2026年4月10日(金)

またタイ料理の居酒屋で昼ごはんを食べた。メニュー表を見ているとおかみさんが裏メニューというなんだったかを提案してくれて、それに。ほかの席では酒の入った中高年男性らが殺伐と駄弁っており、こうした人たちもいるんだなーと思う。なんだか気分はよくて、ひとりで水をちびちび飲んでいた。カウンターの上には包装に入ったたらの芽が大量に並んでおり、訊くとここで売ってるよとのこと。確かめなかったけれど、その場で調理したりしてもらえたんだろうか。運ばれてきた料理は豚の各部の肉と巻いた餃子の皮を使ったボリュームのある煮込み。一度にこんないろいろな豚の肉を味わうのって初めてだ。骨までやわらかくおいしい。あとで伺ったところによると大鍋に作っており、それを買いに来るひとたちがいるとのこと。お会計の際におかみさんが揚げたばかりのたらの天ぷらをひとつくれて、思いがけないかたちで山菜を味わい、テイクアウトも受け取りつつお店を出た。そのあとは雨のなかを車でふらふらしつつ帰途。そのあとはポケモンZAを久しぶりにしたり、仔猫の相手をしたり、なんとなく過ごすうちに日付を越えていま。思うのは、じぶんはひとさまから分け与えても減らないものを贈与されている、そのひとの持つ幸を受け取っている、ほかのかたちにはならないものをおすそ分けしてもらっている、そうした感覚があること。たらの芽の天ぷらいただいてうれしかったもんね。いろいろ思い当たることはあるのだけれど、こうした感覚はじぶんのなにかへと回収せずに、ひととじぶんのあいだの流れや循環として捉えるとよいのかな。ほか、思い当たることといえば、やはりあの長年しつこかった怒りの感情になにか変化が起きていること。感じていることはあるけれど、いまはあまり言葉で確定させたくないから言及はこれくらい。このところ生活が乱れていたからほどほどでおふとんへ。

2026年4月6日(月)

なにごともなく。なにか不安のような焦りのようなものをうっすら感じると思って言葉を持たないこころを翻訳してみると、フィジカルのコンディション由来が半分くらい、もう半分は回復待ちで四月入りというとくに意味はない区切りがこころをざわつかせるのかなと思った。こうした暦とか年齢といった数字でしかない節目に気分が揺らぐということはあり、それはそれ以上のものではないのだよね。ほかに思い当たるのは、先の総会で活動的なひとたちに触れたこともあるのかな。それも自他を比べる必要はないからね。感触としては、なにもしていないということにすこし負い目じみたものを感じるところが出たのかも。主体性や内発性で行動できるならよい傾向だけれど、内在化された外部の声をじぶんのものと取り違えて不安になるなら、それを打ち消すために行動に出ようとするのは勘違いであり、体調を整えたうえでこの心身と向き合うか、現状の方針を信頼してあまり気にせずゆったりと過ごすのが吉。まあね、なにもしていないということが気になり始めたのであれば、一足飛びに現状更新のアクションを立ち上げようとするより、まずは散歩を日々の生活に取り入れることこそが正解と言えば間違いなく正解。散歩をしようかくらいの段階へやっとやってきたのかもしれない、というかおそらくそれが妥当であり、本日の答え。就労支援の場で周りを見ていて思ったのは、苦痛や焦りといった動機は押し出してはくれるけれど、そこから先では推進/牽引してくれる動機も要るので、もし状況が許すのであれば内発性の芽が出てからのほうが行動は起こしやすいのだろう、ということ。リハビリと就活で空っぽになっておいて、働きながら回復できるのではなんて目論見はアクセルとブレーキを同時に踏むような無理だった、というのは実際にしてみて得られた答えだったのだから、当分を回復期間とする方針はこのままでよいよ。そこでなにか得ようとかも考えなくてよし。のんびりする。そういえばアーマンディー・アップルブロッサムが花盛り。薄明かりの時間にデジイチで撮ったら綺麗かなとか考えつつも窓から眺めていた。

2026年4月5日(日)

作家協会の総会へ参加/入会してきた。雰囲気や活動内容を把握しながらつつがなく終え、連絡先を教えていただいたり、連絡網に入ったり。よかったのではないだろうか。知らない場へ飛び込むの、身構えることはそこまでないけれど、疲れた~。外向けの表情つくるのは気力にくる~。帰ってきてからじわじわと疲労感が出ており、ごはんたべて早くおふとんへいこうと思い、ばたばたとこれを書いてる。大昔のじぶんだったらこうした機会では、脳が直接作りだす行動不能な鈍痛に近いくらいの不安に死んだ目で耐えていたものだけれど、いまはずっと楽。場というものに対してじぶんがゆっくりと、でもしっかりと受け入れられる存在だってことを経験の蓄積として持っているし、元通所先のスタッフさん方が与えてくれたものも効いてるみたいだ。心身が持ち直すまでここまでかかったというのもシンプルにある。どれもありがたいことだな……。なんとなく思う、あれだけ手を焼いてきた怒りというものがすこし楽なような、なんか最近そのへんに変化しているものがある? これはあまり言葉で確定させずに曖昧なまま抱えたほうがよいもの。きょうは流れに沿ったつもりだし、ここからも流れ重視で。

2026年4月4日(土)

なにごともなく。庭のアーマンディー・アップルブロッサムが花開いてきたため、パーゴラの下のほうの花序を二束ほど切り取ってきて花びんへ活けた。甘い香りと、気品のある色合い。桜色/チェリー/金といった感じで、この季節のもうひとつの花吹雪。あすは総会があるからほどよいところで眠ろう。

2026年4月3日(金)

午前中は産直と定期通院先へ。お高めのすいかがもう並んでおり、山菜系はまだふきのとうくらい。山菜ねえ。何年か前の大型連休明けに男鹿半島の入道埼灯台を見にいった帰り、立ち寄る産直や道の駅にミズやネマガリタケなどあらゆる山菜が所狭しと並んでいて、これが本場……! と感動したのだった。……ということを千葉の館山の居酒屋でほかのお客さんに話したという。原付ではなくいまの車なら、会津や喜多方、田沢あたりは開店時間を狙って、前日から行けそうにも思う。それはそれとして、産直で野菜を買ったあと建物裏の参道を歩いた。下草が刈られた杉林には新鮮な午前の光が差していて、境内の桜もちょうど満開になったくらいの咲き方。木のつくる影と光の降り注ぎ方が桜を取り囲むようで綺麗だなあと思う。宵のころ別の観桜スポットな高台へ、ぬい一名と一緒に。毎年ここへくるね。町のあちこちから聞こえるかえるたちのかろやかな声に、とりあえず冬を乗り越え春へやってきた、というほっとした感じがする。しばらくそこで過ごし、身体が冷えてきた頃合いで帰途。日曜に総会があるからあすはその支度など。その日のコンディションによって夜が居心地よいときとネガティヴ思考に傾くときとがあり、今宵は前者。きょうふと思ったのは、旅に出かけるとひととの縁だったりつながりができたりする、ということ。そんなこと目当てに出かけたわけではないにもかかわらず、こちらを見つけて関わりを持ってくださったり、連絡先を交換したいと申し出てくださる方々がたしかにいる。不思議なことだ。じぶんはひととのつながりをつくるのが極めて下手なので、今度の総会のようにコミュニティへ飛び込むことと、ときどき今回の房総巡りのように旅をしてみることが、ひととつながるのに適した機会なのだろうな。べつにホヤやなまこを食べに宮城や岩手方面へ行ってもよいし、海鮮を味わいに新潟方面へ行ってみてもよいし、なんとなく思い浮かべているように九州を巡ってもよいし。寄る辺ない不確かさを引き受ける代わり自由なわけで、好きにしたらよいよ。

2026年4月1日(水)

だらだらと過ごすうちに夜。小雨が降ってる。ボール箱いっぱいに届いたHEMのお香を少しずつ焚いているところ。OpiumやEROTICといったきわどい名称のもあって楽しい。いまのところ気に入っているのはパロサント(Palo Santo)=直訳では聖木、南米に生える木なのだとか。そのままではなく調合したものだろうけれど、とても甘くてスパイシーな香りが気持ちいい。ひとんちの庭先のソーラーライトを妖精灯と呼び愛でているのはなぜだろうと思うと、あれは日のひかりを貯めて点り、夜の訪れとともにそこにある、そういった点が人工物にもかかわらず存在としては自然環境寄りで、人間の社会からは独立しているところが好ましいのかもしれない。というか、その明かりはひとの役に立つというより小さきものたちのよすがのように思えるのだよね。言葉にすると理屈っぽくなるのがめんどい感はあり、夜の道ばたに点るささやかな明かりが愛おしいことに説明要る? 脈絡はないけれど確かだと思っていることがある。妖精ってきのこのようなもの。きのこ目という言い方があり、それを探し求めているうちに養われれる、傍目にはなんでもない環境からそこに生えているきのこを見つけだせる認識能力。このきのこ目は、それがいるという前提で関心を持ってつねにサーチしているから見いだせる類いのものであり、妖精についてもそれは同じだと思うんだよね。のんびりする。勢いで打ってるときの文章って切り方にそれが表れるような。