定期通院先へ。意欲についてあれこれ訊く。フランス料理を食べたり東京へ買いものに行ったり、優雅に生活しているように見えますよ、との言。できないと思っているところへの評価が強いけれど、外食や買いものなどそうしたことをできている点も含めて事実をまず正しく評価しないと、その上に思考を積み上げてもうまくいかないですから、ということだった。できないというよりは気持ちと実行にずれがある、そのずれをどう見るか、ということもあるでしょうとのこと。そしてやはり、運動は基本にして王道らしい。じぶんにとって大事なとこだからと粘って話を伺い退室したら、待合室が混んでいた。とても久しぶりのことだけれど今回は申し訳ないという気持ちは薄め。じぶんも誰かを許せば済むこと。薬局で処方を受け取ってから市役所に向かい、期日前投票を済ませた。建物から出たところで見知らぬご婦人から「期日前投票の会場ってここですか」と訊かれ、入って突き当たりへ行けば案内の方がいます、その投票券があればじゅうぶんです、などやりとり。別れ際に行ってらっしゃいとお伝えした。なんとなくうれしいのは不思議な感じ。それからイタリア料理のチェーン店でお昼のピザなど食べたあと、初めてのカラオケ店へ入って計二時間歌っていた。初めてだしねとひとまず一時間のつもりが延長してのこと。通りすがりの女子高生二人にちょっと気を遣われてお礼はしたものの、若干の申し訳なさ。ここのDAMは新しめだったし、料金も安くてよいね。それからホームセンターやスーパーを回って帰途。うちでは仔猫の相手をしたり、長湯したり夕餉を食んだり本を読んだり。元通所先から返信がきて、被雇用者以外としての経験や知識を持つスタッフがいないために助言ができない、とのこと。じぶんは就労支援の枠外へ出たということになるね。そこからしばらく気持ちに揺らぎはあったものの、今夜はおとといやきのうとはうって変わり、凪の気持ちで本を読んだりインセンスを焚いたりして過ごしてる。夜が居心地よいのは久しぶり。一日のうちにけっこういろんなことをした日だったし、これはじぶんが想定/期待しているのとは別の側面で意欲が顔を覗かせている、と解釈して、できていることを増やしていくというアプローチもありなのだろな。趣味や生活が期待通りにできていないように見えて、外食やカラオケでは新しい扉を平気で開いてる。夜風のざわめきを聞いたとき、季節を感じることに出口がありそうに思った。もしかしたらそれは逆で、現状から脱したときには季節への感受性も回復している、ということかもしれないけれど。関係ないけれど、いろいろ厳しそうな今回の選挙、正しさからはそっと距離を置こうと感じた。もちろんいかがわしい真似で力をつけているあれこれへの拒絶はあるけれど。こうした局面で戦い方としての正しさがカウンターとして絶対になっていくことへの、一歩だけ引いておく距離。投票へ行くこと、それを表明することの正しさみたいなものに、ちょっと今回は違う気がしたから、それはこの場末に書いて留めておく。旗幟鮮明にしてアカウントで表明せよ、みたいな気配にそれは知らないよと思っているだけかもしれない。
2026年2月5日(木)
体調は戻ってひと安心。『悪人正機』を読み終えてハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』(岡崎暢子訳、ダイヤモンド社)を読みはじめた。日が暮れたころ、なんとなくごはんを食べに行こうかという気分になり、タイ料理のお店でごはんを食べた。うん、本場の味を知ってるってこういうことかーという側面もあれば、そこのトムヤムクンは間違いなく美味しく、時間が早かったのかひとりで気楽だったこともあり、旅の記憶を振り返ったりしていた。多層化されたじぶんたちが同席している、じぶんにとっての現実の風景にほほ笑んだり。いまこれを書きながら思うのは、きのうの不安はやはりかなりの部分が体調由来の気分の揺らぎだったという手応えと、それを把握して圧倒されずにやり過ごそうとするじぶんのささやかな長所。じぶんで褒めよう、えらい。突然別件になるけれど、目にとまる誰かに対して、このひとは自分自身と和解していそうかどうか、という視点がさいきんじぶんのうちに芽生えた感。それはとりもなおさずじぶんはどれくらいそうなのだろうかという問いの延長で、このところのテーマなのだな。そんなものがなにになると言えば全てだと言ってよいものだった。おそらくじぶんの疲れやすさにも影響があるはず。いくつか本を読んでみて思う、この和解と便宜上呼ぶプロセスは自分自身のことなのに、協力的な他者がいてこそ功奏する。元通所先でじぶんが獲得したのは仕事についての理解や一連の経験よりも、手を差し伸べてくれる方たちの存在そのものが安全基地となってくれたという肌感なのでは。仕事のあれこれはじつはオプションで、そこでしていたのは愛着のケアだったのでは。他者と安全の関係を構築するという回り道を経由することで自己と和解できるという、一見よくわからないけれど子どもの成長という線で見ると明らかな手順は、きっと大人になってから踏むのは状況から見て大変なのだろね。また少し別件になるけれど、就労支援の現場ではよく社会性が大切ということが言われており、確かにいろいろな意味で痛感はしたものの、それってきちんと切り分けないと怖いと思った。意地悪く言うと、なんら公正でもないいびつな世間の声を内面化して、その声につねに自己をジャッジさせる、そうやって社会の一部となる、それが社会性と呼ばれているものの一側面だと個人的には解釈してる。だからそれは必要に応じて着脱自在なペルソナ扱いで別によいはずなんだよね。自己判断で外した際にそれでは社会性がないと口を揃えて言われたの、それはそれで根に持ってるんだな……。なんでこんなことを書くんだろうと思うと、それはじぶんの関心でもあり、だから『悪人正機』や『あやうく一生懸命生きるところだった』みたいな本を読んでいる途中でなおさらなのだな、という。ところで、新車のカーゴはまだ各部のフィルムもめんどくさくて剥がさず、夏タイヤも積んだまま乗っているのだけれど、そのへん手入れして敷き布団と掛け布団を買ってきて積めば、ひとまず車中泊仕様になるんだねと思った。いまのところ思うだけ。自覚が薄いだけで、いまかなりな自由と行動圏を手にしているのだろな。なにかするのは別に暖かくなってからでもよいよ。
2026年2月4日(水)
モニターを梱包して引き取りにきてもらい、元通所先へ面談の相談についてメールを書いた。会社員/被雇用者以外の形態で収入、生計、暮らしを立てていた経験のある方が居たらお話を伺いたい、という内容。いつかそういうのを選択肢として持っておくのもありかなと思ってのこと。きょうはこの二件をこなせたら達成と捉えていたので偉業。うまくできないことだってよくあるからね。というかきのうよりはましだけれど体調由来の不安感が強めで耐えるように過ごしていた。そのわりにはお決まりの反芻思考はあまりなくて、買いものへ出かける夕方の車内でいまじぶんはとりとめのないことを考えているなあ、呪詛で占有されていない思考って気ままに考えるものなのだなー、と思ったりしていた。不安を感じるときは原因を、体調/状況/対人、に切り分けて捉えてる。体調はそのまま寒さや疲れがたまっていないか、睡眠不足や栄養不足がないか、気分転換になる動きはあるか、など。状況は幅広くて、直近の身近なストレス、居場所や避難先があるかとか、生活していく上での不安要素がどこにあるかとか、幼少期の愛着まで含む。対人はそのままで、他者の揺らぎを受け取っていないかとか、境界線に迫られたかどうかとか、解釈をじぶんひとりで増幅させていないかとか。とりあえずで原因を切り分けられると不安への耐性が持てるから、漠然と不安を感じているときにはその根っこを把握できると個人的には楽。不安は種から芽生えて枝葉を伸ばすもので、具体的なことから漠然としていくもの。そうしたいつのまにか生えてきたよく分からない雑草については、それをよく眺め、観察し、触れて、口へ運びよく味わってみる。不安は基本的に身体の声なので、じぶんと呼べる者たち皆でその雑草を味わいしっかり分かち合うと、身体は安心して不安をすこし弛めてくれるみたいなんだよね。でもこんなことをする前に具体的で確実なケアを見つけておくほうが早い。じぶんの場合は睡眠と長湯。睡眠はとても強くて、これができると心身不調も翌朝にはとりあえず、にできると感じる。これがうまくできないまま過ごした長い年月のじぶん、よく生きのびたものだね……。寒さが身体に溜まってくる夕方は具合がよろしくなくなってくるのだけれど、二時間くらいの長湯は自覚できるくらいには気分を持ち上げてくれるんだよね。きょうは一行くらい書きつけたらおふとんへいって養生しようと思っていたのに、なんかとりとめもなく書くのだなー。そんなに書きたいのかと問うと、とくにそんなことはない感。ここに雑記を書きつけるのって、じぶんにとっては一日の終わりの禊ぎのようなところがあり、一日を通して思考に浮いたり溜まったりした灰汁や澱をすくい取る作業でもある。そうしてすっきりした気分でおふとんへ入ると眠りも気持ちよいというか。いま吉本隆明、糸井重里『悪人正機』(新潮文庫)を読んでいて、いまのじぶんには吸い上げるように届く本だと感じてる。仕事を二月で辞めたいと決めるにあたって、世間のこうあれという通念や周囲のよかれという提案を退け、じぶんの判断を優先したのだよね。そろそろそうしたことが必要な局面は出てくるだろうから、正しさや通念へのカウンターを示してくれるこの本はたいへんな滋養。いま思い返したのだけれど、こうしてただ乱雑な思考のうちをとりとめもなく書き出す快があるときって、具合はそんなによくないときのサインなのだった。明らかにそのようね。素直に眠っときなさい。おやすみ。
2026年2月3日(火)
体調がよくないので眠る。
2026年2月2日(月)
なにごともなく。モニターの件はメールして修理受付番号を発行してもらった。替えのモニターも届いたから、勢いでカスタマへ発送できたら。
2026年2月1日(日)
なにごともなく。デスクトップ機のモニターについている任意にON/OFFする電源ボタンが壊れたみたいで、そのようにできなくなった。OSや筐体本体と同期して動きはするから、前のように基板が壊れたとかではなく、たんに電源ボタン自体の故障かなといまはみてる。これ、よいお値段したちゃんとしたカラーマネジメントモニターなので(それでも安いほう)、商売してはいないけれど商売道具のようなものでもあるし、細かい故障でも早めに修理へ出しておこうか。ひとまずその場をしのぐ代えの安いモニターをAmazonでポチった。公式のカスタマに連絡するのがめんどいという気持ちは肯定しておくよ。めんどくさいね。だらだら過ごせるタイミングでたぶんましではある。夜はランプの灯りで過ごしているからモニターの電源切りたいのだけれど諸事情によりそうはいかず(スリープ/省電力モードやデフォルトのスクリーンセーバー設定がどこかで強制的に無効になってる)、ただ画面を黒くするだけのスクリーンセーバーを探してる。すごい、こういうのが探してもすぐに見つからない時代になってる。検索しただけでは手に入らないからいつぶりなのというくらい久しぶりに窓の杜へ飛んだ。ら、往時はあれほど隆盛を誇ったジャンルが十件くらいしか表示されないみたいで、さみしいことになっていた。もうしょうがないからPaintでただの黒い画像をつくり、それを全画面表示させておこう。今夜はもう考えるのやめ。タスクはあしたへ。話を聞いてもらえそうだからと求められるのはよいのだけれど、心身不調で寄りかかられるのは避けたいと思った。自他の反応を過剰に気にされると困惑するものね。わたしに関わりたい人間はわたしと良好な関係を保つために、あるていど具合がよい状態で触れてほしいな。
2026年1月31日(土)
なにごともなく。中古本で全巻揃った『からくりサーカス』を読みはじめたり。なんか長めの漫画でも読もうかという気分になり、ジョジョとこれでどちらへ行こうかすこし考えもしたのだけれど、なにも前情報がないこちらへ。
2026年1月30日(金)
新車が納車され、急遽入った面談にその車で恐る恐る向かった。それから歯科で歯の治療。面談では「フリーランスや自営業にめっちゃ向いていそう」「聞くだけでなく話すということに向いていそう」「いままで出会ったことのないレアなタイプのひと」「こちらの話を聞いてくれるという姿勢を感じる」などの評をいただいた。状況が許す限りひとと接さずに過ごしたいひとですとお伝えしたけれど、相談員さんの仰ることはきっと正確。とても眠たい。この眠気を我慢をする理由もなかろ。あれだけ長年ひどい不眠で過ごしたのに、いまでは当たり前のように夜になると眠いと言っている、この変化。今日は予定が多くて疲れた。おふとんへ。
2026年1月29日(木)
なんだか眠い。早めにおふとんへ。
2026年1月28日(水)
なにごともなく。思うこと。他人の課題、他人の未成熟、そうしたものは受け取らないことにしてはどうだろ。関係や関心がないと認めることであり、過剰な共感を制御することであり、感情の舵をじぶんで握るということであり、境界線の話でもある。じぶんの課題、じぶんの未成熟、じぶんの心にある影を相手に投影しないということでもある。受け取らないと決めるだけでは効力に欠けるから、言葉を用意する。「そういう考えもあるかもね」「あなたはそう思うんだね」「それはわからない」「いまは遠慮しておく」なら敬しつつ線を引ける。じぶんで言うのもあれだけれど、じぶんはこころを守るために共感や優しさと呼ばれているものが過剰なので、その過剰なもののトーンをいくぶんか弱めたり薄めたりしても、味わいは減らないと思うよ。そもそもその共感や優しさと呼ばれているものも、じぶんのそれは処世術であり着脱可能なペルソナと捉えているし。境界への侵入に対して防御と拒絶で固めるやり方を、はじめから距離を確保するやり方に、少しずつ置き換える。置き換えが進めばよりスマートにできるようにもなる。もともとひとと交わることについては得るものがあるからくらいに捉えているのだから、ひとと距離を置きたいじぶんのありようにもうすこし素直になれると、交わりももっと楽なものになると思う。「わたしとあなたは違う」はじぶんの根底に強烈に流れる価値観なのに、これまでうまく大切にできなかった部分。その部分で、これからはじぶんがじぶんの味方になる。冒頭のことをおふとんの中でぬいと過ごしながら考えついたとき、口角がごくわずかに上がる頬の動きを感じたのだった。これが身体の応え。であれば自我はよい理路をひいた。この理路をすこしずつ自我から身体へ落とし込む共同作業をしていこう。じぶんは執着・依存・支配・操作・搾取あたりの手つきで触られやすいし、そうと気づけば極端な反応をしやすい。それは共感や優しさと呼ばれている過剰なものを、相手を選ばず差し出しすぎるがゆえに、境界線を踏み越えられた経験の積み重ねかもしれない。であれば境界線の引き方こそがいまの課題。上で用意したフレーズを使えるようになるだけでも大きな変化に入っていける。共感は生存するための強いスキルでもあったけれど、これからはもっと絞っていい。絞ることは精度や純度を高めることと捉える。こんなことを考えておふとんでだらだらしていたら変な時間。ねよねよ。
