日曜日の朝に仔猫の杢が亡くなった。急に容態が悪化して帰らなくなった。辛くて悲しくてやりきれない。喪ってから悲しんだり後悔するなんて馬鹿みたいだ。その日は曇りで、月曜には雨が降り、火曜のきょうはまぶしいほど晴れた。その眩しさにこころが反発してざらつくのを感じる。杢がきてくれて、今度こそもっとうまく愛せる、そう思ったのに、そうはならなかったんだよ。土曜日はふたりで部屋で過ごして、そのときいちいち背中を向けて寝てくれたんだった。でも。けれど。庭のくちなしが咲きはじめているのを見つけて手折ってきて、机の上に活けてから、こんなときでも花を飾る、と思った。花が咲くのは誰の都合でもないからだ。あるいは花の美しさがじぶんの感情に輸血してくれているのかとも思ったけれど、輸血し損ねた杢のことを思うとそんな発想には胃がむかついた。きょうは溜まっていた洗い物や散らかったものを片付けて、身の回りをすこしすっきりさせた。生活に支障が出ているから、あす通院先へいって一時的に眠剤と安定剤を出してもらおう。悲しみは突然やってくるし、時間が経てば和らぐことも軽い吐き気がするくらいそう。しばらく立ち止まったりしゃがんだりして過ごすことだけを考えればいい。この悲しみが残された杢の輪郭のように思えて、これを手放すことも抱え続けることもつらい。怒り以外の感情が水のように淡いじぶんがこんなに悲しんだり後悔するなんて、どこにそんな感情の出処があったのかと考えて、そんなことをこんな形で知るなんて具合が悪くなる。泣いているじぶんを俯瞰しようとする思考も鬱陶しい。この三日間はだいたいおふとんのなかでぐったりしていた。うちの仔たちが如実に痛みを和らげてくれていることを感じて、身体とこころを預けるように過ごしてる。いまは考えなくていい。身体が受け止めるのを待つほかにどうもできないからだ。ほんとうに、喪ってから悲しむなんて愚かだ。夜闇の向こうからふくろうかみみずくらしき声が聞こえる。そんなことに気がつくくらいのゆとりは戻ってきたということでもあるし、ものごとがこちらとなんら無関係だということもでもある。なにを見るにつけてもその無関係さを読み取って、痛みを感じたり気持ちが和らいだり、そんなことばかり。書くよりも眠ることで癒やしたほうがいい。眠れるかわからないけれど。
