2021年9月17日(金)

『聖者たちの食卓』を観た。巡礼者に無料で食事を提供する寺院の人々の風景。余計な声は一切なく、あるのは食器を洗ったりめしを作ったりする喧噪だった。作業の合間にバックグラウンドで流すのに向いているとなにかで読み、たしかにそうなのだけれど、その一方で黙々と淡々とめしを作り食器を洗い奉仕する人々の姿や顔に、生きている実感を感じ取れる気がした。それが視聴者のお気楽な共感であれ、こうした映像なら観ていたい、心地よいと思わせるものがあった。それはさておき個人的に、こうした異邦の環境音みたいなものに惹かれる。たしか昨日、クレマチス3鉢、常緑性かつ冬咲きの「ユンナンエンシス」2つと白地に赤い花弁な「アイ・アム・レディ・キュー」の苗が届いた。土日の天候によっては植え付けることも可能だけれど、くるのは台風だしね。日没後に買い物へ向かう道すがら、わけもなくよろこびに包まれていた。自分がどんな存在なのかとかこれからどうなるのかとか、そういったことは一切心配にも思わず、いまこの瞬間から汲み出されるなにかが強烈にいまを肯定していた。こうした感覚はときおり訪れる。風景への圧倒的な没入感だったり、すべてのものが存在することへの実感と祝福だったり。「自分が特別なのではなくいまを特別に思えたら、なにかを喪うことすら受け入れられるのでは」という考えは以前から抱いているのだけれど、それはここまで強い受容なのかもしれない。きょうは例のビラの素材になるような短い話が書けないかと日がな考えており、進展は見えなくとも頭の中であれこれ取り組めたことが、こうしたよろこびの源泉らしかった。きのうの面談で「やりたいと思っても取り組めない」と相談したら、「一度空になったやる気を溜めているところなのでは」という解釈をもらい、それならいずれすんなり取り組めるようになるかもね、という話へ落ち着いたのだった。イメージを借りるつもりで松任谷由実の『acasia(アカシア)』を聴いている。この歌は口笛が吹きやすくてよいな。

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