2018年10月21日(日)

名月だけあって月が明るく見やすい。

荷馬車の一行はその日、分水嶺と国境を越えるつもりで、山脈のふもとから延びる街道を縫うように移動して高度を稼ぎました。

山肌や森から尽きることなく湧きだす霧が、荷馬車の周りを灰色の幕で覆ったり、かと思えば翻って陽光を差したりしました。また、日中の風はふもとから熱気をはらんで立ち上っていきましたから、一行にとってその日はずっと追い風だったのです。

家具やわらに日用品といったものが積み込まれた荷車には、メトロノームをそばに置いたメルツェルが腰を下ろして、これから向かう先をきょろきょろと眺めていました。分水嶺を越えた遠く向こうには、青く広い海が見えるはずでした。

その晩は、新月へ向かう月が空の高いところにあって、静まりかえった街路や物陰を、そのほのかな明かりで照らしだしていました。

夜更けの街では人もものも、昨日のことはまどろみの奥深くへと仕舞い込んで、こんこんと休んでいるのでした。

一方で、眠れぬものたちはどこか輪郭がぼやけたまま、降り注ぐ月の光とはい上がる闇とのあわいを縫うように彷徨いました。

月の光がほとんど届かない街の深いところでは、暗闇は水底のように重く満ち、しかし全くの静寂には今一つ届かないような、覚醒を抱えたものたちの潜める微かな息遣いがありました。

もしそこで感覚を澄ませたなら、闇そのものも粒子のごとく遊動していることが分かったでしょう。

波止場から見る海は凪いでおり、ぴちゃぴちゃいう控えめな波音とともに、潮のゆっくり満ちてくる様子が見て取れました。

水平線の向こうまで続くあかね色や紺碧が、それぞれの方角ですみれ色に向かって限りない階調を描き出し、しかもそれらは刻一刻と、宇宙まで続いている黒に染まっていきました。

彼女は桟橋の手前で当り前みたいに突っ立っていました。

夕暮れを背にした波止場の往来を眺めたり、積み卸しや海鳥の喧噪に耳を傾けたり、そよぐ潮風を嗅いだりして、そこにいることをひとりで楽しんでいたのでした。

感覚を感じるままの手放しにしておくことは彼女の良くやる遊びでしたから、人からの干渉を受けない限りは邪魔もせず、退屈もせずに過ごせたのです。

そのうちに夕陽はほとんど海の向こうへ沈み、水平線は一瞬のあいだ、真っ赤な火柱を映しました。天球からこがね色が失われ、彼女の視界に入るものは急速に青みを増し、辺りは眠たいような温度とやわらかな影に包まれていきました。

ちらほらと宵の空に、一番星、二番星と星が現れ出し、船が漁り火を点して続々と沖へ出帆を始めるころ、彼女はおもむろに桟橋から離れると、軽やかに人の波に乗って、その日の宿がある繁華街へと歩いて行きました。

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