2020年8月21日(金)

古い映画を観てますと医師に話したら渋いですねと言われた。もうちょっと減薬できそう、という話をする。『天使のくれた時間』を観た。よかった。天使というには少し物騒なあの青年が言う「煌めきを見せてる」って、ちょっと飛躍するけれど松崎ナオ『川べりの家』の歌詞で言うところの「一瞬しかない」なのかもなあ、と思う。いなくなった人たちのことを思って少しさみしい。

2020年8月20日(木)

『ミツバチのささやき』観た。クラフト・エヴィング商會『アナ・トレントの鞄』に頻出するので気になってた映画。始めのほうで母親が手紙にしたためていた「人生を本当に感じる力」って、現実と幻想のあわいを行き来するアナの(子供の)感じ方のことかも知れない。なんかみっしりしたものが水面下で静かに圧迫感を持っているような、ほのかな不穏さもあったように思う。見終えてからDVDのパンフレットやあらすじを読むと、舞台となる40年代のスペインでは内戦が終わり独裁が始まっていたそうだから、そうした当時の情勢を反映しているのかも。映画の中の映画としてフランケンシュタインがでてくるのだけれど、僕はそちらを履修してはいなかった。いずれ視聴できたら。ラスト近くなり、連れ戻されたアナを診た医者が「(ショックを受けたことは)少しずつ忘れていくよ。大切なのはあの子は生きてるってことだ」と母親に言うのだけれど、最後の場面でアナは月の光の下、精霊と話をしようとしており、それはアナがなんらかの価値観に抗うかのように見えた。『アナ・トレントの鞄』で触れられていた(たぶん有名な)少女二人が線路の上にいる場面を見ることができてよかった。

2020年8月19日(水)

ライムライトを観た。チャップリンの映画は比較的短いものならいくつか観て知っているけれど、今回のはがっつり尺があった。カルヴェロの拗ねは分かる気がするよ。そうした感情に任せるせいで別れがきてしまう。きのうは大学の先輩と久しぶりに少しやりとりをした。そのことを振り返りながら買い物へ向かっていると、受ける風が急に雰囲気を変えたように、懐かしく感じられた。もうここにない風景の記憶を感覚から引き出すことと、懐かしさも予感も等しく時の奥行きを見透かすものだということを思う。

2020年8月19日(水)

シャークネード5 ワールド・タイフーンを観た。なにもかもが雑な中、人命も特に尊重されてはいないところがよかった。突っ込みどころの多さに疲れて中盤からは笑うだけになっていたような。法王から授かったチェーンソーがそのあと出番を持たなかったところ(たぶん)や、変形して要塞化するオペラハウスに「単なる派手な建築物ではなかったんですね」というコメントが入るところなんかがツボ。サメ映画は健やかになれそう。いまくらいになると蝉の声は減ってくるようで、耳鼻科へ寄った昼ごろの風景には暑くて静かな、ひなびた感じがした。

2020年8月17日(月)

日没後の暗くなっていく空を見ていた。南には背の高い入道雲が残照を受けて青白く映え、その下のほうでは雷が瞬いて、雲のなかやその後方を音もなく照らすのだった。西の空高く、赤く輝いて目立つアルクトゥールスを皮切りに、星がちらほら出てきていた。青や緑から黒へとゆっくり減光していく空は、普段のように気にも留めないような雲量の多さではあったけれど、その隙間から覗く深い色彩に一日の終わりを感じて気持ちが安らいだ。買い物の帰りだったから、見通しのよい田んぼの真ん中へ原付を止めて、虫の声のほかは静かな日没をしばらくのあいだ眺めていた。この眺めを目にすることができたし今夏は上がり、みたいな考えが頭をちらっと横切った。

夕空のへりは暖かい季節に見られる赤く滲んだものではなくて、秋冬特有の眠たいような緑と水色をしていた。田んぼの中を行く路上には飛び交う虫たちが増え、いかにも実りの季節を待ちわびているようだった。みぞおちに入ってきたのはそれらを捕らえるコウモリだったんだろうか。季節がゆっくりと、確実に巡っていくことを、肌で感じる。

ニュー・シネマ・パラダイスを観た。よかった。子供のトトに対して同じ目の高さで向き合うアルフレードの誠実さを思う。

2020年8月16日(日)

朝から父の墓へ出かけていって送り盆とした。帰りがけに、川縁に整備された花の道を母と見る。周りの人たちそれぞれの根深い問題をなにかの拍子で目にするたび、『ムーミン谷の冬』でムーミントロールが考えた(みんないろんな悩みを抱えているんだなあ。あのジャムのことなんか、とりたてて言うほどのことじゃないんだ。)というせりふが思い浮かぶ。人の悩みを察知する理由って、自分が相対的に気楽なためなのかも。あまり関係がないけれど、やりきれなさや溜飲下げたさからちくちくとものを言うことがないよう、気をつけようと思う。そういうのは他人の居場所を奪うものね。

2020年8月15日(土)

お盆も後半。宵のころに花火大会の音だけが聞こえてきて、そういえば少しばかりあるんだと思い出し、家の前で花火をした。ドラゴンとロケット花火に、回転しながら上昇するとんぼ花火が一袋ずつ。値段なりにすぐ終わってしまったり、上手く打ち上がらないものもあったけれど、いいものだなあと思う。火薬の匂いはいつまでも嗅いでいたくなる。上空で響く破裂音も余韻が気持ちいい。ひとりでやる花火なんてつらいだけと感じていた人生の時期を通り過ぎ、いまでは自意識や人目をさして気にせずに、好きなことを好きにやれるところまで来た。とても楽。花火で遊んだあとで近所をぐるっと散歩した。お盆期間中の田舎は人口が増え、気持ちも賑やかというか安心感がある。街灯が木の枝越しに路上へ投げかける光や自販機の照明、足下を照らすごく小さな明かり、それから紫電で星空を照らすかなとこ雲といった、誰もいない場所を照らすささやかな光源に、しっとりと優しい夜の雰囲気を感じながら歩いた。明朝は送り盆だから早めに眠る。ジャスミンは今夏二度目の花期が訪れたところ。さっき見たら白い花が二つほど開き、芳香を放っていた。

2020年8月14日(金)

む、Wordpressのアップデートで文章入力画面のフォントが見づらくなってる。朝のうちにいとこたちの元へ出向き、祖父の初盆に坊さんが読経を上げてくれるのを聞いたり、自分で線香を上げたりしていた。世が世なので長っちりは避けるところだけれど、出してもらった麦茶とまんじゅうくらいは食べたほうがよかろうと思い、もしゃもしゃやってから帰着。あれは、お客さんに出したけれど誰も食べなかったねー、みたいな会話が一日の終わりに発生するのは、そういうものだけれどさみしいんだよね。人口が少し増えた田舎のお盆の浮ついた雰囲気は好きだ。もちろん、そうした慣習や淑気を苦痛に感じるひとも世にいることは知っているけれど。なんとなく、お盆期間中に夜の散歩があってもよいかもね、と思う。ラジアンF待ち。

2020年8月13日(木)

墓参りへ。それから、祖父宅やいとこたちのことを気に掛けてくれる近隣のお宅へ、ビールを持っていったりした。祖父亡き後の相続については基本的な話の方向性がまとまり、懸案な叔父の家屋に関しては田舎の人脈で話が付くかも、といったことを聞いてる。あしたは朝のうちに祖父宅へ線香を上げに行く予定。昨晩は意外にも星空が覗き、ペルセウス座流星群が流れるのを一時間ほど眺めた。

2020年8月12日(水)

午後より自宅と山道の草刈りをした。密集した篠藪は一度に刈ることがむつかしいため、切断した篠をちまちま除けながら、三時間ほど掛けてひとが楽に通れるような幅を作った。高さ三メートルはあると思われるあの藪は、うずらや雉や狸が安全に暮らすにはこれ以上ない隠れ家になっているんだろうなあ。緻密な篠藪の上部ではオニドコロや藤の蔓が樹冠に近いものを形成しており、それらに絡みつかれた篠は根元を刈るだけでは倒れてこなかった。ああ、けっこう疲れた。水風呂が心地よい日。明朝は墓参りがあるから、早いとこ眠ってしまおう。