だらだら。日がな雨。もうきょうだけれど、知り合った写真家さんのお友だちがそちらのお宅へ泊まりにくるということで、じぶんもそこへ招かれてる、というかお友だちも写真家さんということでこちらから食いついたのだった。知り合ったというのか、知人なのか友人といってよいのか、こういうの不慣れだな。不慣れということで言えば招かれたり紹介されることが不慣れ。おふとんでだらだらしているうち最低限のタスクはあすへ回すことに。それから旅の帰りに鳥取の本屋さんで紹介していただいた件で、その作家さんの月曜夜の作品展を見にいくのに、都内への切符と宿を予約した。庭のくちなしは苗を買ったときには八重の小くちなしという扱いだったのだけれど、どうやらこれ、ふつうのオオヤエクチナシに矮化剤を使って小さく仕立てていたのでは、と思える。それもわりと前から。新たに伸びた枝たちは枝ぶりよく葉も大きいし、それなりな株になった木も立性で背丈くらいあるし、花の直径も測ると7cmくらいはある。まあね、ほしかったのはオオヤエクチナシだよ。ほかの大苗がWebに見当たらなかったから八重の小くちなしで手を打ったわけだけれど、結果的にこれでよかったみたいだ。もう立派な株なのでオオスカシバの幼虫がつこうと食べ尽くされる心配はなく、余裕で花を愛でている。のだけれど、咲く前のつぼみにたぶんアザミウマが群れており、花弁が開いたとき若干茶色にくすむのだよね。それが写真に撮ったとき目立つ。ベニカスプレーでも吹いておいたほうが眺めるぶんには気持ちよさそう。それから、株の下から枯れてきてしまったローズマリーとその周りに手入れして、園芸土と堆肥も足した。元々は立派に育っていた株なので、周りにほかの植物が茂ったことで風通しに影響が出た結果として枯れ始めたのだろう。たしかに周りにはクレマチスのサマースノーの蔓や大きくなったコモンセージ、そして雑草など、蒸れるかもねというくらいにはあれこれ茂っていた。そうはいっても、強健だと思っていたローズマリーが周囲のこうした環境の変化に対して枯れ始めるという形でもの申すのは、なんだか意外というか、ああ君それはほんとにやなんだね、という。あと今年はマートルが咲かないのかもしれない。木をよく見ていないで書くけれど、冬場の寒さが堪えたかリン酸不足か。このあたり地植えの北限のはずだもんね。そのマートルの株元にジギタリスがわっさと葉を茂らせていて、この植物はわりとすきだな。いや、かなり。こぼれ種で増えていつのまにかそこにいる、株と葉色の存在感も、咲いたときの庭への彩りの寄せ方も、なんていうのか気立てがいい。そういえば今年は三色すみれを見ていないような。じぶんの目が探さないだけかもしれない。こちらもそこにいるとほっとする種族だけれど、種を蒔かないと顔を見せてくれないなー……。ここ二、三年の庭への没交渉が地味に形となって現れているから、なんとかしたいんだけれどね。回り道に見える基本的なことから立ち上げていこうね。まとまりもなくだらだらと書いているといつまでも書けるような気がするけれど、日中へ回したタスクもあるし、眠たいのに気がついたし、こうしたときは眠ったほうがよいしるし。
2026年6月19日(金)
例の居酒屋なタイ料理店でスパイシーなチキンと空心菜の炒めものを食べた。ヤムウンセンなどテイクアウト。夜更かしをしてまどろんでいたらこんな時間。おふとんへ。
2026年6月18日(木)
ガス工事の方がきて二階のガス台を使えるようにしてもらった。そのあたりを使えるようにと、ホームセンターやニトリを回って必要なものを買いそろえる。庭のローズマリーが痩せて劣勢になっているから手を入れた方がよさそうだ。わりと摘んで飾るもんね。日の暮れるころには散歩とそのあとの長湯。ポケGOがマンネリしてきたため位置ゲームでなにかをと思い、試みにピクミンブルームを動かしてみた。花を植える、だとシンプルだね。続くか分からない。四月からこっち過酷だし、先を焦らなくてよいからね。
2026年6月17日(水)
午前中は通院先で一時的な眠剤などの処方を出してもらった。夕方になり、気分転換のドライブと散歩、そのあとの長湯をそれぞれ一時間強ずつ。辛くて苦しいのは、悲しみの負荷を身体が脅威と判断して感覚を内側へ閉じさせているから、そのうえで感情は内側から溢れるものなのでその状況だと風船のようになるから、と思った。悲しみは閉じるより開いたほうが気持ちとして流れやすくなる。それで午後以降は身体の感覚を開くことに意識を向けて過ごして、それが奏功したみたい。感覚が閉じる/開くというのはなんとなく体得的にできる。Radio gardenでタヒチのラジオ局の音楽を聴いたり、車を運転して風を浴びたり、そんなことをしているうちに身体が歩くことを求めているのを感じてそのように。感覚が開いていくときには風に土や木のにおいがすることや、日差しの強さに反して物陰の涼しさが心地よいことを感じ取った。きっとしばらく悲しいだろう。そのようにあってほしいと望む気持ちもある。あす午前中にガスの工事。
2026年6月16日(火)
日曜日の朝に仔猫の杢が亡くなった。急に容態が悪化して帰らなくなった。辛くて悲しくてやりきれない。喪ってから悲しんだり後悔するなんて馬鹿みたいだ。その日は曇りで、月曜には雨が降り、火曜のきょうはまぶしいほど晴れた。その眩しさにこころが反発してざらつくのを感じる。杢がきてくれて、今度こそもっとうまく愛せる、そう思ったのに、そうはならなかったんだよ。土曜日はふたりで部屋で過ごして、そのときいちいち背中を向けて寝てくれたんだった。でも。けれど。庭のくちなしが咲きはじめているのを見つけて手折ってきて、机の上に活けてから、こんなときでも花を飾る、と思った。花が咲くのは誰の都合でもないからだ。あるいは花の美しさがじぶんの感情に輸血してくれているのかとも思ったけれど、輸血し損ねた杢のことを思うとそんな発想には胃がむかついた。きょうは溜まっていた洗い物や散らかったものを片付けて、身の回りをすこしすっきりさせた。生活に支障が出ているから、あす通院先へいって一時的に眠剤と安定剤を出してもらおう。悲しみは突然やってくるし、時間が経てば和らぐことも軽い吐き気がするくらいそう。しばらく立ち止まったりしゃがんだりして過ごすことだけを考えればいい。この悲しみが残された杢の輪郭のように思えて、これを手放すことも抱え続けることもつらい。怒り以外の感情が水のように淡いじぶんがこんなに悲しんだり後悔するなんて、どこにそんな感情の出処があったのかと考えて、そんなことをこんな形で知るなんて具合が悪くなる。泣いているじぶんを俯瞰しようとする思考も鬱陶しい。この三日間はだいたいおふとんのなかでぐったりしていた。うちの仔たちが如実に痛みを和らげてくれていることを感じて、身体とこころを預けるように過ごしてる。いまは考えなくていい。身体が受け止めるのを待つほかにどうもできないからだ。ほんとうに、喪ってから悲しむなんて愚かだ。夜闇の向こうからふくろうかみみずくらしき声が聞こえる。そんなことに気がつくくらいのゆとりは戻ってきたということでもあるし、ものごとがこちらとなんら無関係だということもでもある。なにを見るにつけてもその無関係さを読み取って、痛みを感じたり気持ちが和らいだり、そんなことばかり。書くよりも眠ることで癒やしたほうがいい。眠れるかわからないけれど。
2026年6月13日(土)
おもては晴れており、猫と部屋で過ごした。夜更けになってから、鳥取は湯梨浜の汽水空港で購入した本の詰まった段ボール三箱を車から積み下ろし、部屋へ持ってきた。やっと。いい本ばかり手に入れた、必要なものもあればあこがれるものもある、と背表紙を並べつつ思う。ZINEもいろいろ。ここから一週間ほどはたぶん、ひとと会う機会が続く。無理しないでよいよ。ひととの交流に気を遣わないということにも洗練があるものだし、言うなら要る。ひとまずあすは夕方の撤収を済ませたらそれでよし。
2026年6月12日(金)
目が覚める前の夜明けごろ、おなかが痛くておふとんのなかで呻っていた。そこへ猫が起きてきて部屋へ入れろと主張するので、無理、みたいに無視してしまった。起きてしばらくすると痛みは消えていたけれど、なんだったんだろ。九州旅行のおりたぶん鶏に当たって以降、おなかの調子がやや不安定。それはともかく、朝はギャラリーへ向かいマルシェの設営。それから昼前に移動して定期通院先で診察を受け処方を受け取ったのち、タイ料理店でランチメニューのトムヤムフォーを食べ、またギャラリーへ戻って過ごした。いま読み返したらトムヤムフォーとか、おなかはどうなったん。夕近くにお世話になった元通所先のスタッフさん一名が来訪したので、近況報告含めた雑談や、ほかの方々へのスタッフさんのご紹介。じぶんは新顔の一参加者であり不慣れなことでもあったけれど、状況的に務めは果たせたであろ。スタッフさんをお見送りしたのちじぶんも離脱。大勢のうちのひとりとして気を張ることがなくてよかったように思うし、それはそれとしてひとの多いところで過ごすというのは前提として疲れるというのもある。場末のこんなところだから書くけれど、じぶんがいるとそれだけで場がやわらかくなる、みたいなことはいくつか言われてる。それはそうで、社会性を消費し続けることで気配りはしてるんだよね。きょうは大部分いるだけだったわけだけれど、そこにいたことでいい雰囲気を提供できてるのかな。それとも前提を変えて、疲れることは止めてよいよ、というほうに行く? 別にいまは問うほどでもなく、なんとなく前者でそつなく行きたい感はある。誰のためにやってるの? と問えばじぶんのためになるほうを選ぶがよいよ。それは最終的に居心地がよくなるほう、という羅針盤。マルシェは三日間続くから、撤収間際に再訪する予定。気疲れは確かなのだし眠るがよい。
2026年6月11日(木)
なにもせず。作品タイトルだけ、印刷してスチロール板に貼り付けたのを作った。あす朝の設営に必要なものは手元にある、と思う。元通所先へマルシェ参加のお知らせを送っておいたら、あす来られるスタッフで見学にくるからそちらもその時間にいてもらえたら、という返信が。とりあえずそのようにして主催側にも軽く話を伝えることにし、ここしばらくのスケジュールについてぼんやり考えるでもなく思う。まあね、会えるひとと会う機会のないひとがいるとしたらそれはものごとの成り行きであり、じぶんに起きないことがあってもそれはそれでいいんじゃない。いま感じるめんどくささやだるさもおおかた気候やフィジカル由来であろ。さっき猫が部屋にきたので床にいた。のどを鳴らしたり毛繕いするようになったのは安心材料。高栄養食のほか、サバやアジやメヒカリの焼いたのや、さまざまな液状のレトルト、おやつ用カリカリをもらってる。もういくら舌が肥えてもいいから食べて血を作ってほしい。モニターの前でぼーっとしているときというのはもう眠ったほうがよいとき。おふとんへ入って明朝へ時間を回そう。
2026年6月10日(水)
ラックを組み立てて炊飯器やレンジを置いたり。猫はいまドアを開けさせて入ってきて、のどを鳴らしながら机に上ったり脚にまとわりついてる。ぺたんと伏せてて撫でても無反応だったときと比べると、動けて気分もよいようだけれど、どうだろ。いまキーボードの横へ上がってきた。じぶんは旅から帰ってきてしばらく消沈している感じだね。それはしかたのないことだろな。金曜からギャラリーに展示があり、汽水空港さんで紹介していただいた作家さんの個展が都内にもうしばらくあり、そのタイミングで行ってみたい空間もあり、じゃあどうする? という。どうするというのは言葉のあやで、身体が動くように導線を引きたいねという。そういうときは夜更かしを控えるといいんだよ。節度や分別に対してその正しさを微妙に軽んじているところがあるのだけれど、それはそれとしてまあ、という。今夜は冷えると思って外気温計を見たら14度。春の初めのころなら暖かい夜の大気に身体が緩んでいただろうに。つくづく人間は適応の生きものだなあと思う。そして気候には年較差と日較差がある以上、どのスパンでも適応は時間差になり、きょうは暑いとか蒸してだるいとか言うのだろう。
2026年6月9日(火)
冷蔵庫を設置。ねむたい。
