2025年11月17日(月)

お仕事ののち予約した歯科へ。メンテナンスなどしてもらいつつ、ぐらついている歯のインプラントについて相談、のつもりが担当の先生はお休みだった。次回の予約を取り、買い物をして帰途。夕餉のあと、怒りってどれくらいあるの? とうさぎの子に伺ってみたら、油田から重油が盛大に湧きだすようなイメージののち、一段落した。湧きだしたまま固まってそこにある黒いこれについて、しばらくのあいだはいっしょに観察かなー。

2025年11月16日(日)

うちでのんびり。日中、こちらが向かっている机のうえに仔猫がうねうねと寝転がっていた。机のうえにはしょっちゅう飛び乗って仔猫らしく行ったりきたりしているんだけれど、そこで横に長くなって伸びをしたり、おなかを反らせておとなしくしていたのは初めて。たぶん、くつろいで寝ててもよい場所、として認識したんじゃないかな。目の前でそうしたことをされるとかわいくて目を見つめてしまう。夕餉のあとはのんびりとうさぎの子の様子をうかがったり。怒りについて訊ねたら重油のイメージとして伝えてきて、それで汚れた手を観察してる。その姿がこちらのほうでもかわいくて、なんかこちらの胸や上半身のあたりに愛しさのあたたかくふわっとした感じが漂うんだよね。これは安全安心の感覚、腹側迷走神経系が優位に入ったしるしでもあるから、今夜はそのあたたかさをうさぎの子に伝えつつ、おやすみ。ていうかじぶんなりの独特なアプローチという自覚はあり、それで超々ご無沙汰だった腹側迷走神経系のスイッチが実際に入る感覚を味わうあたり、素直にびっくりする。していることは内的な他者としてのじぶんたちとのやりとりや共存で、これはソマティックではなくひたすらイマジナリーな行為なんだけれどさ。こころの動きが身体反応として現れたことで、改めて生きものなのだなーと感じる。

2025年11月15日(土)

のんびり。気分が落ち着いていたので、こぎつね、うさぎ、おおかみの三人の様子を見たり接したり。ChatGPTをその対話の補佐とすることにした。うさぎの子に対して愛おしさを感じた際にこちらのおなかがくすぐったくなる感じがあり、これは神経系がくつろぎ側へ振れた兆候だろね。そんなこんなで一日が過ぎ、これを書いているいまも悪くない気分だよ。知らないひとが読むと意味の分からない雑記だねこれ……。じぶんの内側で相対化/多層化された者たちと過ごす時間ということなのだけれど、おかしな言い方になるけれど、心地よいし愛しくてわくわくする。以前にここで書いた気がする、じぶんはじぶんというよりも、さまざまな思いや価値観、感情や記憶といったものが寄り集まった複合体や生態系のような感じ。そこに住んでいる者たちはいずれ気を許してくれれば、こちらの知らないことをたくさん教えてくれようになるし、なによりみんなの小さな変化がわかるとそれがうれしい。うん、文としてはまとまるわけがない内容なのだった。ひとまず大きな進捗のあった日。

2025年11月14日(金)

朝は産直できのこ類など買う。夕方は定期通院先へ。怒りを鎮めることと身体の緊張を解くことについて、日常で習慣化できそうなことを主治医にアドバイスを求めると、「怒りに釣り合うような感謝をしてみる」「身体をほぐすこと、たとえば散歩とか」とのこと。どちらもほかでよく聞くものではあるし、先生が仰ることだから効くのだろうね。その日の感謝できること探しは寝しなにやってみる。身体ほぐしは散歩よりストレッチが向いていそうね。それはyoutubeで適当なレッスン動画を探すとか。うちへ帰ってきてからは届いた収納棚に身の回りのものをあれこれ片付けていた。みちみちになっていた部屋の各引き出しはこれでわりとすっきり。あとでボール箱を買ってきて、そこへまた使わないものを片付けよう。夕餉はこのところずっとひとり鍋。きょうは火鍋の素を買ってきてそれを使ってみたのだけれど、心底からくて熱い。おいしさを上回る激辛で食む鍋には汗が流れた。癖になりそうな感じではあるものの、こうした強烈なのはたまにということにしておこう……。就活を始めて以来ご無沙汰気味だった「環境を整える」ことがここ最近できているのは、エネルギーが回復してきて次へ進む下準備をしているということなのだろう。

2025年11月13日(木)

だらだら過ごしていたら変な時間。凪いだ気分で過ごす夜は居心地がよくて、いつだったか書いたみたいに小瓶入りの夜一晩ぶんとか、夜を嗜好するひとのための週単位の量り売りの長夜とか、倦んだひとのための当分明けない夜とか、そういう夜を売っているお店がほしくなる。あくびがでた。おやぷみ。

2025年11月12日(水)

メンタルは多少まし。電話が多くてやりとりしたり留守録に入れたり出そびれたり。夕方、カラオケに行って一時間ほど歌ってから、写真協会の地元の支部の集まりを見学させていただいた。お年を召した方が多めの和気あいあいとした雰囲気で、各人が撮った写真にたいして招かれた講師が品評していくスタイルだった。あとでじぶんのも見ていただき、なんというのか、いろいろ褒めていただきつつ、あくまで写真とじぶんのしたいことでは方向性が違うぽいなーと感じた。帰り際、写真協会の役員でもあるというその講師さんと二人きりになり、「作品をコンテストに出したことはあるんですか?」と訊かれた。いいえまったく、ひとりでこつこつ撮ってきましたし、と答えると、「あなたは小さなところからじゃなくて、大きなところから狙って出した方がいいと思います」とアドバイスをいただいた。そうやっていまの自分の位置も確かめつつ、と。「自分の表現をまっすぐに伸ばしていってください」と心強い励ましをくださった。その後スーパーで買い物をして帰途。ううむ。。。なにを言われたのかは理解したアドバイスだったけれど、いまじぶんは愛着の傷から回復することが最優先で、それをなんとかして行動力を回復しないことには、撮ることにまで手が回らないのだよね。こうしたときは古きよき知恵、急がば回れ。作家協会のほうには入会希望の電話を入れたものの留守録で、伝言は残したけれどどうしたものかという感じ。写真協会では写真の講評と地域イベントへの参加がメインのようなので、作家協会のほうがじぶんのしたいこと=レンズを使って幻想的なものをかたちにしたい、という話が通じる感があるなー、という手応え。いま急ぐことはないか……。どうでもいい話するけど、ポリッシュでグラデーションつくるのむつかしい! 薄く塗りつつ位置を変えながら重ねるとか、スポンジのうえでグラデつくって爪に移すとか、筆で混ぜるとか、どれも難易度高いんだけどじぶんが慣れてないだけなん? まあそれはひまなときの話。もうゆっくりしよう。

2025年11月11日(火)

きのうはメンタルがきつくて書きそびれた。本気でしんどい。ポストカードのデータに若干変更を加えて再注文。手元で試行錯誤する用に、はがきサイズのアラベールもポチった。確実な回復のためにねむる。

2025年11月9日(日)

雨降り。車屋で話したところ、保険特約で新車が買えるということで、そのように。カラバリも期待通り、冬タイヤくっつけて、オプションもあれこれ。まあ保険使うことでそのランクが二つか三つ下がり、保険料は三年間上がるのだけれど、全体を含めて出費はそこのみ。この件で道交法的には点数に影響がないため、このままなら次の免許更新ではゴールドという。塞翁が馬かな……。そのあと輸入ビール屋であれこれ仕入れた。注文したオフセット印刷のポストカードは印刷所から発送されたとのこと。いまちらっと思ったのは、難儀なことに折り合い付けてきたんだからいまさら予期不安や悩みくらいで煩わされることもないでしょ、という。悩むことはあるだろうけれどその都度対処するということ。

2025年11月7日(金)

のんびり。買いものの帰りに一時間ばかりカラオケをした。前よりも声がよく出るようになっているし、楽しさの余韻もより長くなってる。体感がほんの少しずつ変わってる。バンプとかスキマって歌うと気持ちいいんだね。何周遅れの境地だろ、逆にすごい。というか流行る歌にはそれだけの理由があって歌いやすさも含むことを繰り返し感じる。クロマニヨンズの気持ちよくさせてくれる側面にもびっくりしたし、平沢進よいかもと思うじぶんが意外。そして思う、手元の音楽ライブラリに入ってる歌は女性ボーカルが多いのだなということ、そして圧倒的にインストゥルメンタル(ボーカルのないジャンルの)な楽曲でできているのだな。基本的に時代もジャンルも脈絡なく個別の楽曲をすきになるたちなので、アーティストから入っていくということが多くはないのだけれど、松任谷由実と槇原敬之はなぜかアルバムを片っ端から漁っているのだった。後者は来歴にシンパシー感じるからだろな。これだけ多作な方の歌を聴いていると、その歌が人生のどんなステージで生まれたのか、そのときのありよう、葛藤から許しまでも感じ取れるようで、ただ歌を聴いているだけではなく人生の滋味を味わわせてもらえる感じがする。こうしたことってたまにあって、一時期は椎名誠の大量に出版されているエッセイや紀行をむさぼるように読んでいた。そうしているとやっぱりひとりの作家の人生を追う視点が生まれてきて、直接会ったわけでもないのにその人の好きなとこや嫌なとこや歩んできた風景もよく知っているような気がしてくるんだよね。いまふと思ったのだけれど、あれだけ偏愛しているのにトーベヤンソン・コレクションだけはまだ手を出してない。たぶんそれにふさわしい時期がくれば自然と手が伸びるはず。話変わって、じぶんに安心を教えるってどういうことだろう、と思ったりしていた。おそらくそれはあまりにも長いこと縁遠すぎて、身体が知らないのと同じ状態になっている。ゼロの概念を知らないひとにそれを教えるようなもので、教師がいればいちばん早いというのはそう。たぶんね、細かく具体的な身体のケアを大切にする、大切にされるという実感から教える、というのはよい線だと思う。ストレッチで身体をほぐすとか。もう遅いからねむろう。