五月のような爽やかな日差しと青空だった。そして風に当たっているといくぶん冷える。日中の物陰にはまばゆい季節特有の青みが乗ってきた。桜も散ったなーとあたりの木々を見つつ、切り替えのある気候だことと思う。桜がすっかり散ってしまうと、じゃ、もの憂いのはこのあたりでね、さあてここからはやることやっていかないと、みたいに足早な新緑の気分のようなものを感じる。そしてそれに追いついていけずにぼんやりしているじぶんのことも。葉桜が伸びていくなかで気持ちも身体も佇んだままなのは、学生のころからあいかわらず。あいかわらずというのか、この感覚は時をあっさりと越えてあのころと共にある、というのか。身体的。しょうもない話になるけれど、歯茎が腫れてしまい週末で病院がお休みなため、余りものの痛み止めと抗生剤でやり過ごしていた。おくすりに対するふしだらさも比較的あいかわらず。主治医から言われてここで触れていた「いまのじぶんに満足してみる」について別の角度から思ったのは、じぶんはじぶんに限界を認めていない、限界があるという前提をしていないな、ということ。一度は損なわれた機能であってもこの先は回復し続け緩やかに上昇し続けるみたいな想定がある。その側面で言うと障害を負うということに無自覚とも言えるのだろうか。そのあたりにおいて諦めるという発想はそもそも知らない潔癖な感じ。んー、どうだろうねえ。できることとできないことを受け入れろ、というのも違う気はしているんだよ。でも、このあたりの考えについてぜんぶを一度に書き出さなくてもよい気がしている。夜はまだ冷えてルームシューズが要る気温。ポケモンZAはひとまずエンディングが流れ、しんみり。ストーリーはまだ続くようす。キーボードを打つ手が止まり、なにか思案していたことはないかと頭のなかを見渡している、この感じがもしかしたら居心地はよいのかもしれない。書き出すだけ書き出したら一時的に空になる、その瞬間は、瞑想しているかのように思考がなくて軽い。ふだんほとんど触れないことだけれど、大変な時代だと思う。情報革命という苛烈さのなかにいるし、疫病も戦禍も日常的に触れているし、個は分断されやすく、欲望と抑圧が社会経済を駆動している。勝ち筋に乗るというやり方は個人的にしたくない一方、ちゃんとしなければという自己監視も強引に強いられたくはないなという思いがある。平穏はほしいものだけれど、それについてのさまざまな条件や留保、意味づけ、じぶんがなにをするのかということになると、歯切れのよい語りにはならない。夜更かしの時間を明朝へ回せるならよい傾向だね。おやぷみ。
2026年4月11日(土)
なにごともなく。日中は暑いくらいで部屋着をちょっと変えたり。体や心の声を聴くといってもそれは受け身になることではないなとか、ひとたび世界そのものが歪む体験を経ると基準というものが分からなくなるものなのだけれどとか、思考のなかにいる限り出口はやってこないよねというひまな過ごし方。ひまでいるのはいいけれどね。じぶんに無理強いをしないということについて試行錯誤だと感じているのは、そこの力み自体を緩ませられるとよいのだなとか。出口のない思考が走るときってそれがある種の安定状態になっていて、思考から離れるためになにかするというのが正解なのだよな。メタ的になっているね。ここで切り上げるのがいまの正解。
2026年4月10日(金)
またタイ料理の居酒屋で昼ごはんを食べた。メニュー表を見ているとおかみさんが裏メニューというなんだったかを提案してくれて、それに。ほかの席では酒の入った中高年男性らが殺伐と駄弁っており、こうした人たちもいるんだなーと思う。なんだか気分はよくて、ひとりで水をちびちび飲んでいた。カウンターの上には包装に入ったたらの芽が大量に並んでおり、訊くとここで売ってるよとのこと。確かめなかったけれど、その場で調理したりしてもらえたんだろうか。運ばれてきた料理は豚の各部の肉と巻いた餃子の皮を使ったボリュームのある煮込み。一度にこんないろいろな豚の肉を味わうのって初めてだ。骨までやわらかくおいしい。あとで伺ったところによると大鍋に作っており、それを買いに来るひとたちがいるとのこと。お会計の際におかみさんが揚げたばかりのたらの天ぷらをひとつくれて、思いがけないかたちで山菜を味わい、テイクアウトも受け取りつつお店を出た。そのあとは雨のなかを車でふらふらしつつ帰途。そのあとはポケモンZAを久しぶりにしたり、仔猫の相手をしたり、なんとなく過ごすうちに日付を越えていま。思うのは、じぶんはひとさまから分け与えても減らないものを贈与されている、そのひとの持つ幸を受け取っている、ほかのかたちにはならないものをおすそ分けしてもらっている、そうした感覚があること。たらの芽の天ぷらいただいてうれしかったもんね。いろいろ思い当たることはあるのだけれど、こうした感覚はじぶんのなにかへと回収せずに、ひととじぶんのあいだの流れや循環として捉えるとよいのかな。ほか、思い当たることといえば、やはりあの長年しつこかった怒りの感情になにか変化が起きていること。感じていることはあるけれど、いまはあまり言葉で確定させたくないから言及はこれくらい。このところ生活が乱れていたからほどほどでおふとんへ。
2026年4月9日(木)
納品へ行ったほかはだらだらと過ごす。
2026年4月8日(水)
なにごともなく。あすは喫茶店さんへ、納品と契約内容の確認に。
2026年4月7日(火)
なにごともなかりし日。
2026年4月6日(月)
なにごともなく。なにか不安のような焦りのようなものをうっすら感じると思って言葉を持たないこころを翻訳してみると、フィジカルのコンディション由来が半分くらい、もう半分は回復待ちで四月入りというとくに意味はない区切りがこころをざわつかせるのかなと思った。こうした暦とか年齢といった数字でしかない節目に気分が揺らぐということはあり、それはそれ以上のものではないのだよね。ほかに思い当たるのは、先の総会で活動的なひとたちに触れたこともあるのかな。それも自他を比べる必要はないからね。感触としては、なにもしていないということにすこし負い目じみたものを感じるところが出たのかも。主体性や内発性で行動できるならよい傾向だけれど、内在化された外部の声をじぶんのものと取り違えて不安になるなら、それを打ち消すために行動に出ようとするのは勘違いであり、体調を整えたうえでこの心身と向き合うか、現状の方針を信頼してあまり気にせずゆったりと過ごすのが吉。まあね、なにもしていないということが気になり始めたのであれば、一足飛びに現状更新のアクションを立ち上げようとするより、まずは散歩を日々の生活に取り入れることこそが正解と言えば間違いなく正解。散歩をしようかくらいの段階へやっとやってきたのかもしれない、というかおそらくそれが妥当であり、本日の答え。就労支援の場で周りを見ていて思ったのは、苦痛や焦りといった動機は押し出してはくれるけれど、そこから先では推進/牽引してくれる動機も要るので、もし状況が許すのであれば内発性の芽が出てからのほうが行動は起こしやすいのだろう、ということ。リハビリと就活で空っぽになっておいて、働きながら回復できるのではなんて目論見はアクセルとブレーキを同時に踏むような無理だった、というのは実際にしてみて得られた答えだったのだから、当分を回復期間とする方針はこのままでよいよ。そこでなにか得ようとかも考えなくてよし。のんびりする。そういえばアーマンディー・アップルブロッサムが花盛り。薄明かりの時間にデジイチで撮ったら綺麗かなとか考えつつも窓から眺めていた。
2026年4月5日(日)
作家協会の総会へ参加/入会してきた。雰囲気や活動内容を把握しながらつつがなく終え、連絡先を教えていただいたり、連絡網に入ったり。よかったのではないだろうか。知らない場へ飛び込むの、身構えることはそこまでないけれど、疲れた~。外向けの表情つくるのは気力にくる~。帰ってきてからじわじわと疲労感が出ており、ごはんたべて早くおふとんへいこうと思い、ばたばたとこれを書いてる。大昔のじぶんだったらこうした機会では、脳が直接作りだす行動不能な鈍痛に近いくらいの不安に死んだ目で耐えていたものだけれど、いまはずっと楽。場というものに対してじぶんがゆっくりと、でもしっかりと受け入れられる存在だってことを経験の蓄積として持っているし、元通所先のスタッフさん方が与えてくれたものも効いてるみたいだ。心身が持ち直すまでここまでかかったというのもシンプルにある。どれもありがたいことだな……。なんとなく思う、あれだけ手を焼いてきた怒りというものがすこし楽なような、なんか最近そのへんに変化しているものがある? これはあまり言葉で確定させずに曖昧なまま抱えたほうがよいもの。きょうは流れに沿ったつもりだし、ここからも流れ重視で。
2026年4月4日(土)
なにごともなく。庭のアーマンディー・アップルブロッサムが花開いてきたため、パーゴラの下のほうの花序を二束ほど切り取ってきて花びんへ活けた。甘い香りと、気品のある色合い。桜色/チェリー/金といった感じで、この季節のもうひとつの花吹雪。あすは総会があるからほどよいところで眠ろう。
2026年4月3日(金)
午前中は産直と定期通院先へ。お高めのすいかがもう並んでおり、山菜系はまだふきのとうくらい。山菜ねえ。何年か前の大型連休明けに男鹿半島の入道埼灯台を見にいった帰り、立ち寄る産直や道の駅にミズやネマガリタケなどあらゆる山菜が所狭しと並んでいて、これが本場……! と感動したのだった。……ということを千葉の館山の居酒屋でほかのお客さんに話したという。原付ではなくいまの車なら、会津や喜多方、田沢あたりは開店時間を狙って、前日から行けそうにも思う。それはそれとして、産直で野菜を買ったあと建物裏の参道を歩いた。下草が刈られた杉林には新鮮な午前の光が差していて、境内の桜もちょうど満開になったくらいの咲き方。木のつくる影と光の降り注ぎ方が桜を取り囲むようで綺麗だなあと思う。宵のころ別の観桜スポットな高台へ、ぬい一名と一緒に。毎年ここへくるね。町のあちこちから聞こえるかえるたちのかろやかな声に、とりあえず冬を乗り越え春へやってきた、というほっとした感じがする。しばらくそこで過ごし、身体が冷えてきた頃合いで帰途。日曜に総会があるからあすはその支度など。その日のコンディションによって夜が居心地よいときとネガティヴ思考に傾くときとがあり、今宵は前者。きょうふと思ったのは、旅に出かけるとひととの縁だったりつながりができたりする、ということ。そんなこと目当てに出かけたわけではないにもかかわらず、こちらを見つけて関わりを持ってくださったり、連絡先を交換したいと申し出てくださる方々がたしかにいる。不思議なことだ。じぶんはひととのつながりをつくるのが極めて下手なので、今度の総会のようにコミュニティへ飛び込むことと、ときどき今回の房総巡りのように旅をしてみることが、ひととつながるのに適した機会なのだろうな。べつにホヤやなまこを食べに宮城や岩手方面へ行ってもよいし、海鮮を味わいに新潟方面へ行ってみてもよいし、なんとなく思い浮かべているように九州を巡ってもよいし。寄る辺ない不確かさを引き受ける代わり自由なわけで、好きにしたらよいよ。
