2026年4月15日(水)

なにごともなかりし日。雨の降る宵ごろ、ふと気持ちが緩み身体の緊張が解け、心を動かされるような涙ぐむのに近い感覚があり、それに伴って『ムーミンパパ海へいく』のラストのあたりの描写が浮かんできた。ので青い鳥文庫のそれを取り出し読み返していた。『ムーミン谷の仲間たち』で、ムーミンパパは若いころのあこがれ/空しさ/冒険家自認とは折り合いをつけ家庭の父親を引き受けたことが描かれているのだけれど、『海』ではさらに、頼られる/守る/強い/詳しい父親でありたい、一家の長でありたいという像を描いてうまくいかないじぶん自身と和解したのだな、ということがきょうになって腑に落ちてきた。それは「らしさ」という役目から離れ、ただパパがパパであることの引き受けだったのでは。ムーミントロールは思春期に入って秘密を持ったり別人としての表情を見せ始めるし、ムーミンママも優しいみんなの理想像としてだけではなく怒る/メランコリックになる/プライベートを持った個人として振る舞ったり表現することを獲得するし、そこにパパ自身の和解が加わり、危うさを見せていた一家は家族の再生を果たし、落ち着くべきところへ落ち着いたのだと思う。再生が必要だったのは物語群のテーマが外の脅威からひとりひとりの内面へ移行していったこともあるし、メタ的には人気の出すぎたムーミン/外からのこうあってほしいという圧のかかるムーミンに対して作者の疲れや、シリーズを終わらせたい思いがあったから、という理解。それはそれとして、『海』のラストの描写を味わっているといつもそうだけれど、じぶんとしてはめずらしく時間を忘れて感動するという、いまいち伝わらない表現になる。そこに描かれているとおり耳のはしからしっぽの先まで生気があふれてくる、そういう気持ち。そしてそれはパパがそうしたように、もし自身と和解できたときにはそうなるという気持ちなのだな、と腑に落ちた。小説のムーミンシリーズは小学生のころ出会ってからというもの折に触れかじるように味わっているけれど、こちらの段階に沿って読み方が変わってくる本というのは、希有なことだよ……。話は変わりそのあとの夜更け、ランプの前でぬいを抱きながら雨の音を聞いていて、じぶんの内面で段差のように引っかかるものがあるならそれはなんだろ、とサーチしていた。他者に反感や敵意を抱くこと、というのはそうと思った。そしてそれらの感情はまず自己へ向いたものが他者へ投影されている、和解とは対照的な、内的な敵対状態だとも。そこで起きていることの基本は自己-自己の反応であって、じぶんの弱さへの怒りや見つめたくなさや耐えられなさ、規範の強さからくる反動、抑圧とそこへの反発、そうしたものなのでは。それでふと、「他者にいらっときたら、そう感じたじぶんを許してみる?」と問うてみた。体やこころを構成するひとつひとつからの応えは揃って「そうすると気持ちいい、快楽だよ」というもの。それで思考する自我にも同じく問うてみると、やはり気持ちいいし、みんなの応えなら受け入れられるし、自己が作り替えられることも快楽だよ、という反応。ので、満場一致としてとりあえず上記の問いを採用。一貫した態度にならないかもという自我からの懸念はあったけれど、なにごともまずコンディションのよいときからできるようになっていくもので、それが身についてくれば場面ごとの広がりもあるはず。じぶんの内側に快楽という声での肯定のしかた/意思表明のしかたがあることがちょっとくすぐったい。一日でこれ以上の内的な声を求めるのは要求しすぎと思って自己対話を切り上げ、この雑記を書いてる。というか書き終えた。あとはねむる支度。

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