインナップがあるようなので、始まったばかりなんよ。長めのインセンスホルダーや香皿ってしっくりくるものってなかなか見つからないね。細長くシンプルな木の皿がよいのだけれど。とりあえず目星をつけたもので使い心地を試してみる。こういうのはよい木材を手に入れてじぶんで削り出してつくれたら納得するのだろうな。
2026年3月27日(金)
疲れが出て夕近くまで眠りこけていた。旅行について軽くまとめておくと、ぬい四名といっしょに二泊三日の房総巡り。初日は茨城を抜け海沿いに銚子の犬吠埼へ。せっかくの港町だからと、ひとりとしては初めて居酒屋へ入ってみた。カウンター席の小さな居酒屋で、おかみさんがひとりで仕切っており、八人も座ると満員だったろうか。土地の人たちといろいろ話し、目の前の海で採れたものを味わい、灯台の下にある小さな海浜公園で車中泊。ぬいたちと潮騒を聞きながら眠った。二日目はまず犬吠埼灯台へ上り、それから居酒屋で教えてもらったように海産品センターへ向かい、刺身定食を食べ、土産物屋でうみうさぎの貝殻を購入。お店の方としばらく話して連絡先を交換した。それからは房総半島の先端を目指して海沿いを南下。道の駅を見つけては立ち寄る。途中から雨になり、そのあとはずっと降り続けた。下るにつれ景色には棕櫚の木や新緑が増え、何種類かの桜がもう咲いていたり、マリンスポーツや釣り具のお店が目立った。宵のころ館山へ着き、また適当に居酒屋へ入り、店主や地元の方にいろいろ話を聞いたり。そこで教わったように海岸前の駐車場へ車を止め、そこで三月の雨と潮騒を聞きながら眠った。三日目は朝六時から出発し、道の駅を覗いたりしつつもひたすら北上。千葉市をやや迂回する経路で走り、利根川の両側は広大な田園地帯なんだなーと実感した。ごはんを食べたりしつつ北上を続け、うちへ着いたのは夕方の六時。半日を運転し続けたことになる。二泊三日、計600kmほどの移動は車で問題なしと。まだ疲れを感じるからこのへんで切り上げ。
2026年3月26日(木)
房総半島巡りから帰ってきた。疲れで眠たい。今宵はもうおふとんへ。
2026年3月23日(月)
ぼんやり過ごすうちあっという間に過ぎた日。認知負荷以外の疲れる原因で思い当たったのは「過度にじぶんを問題視する視点」。回復ができていないとか、愛着の傷を手当てする必要があるとか、駄目出ししすぎるからただ休ませるべきとか、それからこうした毎夜の内省とかね。いまのじぶんにいったん満足してみたら、という主治医の言葉でそのように方針を採ったわけだけれど、腹落ちしていなかったかもしれない。とりあえずじぶんは疾患に折り合いをつけ、日常を取り戻した。ほんとうに深刻な問題はただひとつそれだけだったとも言えるし、それはもう解決できたのだと言ってもいい。変えなければと思っている箇所は必須でなければ〆切もなく、オプション。ひとまずリカバリーしこの水準にくるのは単純に大変なことだったよ、到達という言葉をここで出してもいい。愛着とかつねに新たな問題解決に取り組みたがるけれど、疾患ひとつに絞ってみればたいへんよい感じに寛解しており、さまざまな患者さんを診ている主治医視点だと現状維持ができればなにも言うことはない、くらいであろ。いまのじぶんはなにも問題ないんだよ。いまとこれからのことをすきに考え、決めていく自由もある。ひとまずじぶんは満足のいく仕上がりになっている。そのままなにもしなくていいし、好き勝手にだらだら過ごしていい。……それで、どうだろ? 「回復ができていない」「愛着の傷を手当てする必要がある」と、「いまのじぶんはなにも問題ない」「満足のいく仕上がりになっている」「そのままなにもしなくていい」とでは、疲れの軽重に違いを感じそうなのは確か。であれば、自己に突きつけている課題はいったん置いてみる。課題を抱える自己ではなく、満たされている自己として捉える。いまふと思ったのだけれど、自身が満たされている存在だということを理解できるとしたら、それは救われているというような表現になるなにかなのだろう。満たされている自己という捉え方はきっと大切。ひとりでいることが豊穣の野であるくらいに内側を潤すことに余念はなかったでしょ。こうした捉え方を踏まえ、冒頭の「過度にじぶんを問題視する視点」から「満たされているじぶんを味わう視点」へと方向転換してお気楽に過ごしてみる。たったいまの肌感で、でも問題を手放してしまうのはすこし怖い、つねに問題解決に取り組み悩んでいないとなんか不安な感じ、というのがあった。これがじぶん自身の甘えたさ、甘やかしてあげたさを制限している観念では。いったんじぶんを好きなだけ甘やかすこと、それで満足することでようやく内発性や主体性が立ち上がってくること、回復したければその経路を通る必要があること、そうしたことを前提にするわけなので、いったん手放してみることが解決や回復へ続く道だということを怖れずに受け入れる必要がある。もう必死にならなくても安全なんだよ、ってこと。それで、満たされているじぶんをどのように味わうか、が肝心なテーマになるのだけれど、もうあたまがふわふわしていてなにを書いているのか分からなくなってきた。ひと息ついたらおふとんへいこう。それと散歩でよいから運動をしよう。現状の突破口は見えており、散歩なんだ。おやぷみ。
2026年3月22日(日)
うれしいこともしんどいこともあった日。高原のほうの料理店へ行ってみたら観光地でしたかというあれで、食べるのは止めて周りのお土産屋へ足を踏み入れた。所狭しと並ぶアジア系の雑貨をふーんと見るうち、小さめの花びんを見つけた。気泡がたくさん入っていて透明な、手吹きガラスのシンプルな花びん。こういうの探してた! と手に取ってまじまじ眺めるうち気分が乗り、買いものかごを持ってつぶさに品々を見て回るなど。星野道夫のエッセイに、季節の移ろいひとつに心を動かされてしまうようなその浅さで人は生きていけるのでしょう、という旨の言葉があったけれど、じぶんのこういう軽さに悪い気はしないね。それから数ヶ所に分かれているお土産屋も覗き、お香が充実している一角を見つけて前のめりな気分になってしまった。HEMの六角柱の箱入りなお香がたくさん並んでいる。ひとつひとつ手に取って香りを確かめながら気に入ったものをお買い上げ。チャンダンやムーンという名前のが売れ筋で有名でもあるようだった。そのあと移動して喫茶店でひと息ついてからギャラリーへ向かい、オーナーさんとしばらく話をした。じぶんがいま行っている、印刷所へジークレー印刷を注文して作品を仕立てるというやり方は高くつく。高価格帯の6色くらい使うプリンター、といっても5~10万くらいのものでもじゅうぶんにジークレーと見分けが付かないくらいのクオリティがあること、そっちにすればすぐ元は取れるよ、というアドバイスをいただいた。オーナーさんの姪にあたる方がジャーナリスト・フォトグラファーで、そのギャラリーでの展示に使ったという東日本大震災直後の現地を写したプリントを拝見したり。なにかしら誰かしら、活躍されているのだなあみたいな思いがよぎるときには毎回思うのだけれど、じぶん自身はひとかどの立場や社会的な肩書きといったものから距離を置くことにして、内的な充実に舵を切ったでしょ。評価されることというのも競争や比較でできていて、そうした経済の枠組みに回収されることからはうまいこと半身抜けたいんでしょ? 感心経由ですら、通念ていうのは簡単に侵入してくるのだよなーと思う。そのあと夕餉の食材を買って帰途。しんどいこともあるにはあり、それだけ書けばじゅうぶんという。HEMのお香を数種類焚いてみて、どれもエキゾチックでよい香りと思いつつ、それなりな受け皿を使うほうがよいのだろうなという大きさと灰の落ち方。耽溺しているリスンは茶さじがしっくりくらいのサイズだからね……。そういうふうになっているとはいえ猫の目のように気分が動いて思うのは、ネガティヴな気分での失望はほんとうにまっ暗という感じなのだけれど、多少持ち直して思い直したときには深刻さはさほどではなくなっていて、ではどちらを基準にするかということ。悲観は気分で楽観は意思というフレーズを採用するにあたり、気分に圧倒されがちとはいえ、そのあとの沈黙や余白がベースラインの気分へ戻るために必要なもの、なんだと思う。この「戻る」「戻れる」という自己調整/自己効力感の育成/メタ認知が回復における身体的アプローチでは鍵となるもの。そのうえで指針や方向性が出るならそれはするのがよいよ。まとまりがなくなってきたから今夜はここで切り上げ。
2026年3月21日(土)
ぬい一名を連れ、定期通院先へ寄ったあと、半日のドライブ。とくに目的地を決めたわけでもなかったから、田舎ののどかな道や細くて変な道をあてもなく走った。穏やかで車内はすこし暑さも感じるような陽気で、土手や空き地、畑地にホトケノザかヒメオドリコソウの渋い紫色が絨毯のように広がっているのを見たり、早くもハナダイコンが咲いている林縁を通ったりした。やっぱり趨勢はまだ梅で、ソメイヨシノには早いような。直売所を二カ所覗き、売り場にたけのこが並んでいるのを見かけた。なんとはなしに目的地にしていた道の駅は臨時駐車場まで満杯だったため、車は止めずに再びぶらぶら。まさに学校の裏山という落ち葉に埋もれるような曲がりくねった細い坂道に、なぜか懐かしさや穏やかさを感じたり。おひるはGoogleマップで見つけたピザ屋に入り、桜の生地とソースを使ったピザを食べるなど。ソースは甘くてよい香り。チーズの上にはちみつをかけるのがおいしい……。そのあと帰路へ。目的もなく車で走っていると半日がすぐ過ぎるという意外さ。うちの仔も一緒だったし、音楽流しながら口笛吹くのが気持ちよくて、こういうのはわりと性に合っているのかもしれない。思うに、不安というのは少なくとも三種類あるのでは。ひとつは怖い、脅威を感じる、じぶんの存在が脅かされているという不安。これは熱狂や怒りと相性がよく伝播しやすいため、SNSでは正しさのガワをかぶってはびこっているもの。二つめは情報が足りない、未知である、備えなくてはという不安。これは探索にも伴う不安で、シンプルに自分自身からのメッセージ=対処依頼であるというメタを取れると怯えなくて済むもの。三つめは心身の不調ベースで生じるダイレクトな不安。これはねえ、身体のコンディションからまず整える、生活改善という基本がすぐに効く。認知や価値観の更新もよいけれど、それには時間が要るから腰を据える必要がある。時間的な射程でも分類できると思ったけれど、それをしてどうなるんだろ。直近の不安は現状の反映だから変動が激しいぶん過ぎ去りやすく、ぼんやりとした拭いがたい不安は人生の過去や未来に対して生じており、整理と見直し、軌道修正が必要というサイン。とくにオチなし。これ書いたらオフロ入ろ。
2026年3月20日(金)
なにごともなく。布団カバー類が届いたため、車の荷席に積んだそれらにかぶせたり。うん、とりあえず自由。どこへ行ってもよいよ。気晴らしに海などどうかねえ。夕方の買い出しにて、桜らしい色合いにけぶる木をやや遠目に見かけた。樹形からするとふつうの桜だと思うけれど、それならわりと早咲きになるし、どうだろ。道沿いの家々には梅や木蓮もちらほら。世はすでに春。気分的に籠もっている感があるというか、感受が自然の流れにあまり反応してないね。ダメ出しを止めようと書いたことだし流れに任せてみる。アレルギーの薬を使っていても鼻づまりがするんだよねえ。仔猫の影響かなと思い、居室に念入りに掃除機をかけてみたものの、変わらず。飲食店開拓をしていて思うのは、なんとなく顔見知りというひとたちが地域に点在しているという、これまでのスタンドアロンな人生からすると意外な関わりのあり方。お店の人たちではあるけれど、あなたのこと覚えてますよなんて言われると、ちょっと不思議な気がする。インドカレー専門店のスタッフさんやタイ料理の居酒屋のおかみさん、フィリピン食材店のご婦人は出身もそちらかなという感じで、ゆえにいろいろな経験をされているからかもしれないけれど、なんというか、フランクに接しやすいというか、人馴染みがするというか。人馴染みって言葉ある? そうしたひとたちとの小さなやりとりを振り返ると、逆にじぶんが異邦をぶらぶらしててもいいんじゃないか、そんな人たちみたいに渡って行けそうな気もほんのりしてくる。そのあり方で、店に来ただけの知らんやつがほんのり前向きになれてるってこと、誰に伝えるともないけれどそうしたあり方はありがたいものだね。さっき鼻づまりがと書いてから窓を開け換気をしたら症状が消えた。これを書きはじめる前まで仔猫が部屋で遊んでいたから、で確定ぽい。情報依存についてのあれこれはそれなりにといった感じで、画面を見ていると目やその周りの筋肉が疲れるのだなという、当たり前の感覚が出てきた。それをすることの負荷というものに自覚が出てくるのはよい傾向なので、このまま続けてみる。
2026年3月19日(木)
なにごともなく。
