2020年4月3日(金)

桜の写真を撮った。神社では朝と正午過ぎの二度、日の光の角度が変わるのを待って試したんだけれど……今年の桜は目で見て楽しむのがよかろ。いまの状況だと野外に出掛ける後ろめたさがあるかも。郊外の観桜スポットを訪れて、桜を眺めたり写真に撮ったりする人たちの姿は、それなりの塩梅で見掛けた。リングフィットをそろそろ再開しような。wp_get_archivesを使うと由緒正しい日記置き場が作れる(メモ)。

2020年4月2日(木)

クレマチスと残りのスイカズラを植えた。『楽しいムーミン一家』と『ムーミン谷の夏まつり』を読み始める前に、『ムーミンパパの思い出』へ手をつけた。三つとも冨原眞弓さんが仰るところの夏の章にあたる。個人的に、このシリーズをこちらの季節と呼応するように読む幸せというのがあって、特に『楽しいムーミン一家』は四月から八月の末まで時間を掛けてめくっていく。ムーミン特有の透き通る光の中へ踏み出していく、寝しなの溶けるような時間が好きだ。近ごろは夕闇の青い時間が長くなってきて、いい季節が来たなあ、と思う。

2020年4月1日(水)

雨。湿度の高さで衣類がまとわりつくこの感覚って、今年はきょうが初めてではなかろうか。あしたは風が立つとのこと。桜が散るのも早いだろね。

2020年3月31日(火)

耳鼻科でアレルギーの薬を出してもらう帰りに近場の桜並木へ向かった。中央分離帯のある大きな道だけれど、工業団地の奥でぶつんと途切れているから、ここを通る車両の目的は周囲の工場へ出入りするか、そばの国道を離れてひとやすみに来たかのどちらか。並ぶ桜は五分から七分咲きという感じだった。その下を原付でのんびり走る。似たり寄ったりな速さで桜並木を流したり、路肩に止まってそこだけの時間を過ごす車を、まばらに見掛けた。満開のころまた来られるといいな。あしたはそれなりな雨降りの予報で、それだと桜の下にアミガサタケが出やすくなるのかなあ、探せるかなあと思う。この三月は情報を閉ざしたり、祖父が亡くなって葬式に加わったり、風邪を引いたりした。色々あったようなのに大して思い出せない気がする。そういえばもう水を入れている田があった。沈殿しない気持ちの中を季節が推進していく。

2020年3月30日(月)

きのう積もった雪はほとんどが解けて消えた。取り寄せた「グラハムトーマス」という品種のスイカズラ(ロニセラ/ハニーサックル)を鉢に移し、部屋のコクチナシと一緒に置いた。強香種だとか。園芸図鑑の説明では肥料食いに思えたので、完熟堆肥と顆粒の化成肥料を鉢底へたっぷり入れた。上手く育つとよいのだけれど。夏場のそのへんの茂みから、野生スイカズラの甘く爽やかな香りが漂ってくるたび、これ好きだなあと感じていたのだった。ほか、グラハムトーマスと「セロティナ」が1ポットずつある。これらのスイカズラとクレマチスの「フォンドメモリーズ」は外に植える予定。猫を埋めた周りにはいずれシュウカイドウが咲くはず。秋冬のあいだの自分は活力が失せて沈黙していたのに、こうして春めくと俄然生き返って動き出してる。

2020年3月29日(日)

雪は昼過ぎまでどさどさと降った。積もった分が溶けるのはあした以降だろね。やはり長いこと積んできた『よくわかる気象・天気図の読み方・楽しみ方』(成美堂出版)を読み始めた。天気に関心がありながら、理科の授業で習う範囲の知識を曖昧なままにしてきたのだった。恥ずかしい。ほか、いまくらいの季節がくると目を通すことにしている現代俳句協会編『現代俳句歳時記』(学研)の春版を手元へ持ってきた。夏版もそのうち。

一年か二年前に道の駅のフリマで掘り出して以来、とても気に入って薄闇を共に過ごした石油ランプが、朝起きて見たら壊れてた。ガラス製の油壺が夜のうちにひとりでに割れ、たっぷり入っていたパラフィンオイルは床のカーペットへ染み込んでいったのだった。あああー。カーペットのしみはティッシュ敷いて重石をしておこう、吸うはず。それよりも、この石油ランプは理想的な形状で好ましい出会いをしていたから、大切にしたかったのに。江戸川屋ランプ – 灯油ランプの専門店棒芯レトロ ランプ シンプル クリアー(商品番号 S27020) が割れたものに近い形状で、手に入れた値段も近かったため、購入。もし今後、口径32mmくらいのガラス容器を見つけられたら、無事なままの継ぎ手やホヤはまた活用できる。取っておこう。

おこもり21日目。30日目が過ぎたら元に戻ろうと思う。あと一週間と少し。優先度の高い積ん読はいくつか読み終えたことだし、そうした収穫をもう少し増やせたら。

2020年3月28日(土)

午後より雨。明日午前中にかけ雪またはみぞれになるとか。八重のコクチナシは昨日の深鉢へ移し、部屋のかき菜の隣へ置いた。一月くらい経って根と土がこなれたら表土に堆肥をやろう。そういえばそのかき菜はアブラナ系の黄色い花をまた咲かせてる。母の愚痴を三時間ほど聞いていた。収納のほうはおおかた片付いたから、残った段ボール箱の山とほこり、がらくた類の掃除は明日かそれ以降に。引越しじみた労力を注いで要らないものの中から紙切れや写真やはがきなんかを見つけ出した。そういうわずかなものが種々の記憶や感情のよりどころとなることに愛しさを感じる。箱詰めが済んで処分予定とした本や漫画類は15箱程、こんなに沢山捨ててしまって大丈夫かと薄ら引く。かつて身近に楽しんだ作品が多い。なにかしら、それが必要ないと感じたとき切り捨てる自分の潔さって、「そりゃやってはいけるだろうけれど未練はないの?」という心の問いも聞こえて、いちいち戸惑う。腰が疲れて眠たい。

2020年3月27日(金)

園芸店にて、取っ手が付いた樹脂製の深鉢を二つ買ってきた。8号相当。日曜は雨らしいから明日の午後あたり植え替えをやれたら。収納のほうは要らない本を箱詰めにし始めたり、整理せずに置かれている物置状態の荷物を片付け始めたり、手掛けている範囲が広がってきた。この土日で全体の蹴りが付くかどうか、ってとこ。

長らく積んできたきゆづきさとこさんの『棺担ぎのクロ。~懐中旅話~』全7巻を一気に読了。物語後半へ向かうにつれ、自分の心を見つめ過ぎたとき近づいてくる、あの恐慌状態のようなものを感じた。でも、読み終えてみて、風が吹いていくみたいにすっきりしたよ。2006年の暮れにこの漫画の1巻を手に取り、7巻まで揃えながらも積んできたんだから、こうして物語の結末へ辿り着くまでに13年掛けたことになる。先日通しで読み終えたARIAも同じ時期に出会って積んできたのだった。2006年末というと僕も棺桶の彼女みたいにぎりぎりで生き延びる姿勢に入ったころだ。あのころのことは記憶や記録がほとんどないけれど、おそらくこれから先の人生も含めた中で、指折りの苦しい時期だった。ああしたときでも知ってか知らずか、いまここへ繋がる受容の糸を何本か握っていたんだなーと、ほんのり不思議。本って、読み手の側に受け入れる準備が整って初めて意味あるものとして開かれる、理屈としては当り前のことなんだけれど、こちらを少し特別な気持ちにさせてくれるものだと思う。『棺担ぎのクロ。~追憶旅話~』という番外編を見つけた。

いま始まったラジアンFでやまだひさしさんが話していた「世の中デコボコみたいになってるから」に、好きだったゲームソフトの設定を思い出した。糾える縄というか、エネルギー保存則みたいに幸せ保存の法則がある、というお話から始まるトランプ遊びの物語。「めるへんうぉーかーAlice」というシリーズで、検索してみたところ体験版はいまもVectorにあるぽい。

2020年3月26日(木)

クローゼットの収納に手をつけ始めた。ボール箱をもう少し高く積めるようにして、使わないものを効率よく仕舞い込もう。祖父が置いていった電動ドリルで樫のほだ木に穴を開け、クリタケの菌駒を打とうとしたところ、一本全部に穴を開けたところでドリルからビットが外れ、木の幹深くに潜り込んでしまった。あー、僕はこういうへまをするやつだったか……。祖父が使っていた菌駒用の木工ビットは根本が丸軸という形状をしていて、これだといくら噛み合わせをきつくしても負荷が掛かれば外れるよねえ、なんて訝しんでいた矢先だった。ホームセンターで六角軸の菌駒用ビットを買ってきた。これなら外れることはないはず。一度は埋まった刃を取り出そうとほだ木をのこぎりで切り出したのだけれど、二度目でもういいよ、という気分になった。樫の木はほんとに堅い。夕暮れの空は淡く限りない階調の中に緑の領域を宿していた。三月の日没には繊細な緑色が出ることがあり、今日がそういう日だったみたいだ。自然や気象を相手にするのはいいかもね、と思う。