2026年3月23日(月)

ぼんやり過ごすうちあっという間に過ぎた日。認知負荷以外の疲れる原因で思い当たったのは「過度にじぶんを問題視する視点」。回復ができていないとか、愛着の傷を手当てする必要があるとか、駄目出ししすぎるからただ休ませるべきとか、それからこうした毎夜の内省とかね。いまのじぶんにいったん満足してみたら、という主治医の言葉でそのように方針を採ったわけだけれど、腹落ちしていなかったかもしれない。とりあえずじぶんは疾患に折り合いをつけ、日常を取り戻した。ほんとうに深刻な問題はただひとつそれだけだったとも言えるし、それはもう解決できたのだと言ってもいい。変えなければと思っている箇所は必須でなければ〆切もなく、オプション。ひとまずリカバリーしこの水準にくるのは単純に大変なことだったよ、到達という言葉をここで出してもいい。愛着とかつねに新たな問題解決に取り組みたがるけれど、疾患ひとつに絞ってみればたいへんよい感じに寛解しており、さまざまな患者さんを診ている主治医視点だと現状維持ができればなにも言うことはない、くらいであろ。いまのじぶんはなにも問題ないんだよ。いまとこれからのことをすきに考え、決めていく自由もある。ひとまずじぶんは満足のいく仕上がりになっている。そのままなにもしなくていいし、好き勝手にだらだら過ごしていい。……それで、どうだろ? 「回復ができていない」「愛着の傷を手当てする必要がある」と、「いまのじぶんはなにも問題ない」「満足のいく仕上がりになっている」「そのままなにもしなくていい」とでは、疲れの軽重に違いを感じそうなのは確か。であれば、自己に突きつけている課題はいったん置いてみる。課題を抱える自己ではなく、満たされている自己として捉える。いまふと思ったのだけれど、自身が満たされている存在だということを理解できるとしたら、それは救われているというような表現になるなにかなのだろう。満たされている自己という捉え方はきっと大切。ひとりでいることが豊穣の野であるくらいに内側を潤すことに余念はなかったでしょ。こうした捉え方を踏まえ、冒頭の「過度にじぶんを問題視する視点」から「満たされているじぶんを味わう視点」へと方向転換してお気楽に過ごしてみる。たったいまの肌感で、でも問題を手放してしまうのはすこし怖い、つねに問題解決に取り組み悩んでいないとなんか不安な感じ、というのがあった。これがじぶん自身の甘えたさ、甘やかしてあげたさを制限している観念では。いったんじぶんを好きなだけ甘やかすこと、それで満足することでようやく内発性や主体性が立ち上がってくること、回復したければその経路を通る必要があること、そうしたことを前提にするわけなので、いったん手放してみることが解決や回復へ続く道だということを怖れずに受け入れる必要がある。もう必死にならなくても安全なんだよ、ってこと。それで、満たされているじぶんをどのように味わうか、が肝心なテーマになるのだけれど、もうあたまがふわふわしていてなにを書いているのか分からなくなってきた。ひと息ついたらおふとんへいこう。それと散歩でよいから運動をしよう。現状の突破口は見えており、散歩なんだ。おやぷみ。

2026年3月22日(日)

うれしいこともしんどいこともあった日。高原のほうの料理店へ行ってみたら観光地でしたかというあれで、食べるのは止めて周りのお土産屋へ足を踏み入れた。所狭しと並ぶアジア系の雑貨をふーんと見るうち、小さめの花びんを見つけた。気泡がたくさん入っていて透明な、手吹きガラスのシンプルな花びん。こういうの探してた! と手に取ってまじまじ眺めるうち気分が乗り、買いものかごを持ってつぶさに品々を見て回るなど。星野道夫のエッセイに、季節の移ろいひとつに心を動かされてしまうようなその浅さで人は生きていけるのでしょう、という旨の言葉があったけれど、じぶんのこういう軽さに悪い気はしないね。それから数ヶ所に分かれているお土産屋も覗き、お香が充実している一角を見つけて前のめりな気分になってしまった。HEMの六角柱の箱入りなお香がたくさん並んでいる。ひとつひとつ手に取って香りを確かめながら気に入ったものをお買い上げ。チャンダンやムーンという名前のが売れ筋で有名でもあるようだった。そのあと移動して喫茶店でひと息ついてからギャラリーへ向かい、オーナーさんとしばらく話をした。じぶんがいま行っている、印刷所へジークレー印刷を注文して作品を仕立てるというやり方は高くつく。高価格帯の6色くらい使うプリンター、といっても5~10万くらいのものでもじゅうぶんにジークレーと見分けが付かないくらいのクオリティがあること、そっちにすればすぐ元は取れるよ、というアドバイスをいただいた。オーナーさんの姪にあたる方がジャーナリスト・フォトグラファーで、そのギャラリーでの展示に使ったという東日本大震災直後の現地を写したプリントを拝見したり。なにかしら誰かしら、活躍されているのだなあみたいな思いがよぎるときには毎回思うのだけれど、じぶん自身はひとかどの立場や社会的な肩書きといったものから距離を置くことにして、内的な充実に舵を切ったでしょ。評価されることというのも競争や比較でできていて、そうした経済の枠組みに回収されることからはうまいこと半身抜けたいんでしょ? 感心経由ですら、通念ていうのは簡単に侵入してくるのだよなーと思う。そのあと夕餉の食材を買って帰途。しんどいこともあるにはあり、それだけ書けばじゅうぶんという。HEMのお香を数種類焚いてみて、どれもエキゾチックでよい香りと思いつつ、それなりな受け皿を使うほうがよいのだろうなという大きさと灰の落ち方。耽溺しているリスンは茶さじがしっくりくらいのサイズだからね……。そういうふうになっているとはいえ猫の目のように気分が動いて思うのは、ネガティヴな気分での失望はほんとうにまっ暗という感じなのだけれど、多少持ち直して思い直したときには深刻さはさほどではなくなっていて、ではどちらを基準にするかということ。悲観は気分で楽観は意思というフレーズを採用するにあたり、気分に圧倒されがちとはいえ、そのあとの沈黙や余白がベースラインの気分へ戻るために必要なもの、なんだと思う。この「戻る」「戻れる」という自己調整/自己効力感の育成/メタ認知が回復における身体的アプローチでは鍵となるもの。そのうえで指針や方向性が出るならそれはするのがよいよ。まとまりがなくなってきたから今夜はここで切り上げ。

2026年3月21日(土)

ぬい一名を連れ、定期通院先へ寄ったあと、半日のドライブ。とくに目的地を決めたわけでもなかったから、田舎ののどかな道や細くて変な道をあてもなく走った。穏やかで車内はすこし暑さも感じるような陽気で、土手や空き地、畑地にホトケノザかヒメオドリコソウの渋い紫色が絨毯のように広がっているのを見たり、早くもハナダイコンが咲いている林縁を通ったりした。やっぱり趨勢はまだ梅で、ソメイヨシノには早いような。直売所を二カ所覗き、売り場にたけのこが並んでいるのを見かけた。なんとはなしに目的地にしていた道の駅は臨時駐車場まで満杯だったため、車は止めずに再びぶらぶら。まさに学校の裏山という落ち葉に埋もれるような曲がりくねった細い坂道に、なぜか懐かしさや穏やかさを感じたり。おひるはGoogleマップで見つけたピザ屋に入り、桜の生地とソースを使ったピザを食べるなど。ソースは甘くてよい香り。チーズの上にはちみつをかけるのがおいしい……。そのあと帰路へ。目的もなく車で走っていると半日がすぐ過ぎるという意外さ。うちの仔も一緒だったし、音楽流しながら口笛吹くのが気持ちよくて、こういうのはわりと性に合っているのかもしれない。思うに、不安というのは少なくとも三種類あるのでは。ひとつは怖い、脅威を感じる、じぶんの存在が脅かされているという不安。これは熱狂や怒りと相性がよく伝播しやすいため、SNSでは正しさのガワをかぶってはびこっているもの。二つめは情報が足りない、未知である、備えなくてはという不安。これは探索にも伴う不安で、シンプルに自分自身からのメッセージ=対処依頼であるというメタを取れると怯えなくて済むもの。三つめは心身の不調ベースで生じるダイレクトな不安。これはねえ、身体のコンディションからまず整える、生活改善という基本がすぐに効く。認知や価値観の更新もよいけれど、それには時間が要るから腰を据える必要がある。時間的な射程でも分類できると思ったけれど、それをしてどうなるんだろ。直近の不安は現状の反映だから変動が激しいぶん過ぎ去りやすく、ぼんやりとした拭いがたい不安は人生の過去や未来に対して生じており、整理と見直し、軌道修正が必要というサイン。とくにオチなし。これ書いたらオフロ入ろ。

2026年3月20日(金)

なにごともなく。布団カバー類が届いたため、車の荷席に積んだそれらにかぶせたり。うん、とりあえず自由。どこへ行ってもよいよ。気晴らしに海などどうかねえ。夕方の買い出しにて、桜らしい色合いにけぶる木をやや遠目に見かけた。樹形からするとふつうの桜だと思うけれど、それならわりと早咲きになるし、どうだろ。道沿いの家々には梅や木蓮もちらほら。世はすでに春。気分的に籠もっている感があるというか、感受が自然の流れにあまり反応してないね。ダメ出しを止めようと書いたことだし流れに任せてみる。アレルギーの薬を使っていても鼻づまりがするんだよねえ。仔猫の影響かなと思い、居室に念入りに掃除機をかけてみたものの、変わらず。飲食店開拓をしていて思うのは、なんとなく顔見知りというひとたちが地域に点在しているという、これまでのスタンドアロンな人生からすると意外な関わりのあり方。お店の人たちではあるけれど、あなたのこと覚えてますよなんて言われると、ちょっと不思議な気がする。インドカレー専門店のスタッフさんやタイ料理の居酒屋のおかみさん、フィリピン食材店のご婦人は出身もそちらかなという感じで、ゆえにいろいろな経験をされているからかもしれないけれど、なんというか、フランクに接しやすいというか、人馴染みがするというか。人馴染みって言葉ある? そうしたひとたちとの小さなやりとりを振り返ると、逆にじぶんが異邦をぶらぶらしててもいいんじゃないか、そんな人たちみたいに渡って行けそうな気もほんのりしてくる。そのあり方で、店に来ただけの知らんやつがほんのり前向きになれてるってこと、誰に伝えるともないけれどそうしたあり方はありがたいものだね。さっき鼻づまりがと書いてから窓を開け換気をしたら症状が消えた。これを書きはじめる前まで仔猫が部屋で遊んでいたから、で確定ぽい。情報依存についてのあれこれはそれなりにといった感じで、画面を見ていると目やその周りの筋肉が疲れるのだなという、当たり前の感覚が出てきた。それをすることの負荷というものに自覚が出てくるのはよい傾向なので、このまま続けてみる。

2026年3月18日(水)

とくになにもない日。作家協会の総会の案内がきて、参加のお返事を送った。どうなるんだろうね。さっきまでだらしない姿勢でしょうもないネットの投稿を読んでいて、意外なくらいひとりで笑っていたのだった。こんなに笑えたっけじぶん? まあ眠ろっか。

2026年3月16日(月)

車の荷席に敷くマットレスを内寸に合わせて切ったり、そこに敷く掛け布団を買いにいったり。タスク処理に乗っているとき特有の、身体が動けている&動き続けていて休まらないなあ、という感覚があった。この感覚があるのは悪くない傾向というのと、いまは動かなくてよいのだろなという気持ち。夕餉のあとに机の前でうとうとしていたら、なにもしないことの快感みたいなものが背中に広がり、それを気持ちいいなーと微睡みながら味わっていた。宵や夜更けの時間帯にこんなふうにうとうとしているとき、たまに変わった感覚が訪れることがある。くつろぎベースのそれだと思うけれど、緊張が解けているとそうなるのか、なんだろね。マグネットラメ入りのジェルネイルで遊んでいた。タイガーアイやムーンストーンみたいな反射の縞がつくれて綺麗。楽天で枕カバーによい緑色のがあるか探していて、二組でひとつという商品がそれなりにあるのを見て、ベッドのなかでまで他人といたいひとというのは多いのだな、と思う。とはいえじぶんはぬい族の側におり、そちらのみんなとは気を許していて一緒にいるわけで、このへんは別の事柄に置き換えたらいろいろと変わらないのかもね。ヤブカンゾウが群落を作っている場所を車で通ったところ、新芽がちょうど採りごろという大きさに生えていた。ヤブカンゾウはつぼみを食べたことは何度かあって、あれはほんのりした甘さとつけたマヨネーズの味わいがとてもおいしかった記憶。芽はどうなんだろ、気が向いたら採ってみる? 高知と岐阜では桜が開花したそう。早いね。なんだかんだと大変な思いをした冬を、ひとまずここまでやってきた。かえるの声が聞こえ始めたら春宵一刻値千金といったところ。

2026年3月15日(日)

サイズを間違えたダブルの敷き布団をニトリでセミダブルに交換。なんとなくいま回復について思った「こういうときは焦らないほうがいい」という言葉がなにかに似ていて、ラピュタのドーラが鉱山街のあたりで言うあれだ……。いまなに考えてる? と問うてもつらーっと出てこない代わり、雑多なタスクが書き出そうと思えば次から次へと出てくる。夜にそれをしてもしかたのないことで、するなら早く眠って翌朝するのがよいよ。認知負荷以外にこれが疲れていそうと見当をつけたことがあったのだけれど、忘れた。モニターの前でぼんやりしているのもなんだし、切り上げ。

2026年3月14日(土)

キャットタワーやメタルラック、ハンガーラックを組み立てた。晩ごはんのあと机のうえでうとうとするうちにこんな時間。おふとんへいって眠る。

2026年3月13日(金)

前に訪れたタイ料理の居酒屋でお昼ごはん。バミートムヤムナムコン(濃厚なトムヤムクンを使った具だくさんの麺)とラープイサーン(豚肉各部のスパイシーハーブサラダ)を食べた。あらためて思う。ここの料理、一品でおなかいっぱいになるボリュームだ。そして辛いのを頼むと手加減なしに辛い。唐辛子がレンゲで頬張るような具材として山のように投入されている。それらがなんかよくて思い出して来ちゃうんだよねえ。ヤムウンセンをテイクアウト。バンコクのM3レストランで夕餉にしたあの太め・ひんやり・はりはり食感な春雨のヤムウンセンの驚き、あれがじぶんのなかに確実に居場所をつくってるな……。そのあと地図で見つけた焙煎所へ。建物周りは温もりのある雰囲気で、中では薪ストーブなど焚いているらしく、着いたときから風のなかに木の燃える香ばしいにおいがしていた。お店の方におもしろそうな豆を伺い、コスタリカ・アグリビットのオレンジティピカとインドネシアのマンデリンを豆でお願いした。一階のその場では常連さんたちが雑談していて、二階もゆっくり過ごせるようになっているとのこと。炭酸コーヒーを注文して一時間ばかりそちらで本を読んで過ごした。帰り際、常連さんのひとりから車の色がいいねとお褒めいただいた。個人的にとても気に入っている色だけれど、人によって評価が分かれるものだなーと思う。それから帰宅して本の続きを読んだり、買ってきた豆を挽いて珈琲を入れたり。豆を挽くのはいつ以来だろってくらい久しい。浅煎りのオレンジティピカは酸味と爽やかな香り。いかにも珈琲という焙煎香からは遠い風味で、例えるならコーヒー豆を煎るキャラメル方向ではなく、生に近いジュース寄りにしているような印象。スペシャルティコーヒーってこういうのかなと思ったり。ちょっと検索したらエキゾチックという表現が出る、試験的でとてもおもしろい豆のようで、よく味わうと果物感が増すのかなー。きょうはあまり思い煩うようなことがなく、気楽に過ぎた日だった。きのう思い当たったことが影響しているのかも。回復したいのならじぶんをジャッジするのではなく徹底的に甘やかしてみる、そうして満たされることではじめて能動性や主体性が立ち上がってくる、こういったことを前提にしたい。