友達と市の産業文化祭へ。終始好天のもと、小中学生の作品や菊花の展示、フリーマーケットなんかを見て回った。
その帰り道すがら、ポケモンのブイズのガチャポンを見つけて一度回した。こういうの小学生以来ではないだろうか。グレイシアのラバーマスコットを引く。
そして友達の家にてしばしうだうだしたのち帰路。昔からの園芸店がまだ営業しているようだったのを見つけ、いずれは立ち寄りたいと思う。
友達と市の産業文化祭へ。終始好天のもと、小中学生の作品や菊花の展示、フリーマーケットなんかを見て回った。
その帰り道すがら、ポケモンのブイズのガチャポンを見つけて一度回した。こういうの小学生以来ではないだろうか。グレイシアのラバーマスコットを引く。
そして友達の家にてしばしうだうだしたのち帰路。昔からの園芸店がまだ営業しているようだったのを見つけ、いずれは立ち寄りたいと思う。
音楽の好みの話。自分がインストゥルメンタルやフュージョンのような歌詞を持たない曲を比較的好むのって、歌詞に興味が無いからでは、全くないな。その逆でひどく言葉を選り好みしてる。十代くらいで邦楽の洗礼を受けなかったことはたぶん、受け付ける表現の幅を狭めてる理由の一つだ。「君」なんて歌っているのを不用意に耳にすると、必要もなく身構えてしまう。こういう姿勢には心の境界の広さも関係してるんだろう。
そうしていても、好きになれる作品との出会いは尽きることのないところが、音楽のふところの広さだなあ。
暮れ時に立ち寄ったドラッグストアの隅のほうでは、The BanglesのWalk Like an Egyptianのリミックスがちんまりと流れていた。ほのかな年末感がある。
少しでも散歩を続けるというのは、気分に加えて身体の調子も整うなあ。
テーブル裏のヒーターを掃除してこたつを出した。ハロウィンが終わったし、これから先の街並みはいそいそとクリスマスへ向かって加速をしていくのだろう。
最近流行りの、ビットコインに振り込め恐喝詐欺のメールが、僕のメールボックスにもやってきていた。そのアドレスは2005年くらいから利用している5MBのフリーメールだったのだけれど放置していて、ようやくパスワードを変えた。Gmailかクローラーにそこのログを拾ってもらってアカウントを削除しても良いかも知れない。
いろいろに読み解ける『ムーミンパパ海へ行く』のテーマを考えてる。家族の再生やムーミン一家の休暇、海との対話といったものが浮かんできたりするし、作者のトーベ・ヤンソンさん的には、ムーミンシリーズに生み出したモランの孤独という課題をここで解決してみせたのではなかろうか……というのは、読み返していた初期の『ムーミン谷の彗星』で「こわがられるとひとりぽっちになる」という趣旨の台詞が出てくるからなのだけれど。そうだとしたらこの手腕は、ただの優しさを超えて一人ひとりを慈しむ感情のように思う。
あのあとのモランはもう海を渡れないだろうけれど、どうしただろうか。島で夜な夜な、灯台守の点ける明かりを見ているのかも。
そういえばこの一年くらいは波の動きが消えるように、頑固な不眠症を自覚せずに済んでいた。十年以上のあいだろくろく眠れないか、眠るために目を閉じている努力が必要だった。この変化は末梢神経の痺れや、慢性的な下痢、冷え性といったものが解消されていることと関連がありそうだ。まあずいぶんな体の使い方したもんね。
明朝の最低気温に3度という予報が出てる。たぶん今季最も冷える。
吐く息が白い。
身体が籠もる準備に入ったしるしとして、植物(園)の鬱蒼として湿度の高い匂いをかぎたい欲求がある。シモバシラは野辺に生えているのだろうか。午前中の穏やかな陽差しに「冬はつとめて」が出てくるような日だった。
叔父と袋田の滝を見に行き、シャモそばを食す。食事処や土産物屋の店先に秋冬めいた安堵を抱く。
午前中に祖母の四十九日の法要が済んだ。喪失から日が経っているものの、この件で僕は、自分自身の気が付かない部分で落ち込んでいるようだなー。生きものの魂が永遠に捕縛されてる理想の世界なんてものはなくて、彼岸というのはここのことなのでは、と雑な思考が浮かぶ。
大昔にクルマの後部座席だか、手に届くところに積まれてあったせいでちらほら読んでいた、SFぽい小説のシリーズ名がTwitterで流れてきて判明した。宇宙英雄ローダン。日本語訳で既に500冊も刊行されているようだけれど、手を出してみようか、どうする。
それから、少年ジャンプ+で少しずつ公開されている「ワールドトリガー」という漫画がわりと面白いかも。
残念な事柄について『自分はあんなひどい連中とは違う』と内心で俯瞰している人たちも、断絶というものの一翼を担っているのではなかろうか。これはちょっと自信ない。
月に二、三冊の本を読むと話したところ「わりと読書好きだ」との評を戴く。昔ならもっと早いペースで読めていたものだなあ。個人的には読書の基礎体力をつけたら、手元に置いている大航海時代のハードカバーに挑みたいところ。
柚が色づいていく。
「ムーミン谷の十一月」を今年も読了。どうだろ。そろそろ、ムーミンコミックスを手に入れる準備でもする? クリスマスの贈りものなんかにしてさ。
名月だけあって月が明るく見やすい。
荷馬車の一行はその日、分水嶺と国境を越えるつもりで、山脈のふもとから延びる街道を縫うように移動して高度を稼ぎました。
山肌や森から尽きることなく湧きだす霧が、荷馬車の周りを灰色の幕で覆ったり、かと思えば翻って陽光を差したりしました。また、日中の風はふもとから熱気をはらんで立ち上っていきましたから、一行にとってその日はずっと追い風だったのです。
家具やわらに日用品といったものが積み込まれた荷車には、メトロノームをそばに置いたメルツェルが腰を下ろして、これから向かう先をきょろきょろと眺めていました。分水嶺を越えた遠く向こうには、青く広い海が見えるはずでした。
その晩は、新月へ向かう月が空の高いところにあって、静まりかえった街路や物陰を、そのほのかな明かりで照らしだしていました。
夜更けの街では人もものも、昨日のことはまどろみの奥深くへと仕舞い込んで、こんこんと休んでいるのでした。
一方で、眠れぬものたちはどこか輪郭がぼやけたまま、降り注ぐ月の光とはい上がる闇とのあわいを縫うように彷徨いました。
月の光がほとんど届かない街の深いところでは、暗闇は水底のように重く満ち、しかし全くの静寂には今一つ届かないような、覚醒を抱えたものたちの潜める微かな息遣いがありました。
もしそこで感覚を澄ませたなら、闇そのものも粒子のごとく遊動していることが分かったでしょう。
波止場から見る海は凪いでおり、ぴちゃぴちゃいう控えめな波音とともに、潮のゆっくり満ちてくる様子が見て取れました。
水平線の向こうまで続くあかね色や紺碧が、それぞれの方角ですみれ色に向かって限りない階調を描き出し、しかもそれらは刻一刻と、宇宙まで続いている黒に染まっていきました。
彼女は桟橋の手前で当り前みたいに突っ立っていました。
夕暮れを背にした波止場の往来を眺めたり、積み卸しや海鳥の喧噪に耳を傾けたり、そよぐ潮風を嗅いだりして、そこにいることをひとりで楽しんでいたのでした。
感覚を感じるままの手放しにしておくことは彼女の良くやる遊びでしたから、人からの干渉を受けない限りは邪魔もせず、退屈もせずに過ごせたのです。
そのうちに夕陽はほとんど海の向こうへ沈み、水平線は一瞬のあいだ、真っ赤な火柱を映しました。天球からこがね色が失われ、彼女の視界に入るものは急速に青みを増し、辺りは眠たいような温度とやわらかな影に包まれていきました。
ちらほらと宵の空に、一番星、二番星と星が現れ出し、船が漁り火を点して続々と沖へ出帆を始めるころ、彼女はおもむろに桟橋から離れると、軽やかに人の波に乗って、その日の宿がある繁華街へと歩いて行きました。