2026年7月21日(火)

外でラーメンを食べてきてから、部屋の片付けと掃除をした。思えば九州から帰ってきて以来。やっと。気分的にはしみじみとさっぱり。思うに、NPOさんへリハビリに通うようになってそのまま元通所先で就活をし、そこから仕事を始めて辞め、いまに至るまで、じぶんの活力はひたすら低下してるんだよね。それでなぜいままで動けているのというと心や身体の声を無視して限界を超える性質があるからで、それは美質ではなく疾患の発症に直接作用した。内面化された社会の要請をお断りし、いま活力切れで動きたくないという気持ちを生活に反映できているのはよくできていると思うし、とはいえ現状もいつまでも続けられるものではないから立ち上げられることから徐々にね、という方針が持てているのはよいことだよ。話は戻り、なぜ活力がどこまでも低下していくのか、の答えはおおよそ出てる。症状や投薬でぼんやりしていたころは認識できなかったけれど、回復が進むにつれ状況把握や現実認識の能力が戻り、そのためにじぶんが置かれていた状況や環境がどんなものであったか、否応なく直面することになった。症状が取れ疾患から回復したらこんどは生い立ちや愛着の傷と向き合うことになりつくづく思う、疾患を誘発するだけの環境にずっと置かれていたよ。疾患そのものが心身の持久力を劣化したゴムみたいにぼろぼろにしたところへ、これはむごいなと思う現実がリハビリによってよりはっきり見えるようになり、それが活力にとって猛毒として作用してる、というのがじぶんの理解。回復せずぼんやりしているよりは、ものごとが見えるようになるほうを選びたいとはいえ、見えるようになった現実にここまで消耗するとはねえ。厳しいな、と思うと同時に、そう思うのは自分の心、とも思う。煮詰まったように感じるのは気分であり、気分は本質ではないから猫の目みたいに変わるし、まともに受け止めなくてだいじょうぶ。こうしたときこそ必要なことだけなるべくこなしておいてあとは気楽さや無為を味わうほうがいい。いまいちばん求めているのは活力で、ならばそれは無理矢理追いかけないほうがよい結果になるはず。そして大切なのは、幸せはいまここにある、ということを覚えておくこと。夜になればぬいたちといっしょにランプを灯した窓辺で静かに過ごし、虫の音や物音や旅客機の音に耳を澄ませたり、ほの明るい夜空を眺めたり、好きな飲みものをちびちび飲んだり、花や香草を活けて香りを嗅いだり、好きな本や雑貨はたくさんあるし、紡ぎ語りたければ惑星ひとつぶんある。かけがえのない豊穣はじぶんで手に入れているんだよ。呪詛や不愉快を反芻しがちなのは後遺症としてみたほうがよい側面もあるにしろ、それらの豊穣に目を向けられたならいまここで幸せも体現できていると知るだろう。いつか手に入れるとか、誰かといられるならとか、この条件でならとか、そんな外側には預けずに自分自身の感受として育てたものは、大きく強い幸せというよりは、静かに揺るぎなく満たしてくれる。その「いまここ」に満ち足りてこそこの先へ続く道が拓ける、うっすらと見える道しるべのようにそう思う。趣くまま書いていたらなんかよくわからない方向へ延びてしまった。こうしたときの言葉ってふだんから水面下でこねているもののようでもあるし、ときにはじぶんでもすこし意外に感じるものが出てきたりする。窓辺でのんびりする。

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