2011年4月22日(金)

いろいろ思うことはあるが、考えるまでには至らない。葉桜が美しい。葉桜は何を待つのか。

病院の帰り道。本屋さんとジャンク屋へ立ち寄り、めぼしいものを物色する。本屋さんでは、魔方陣グルグルを描いていた人のその外伝「舞勇伝キタキタ」一~四巻と、「世界の終わりと夜明け前」という漫画を購入。後者は表紙買い。最近は本当に考える事をしないから、文庫本やハードカバー、専門書籍の棚には近寄らぬまま、会計を済ませた。ジャンク屋では9x系のWindowsが動きそうな筐体を探すが見つからない。ふと視界に入ったメトロノームをこっそりかちかちと揺らしてみて、少しだけ欲しくなる。必要の無いもの、必要とされるつもりの無いもの。僕はそういうものに愛おしさを感じる。ただ、これが今である必要もない。だいたい君は少々無骨だったから。

原付にガソリンを入れたのち喫茶店へ。アレンジコーヒーを飲みつつ煙草でぼんやり。サービスとはなんだろうかなどと下らない事に思考を巡らせる。たぶん対価を支払う値打ちのある空間や環境の提供といったものがそうなんだろうと結論づけて、花曇りな窓の向こう、交差点の往来を眺めていた。いつでもどこでも僕は、煙草を二本か五本吸ったらその場を立ち去る事にしていて、今日は五本潰した。お気に入りのライターを二つとも修理に出していたので百円ライターを使ったが、どうも気に入らない。据え置きの灰皿は底が若干浮いていて、灰を落とす度にことりと動いた。くつろぎながら静かに周りの物音を聞くのが好きなのだが、自分が音を立てるのはさして心地よいものではない。大して気分を害したわけでもない。百円玉五枚分のサービスを程よく味わったつもりになったところで店を出、帰途へ着いた。

家の郵便箱を覗くと先日Amazonの古本市場で買った「ネクロマンサー」と言う漫画の最終刊が届いていた。いつぞやここで書いた「できそこないの物語」。シリウスコミックスつながりでちらりとクロスオーバーするシーンがあり、孫引き感覚で買ったのだが、最終話を読んでこの漫画は少なくともはずれではなかったかなと思った。「本は出会い頭の妙」と言ったのは誰だったか。

休題。

Twitterとよく似た国産のショートメッセージSNS、Wassrを利用するようになってもうすぐ一年が経つ。SNSは何でもそうだがWassrというのは特に、共感と共有、繋がりを強調されたサービスだと感じる。簡単にレスを付けられる事、レスの代わりに「イイネ!」という意志表現の機能がある事が大きいのだろう。ツールの使い方なんて人のそれぞれで良い。けれど、一昔前のほめぱげ管理人がアクセスカウンタに一喜一憂していたのと同じ感覚で、僕はWassrへPostするときWassr受けが良いかどうかという事をいくらかでも考えたりしている。そういうのは多少疲れるし、楽しい時もある。きっと、さらりと日々の断片を屈託なくPost出来たなら。でもそれは、ネットと日常の関係が逆であって。

休むに似たりな思考の断片ってのは書いていても面白くはないし、読まれないものだ。TwitterもWassrもヱニスの名前で登録してある。貴方が気になったなら、そのときは、左のメニューからよろしくどうぞ。

そうそう。最近この前髪焦げたの更新の頻度が落ちているのは、わっさーとついったへぽつぽつ投稿しているから。先週は土手の野蒜を掘り出して食べたり、夜桜を見たりしていた。特に読まれるようなものでもないし、今日はこの辺でネタの断片を投下して、寝よう。

旅立ちのあとで
なあ……お前は村に残っても良かったんだぞ?
ぼくの背中の上でともだちが呟いた。なんだか自信のない声。おとつい村を出たときから、ずっとこんな調子。
どうしてお前はこんな俺の気まぐれに付き合ってくれるんだろうな。
どうしてって? 走るのは気持ちがいいし、眺めもいろいろ変わって飽きないからさ。ぼくはそう答えて緑いっぱいの川べりを大またのギャロップで駈けぬける。草むらを流れる風と、真上からふってくるお日さまの光。こんなにさわやかで気持ちがいいのにね。
そうだな。俺の旅には何の宛もないのに。
でも、とっても楽しいよ。それに、ともだちがともだちらしくないのはなんかヘン。元気だそうよ。どんどん濃くなるまわりの景色にあわせてぼくはさっきよりも力強く地面をけった。背中のともだちが格好をくずして、あわてた様子でぼくのくびすじにつかまる。
何だよ、今日はやけに張り切ってるじゃんか……全く、お前の言葉が分かれば本当に良いのにな。
ぼくは分かるよ。まだ知らないずっと遠くへ行くんだよね。しっかりつかまってて!

2011年4月11日(月)

あれから一ヶ月か。震災の少し前に予定していた縮毛矯正と髪のカットを先の土曜に済ませてきた。ひと月も放っておいたのはだらしがないが、ま、仕方がない。見た感じ相当こざっぱりしたと思う。これで心置きなく夜桜を観に行ける……もう幾日か先の話だけれど。

金曜の朝から今使っているパソコンのOS、Windows7 UltimateへServicePack1をインストールする作業に明け暮れていた。幾つかのエラーや障害などがあってアップデートは全く進まず、試行錯誤とぐぐる様のおかげで四日目にしてようやくサービスパックの導入に成功。以下、僕が導入成功までに行った手順を簡潔にまとめておく。これはSP1適用作業中のレジストリに関する致命的なエラーC000009Aや、不明なエラーコードWindowsUpdate_8024200d、0x8024200dなどのエラーを「既に吐かれた人向け」に、何かの手がかりになるかもしれないと思って書くもの。

Windows 7 Ultimate x64(64bit)無印版へServicePack1をインストール成功するまで。

  • インターネット一時ファイル(キャッシュ)を一度削除する。
  • コントロールパネルから「システムの回復(復元)」を開き、コンソールに従って、サービスパックの導入に失敗した以前の日付の復元ポイントでシステムを復元する。
    • エラーコードC000009Aはレジストリへ書き込んでいる最中のエラー。僕はレジストリのバックアップなんてしていなかったので、割と時間はかかるが確実な方法にした。
  • コントロールパネルから「地域と言語」を開き、「言語のインストールまたはアンインストール」から「表示言語のアンインストール」でシステム言語以外の全ての言語パックを削除する。
    • おそらく20以上の言語パックがインストールされているはず(僕のはそうだった)。一度にまとめて削除すると再起動の時、C000009Aエラーが出て振り出しに戻ってしまう。システムの回復で削除したものが修復されてしまい、余計手間と時間がかかる。面倒でも確実に、3~4回に分けて削除すると良いと思う。
  • 完全なチェックディスクを行う。
    • システムディレクトリのあるドライブ(通常はC:)を右クリック、「プロパティ」から「ツール」、「エラーチェック」。チェックディスクのオプション「不良セクターをスキャンし、回復する」にもチェックを入れ、開始。ダイアログが出るので「ディスク検査のスケジュール」を押し、再起動。チェックは二時間程かかるよ。
  • セキュリティ・ウィルス対策ソフトを一時的にアンインストールする。
    • 僕が導入していたソフトはMcAfeeのもの。コントロールパネルから「プログラムと機能」を開き、使用している対策ソフトをアンインストール。こういうのはメールアドレスやパスワード、シリアルキーをメモしておけば後でまたWeb上から本体をダウンロードできるので、さして心配はいらない。
  • パソコンをセーフモードで再起動し、ダウンロードしておいたシステム更新準備ツールKB947821(Windows6.1-KB947821-v10-x64.msu)を実行する。
    • セーフモードを立ち上げるには、再起動直後の画面でF8キーを何度か押すこと。選択画面が出るのでそれを選びエンターキーを押す。準備ツールKB947821のインストール作業は1~2時間ほど。これが無事済めばそのままSP1だ。
  • ダウンロードしておいたWindows 7 および Windows Server 2008 R2 Service Pack 1 KB976932(windows6.1-KB976932-X64.exe)を実行する。
    • 一時間掛かるか掛からないか、ってとこ。再起動を求められるのでその通りに。通常ログインの前にシステムの準備で数十分待たされるが、ここまで来ればそんなものあっという間だ。成功したらスタートメニューの「コンピュータ」を右クリックして「プロパティ」を開き、Windows Editionの下に「Service Pack 1」と表示があるか確かめる。あれば、これで一段落。
  • ……する前に、削除したセキュリティ対策ソフトをインストールし直さなきゃね。おしまい。

休題。

カタクリの花先週の水曜日の朝、那珂川町のカタクリ山公園へ行ってきた。数日前に母が、今日ラスクを買いに行くついでに那須街道をぶらついてくるという話をしていた僕に、あんたと祖母をつれて片栗の花を見に行きたいのだが見頃はいつか調べて欲しい、と言うので幾つかのブログを漁った次第。過去のブログでは四月の11~13日辺りでは既に満開やや見頃を過ぎている、との事だった。祖母が早く見に行きたいといった事もあり、水曜日の早朝にカタクリ山公園へ向かった。

カタクリ山公園の駐車場はふきのとう畑の隣にあった。平日だからだろうか駐車場はがら空きで、去年や一昨年の満員御礼・駐車料金のお支払いも無かった。水芭蕉や一輪草は咲いてはいるが、まだこれからだという話をテントで談笑しているおっさんらに聞く。

小高い山を登っていくと木道があり、そこから一面にカタクリが咲いていた。ただばらつきがあり、まだ十時頃だというのに花がすっかり反り返ってしまっているものや、つぼみのままでいるものなど……全体的に見て八分咲きってところだろうか、今年の4/6の時点では。

それでも見に来る方々は比較的おり、夫婦してバズーカみたいなレンズ越しにごついカメラを覗いている人たちもいた。祖母が歩き疲れたというので斜面一面に花が咲いているところで写真を撮り、山を下りた。僕は水芭蕉も見たかったのだが、それなら地元に玉藻稲荷神社があるから、いつでも見に行けるしね。

帰りに那珂川町の道の駅ばとうへ立ち寄った。ここはトイレが実に綺麗なところだ。ランクで言えば上の中をつけたい道の駅。ちなみに道の駅・与一の郷おおたわらは並の上だ。道の駅ばとうで直売の農産品や惣菜を物色している間、とちおとめがよく売れていった。原子力発電所に関する風評はどうなのだろうと思って直売所をうろついていたが、みな気にせずに旬の野菜を買っていく。なあんだ、という感じで僕は程よく安心した。ま、先だって雨の降る中傘さして髪を切りに行ったりあちこちうろついていたのだから、普段見えないものを気にするたちではないのだが。

売店で桜もちや温泉パンなどを買い、外のベンチで三人してかしわ餅を食べ、一息ついて帰ってきた。風のない穏やかな日だったなあ。桜もちは桜酒と一緒にCD棚のお稲荷様に供えてある。

東京電力は当面の計画停電を実施しないと発表したし、おかげでパソコンを弄る暇も出来た。僕は僕の日常へ帰っていく、それでいい。震災から一ヶ月。いま、と打ったら午後2時47分、と変換が出た。少し瞑って、また歩きだそう。

2011年3月27日(日)

前の雑記で茨城の友達と連絡が取れないでいる事をちらりと書いた。先週の木曜にその友達と連絡が取れた事をここに書き留めておく。

Sさんその友達はSさんという。もう六十前後のお歳の方で、友達と書くと少し変に思われるかも知れないが、とにかく大切な人だ。去年の夏に自転車で茨城を旅行したとき海岸で出会って話し込み、そのまま一人暮しの彼の自宅に一晩泊めて戴いた。あのときは美味しい刺身とビールをたらふくご馳走になったなあ。気管支炎をこじらせながらの旅行で、夜中の三時ごろ僕の咳で二人が眠れずにいると、彼は嫌な顔もせず表へ連れて行ってくれた。家から1kmと離れていない海辺で男二人して夜明けが来るのを眺めていたっけ。随分と僕の体の調子を案じてくれた。

彼が暮らしているところはその茨城県高萩市の海辺からすぐそばにあり、あの近辺の港には4mを超える津波が押し寄せたと報道があった。あの夏の日に出会ったときSさんは、仕事が休みの日はよく海辺で過ごしているんだ、海が好きだからね、と語っていた。それを思い出して僕は心配だった。彼は鉄道職員で休みがいつなのか分からなかったし、自宅の電話番号は教えて貰っていたがそれをメモした手帖は部屋のごちゃごちゃのどこかだったからだ。そうこうしているうちに私事で日が経ってしまった。しばらくしてGoogleのGoogle Person Finder (消息情報): 2011 東日本大震災というサービスを見つけたので、それに覚えている限りのSさんの個人情報を入力した。そのすぐあとに手帖が見つかり、夕刻になって電話を掛けた。しばらくしてはっきりした声と繋がった。Sさんは無事だった。会社が混乱していてずっと自宅待機していたという。家の色んな物が痛んだけれども無事何もなく元気でいるよ、と言った。あれから海へ行きましたかと訊ねると行っていないと答えた。まだ危険だからという理由だったが、恐らく気持ちの整理など色々あるのだろう。近況を少し話し合い、落ち着いたらまたおいで、と彼は明るく言った。

海へ行ったことこれで僕の知りうる限りのつながりは全員、無事の確認が取れた事になった。嬉しい事だ。滋賀の友人にこちらの安否を知らせたとき、その人はこの状況下でむやみやたらに連絡する事が躊躇われて心配ばかりしていたと語った。遠方に知り合いのいる関東・東北の方は、まだであれば自分や周りの無事を伝えると良いのではないだろうか。人は互いに何かしら情報があると安心するものだ。それにこんなときは人と人との距離がぐっと縮まるものでもある。こういう事態でこそ誰彼の度量が試されるのだと思う。

そんなわけで、絶賛求職中な僕のコインがどこかで役に立つことを。

2011年3月21日(月)

今日は春分の日。明け方から小糠雨が降っている。

あの地震、東日本大震災や東北地方太平洋沖地震、East Japan Earthquakeなど様々に呼ばれているらしいが、あの3.11から疾うに十日が過ぎた。

Twitterで割かし呟いてしまったし、今、なにかを語るという気分にはあまりなれずにいる。未だに余震は続き、被災地で避難している方々は数十万のオーダーに及び、自宅から百キロやそこら先での原発事故という見えない脅威が暗雲のように立ち込めている。そんな状況の中で社会はいち早く現実へ立ち返り、ネットやテレビ、新聞などの各種メディアが日和見的な安心感を纏った煽りをまき散らし始めている。こんなときはしばらく情報から離れた方が良い。そう思ってこのサイトの配色を変える作業に取りかかった。昔弄っていた別のサイトで得た教訓──Webはスマートな構造であることが望ましい──のお陰で作業は数時間で終わってしまった。大して手の込んだことをやっているわけでもない。散らかりきった部屋の掃除は概ね済んでいるし、今降っている雨にはあまり濡れたくないし、こう揺れていては本を読む気も失せる。壊れた本棚の代わりが届くのはまだまだ先のことだ。なので、特段なんの宛もないのだが、とりあえず気を紛らわす為にお茶を淹れテキストエディタに向かっている。

猫は先ほどからこの部屋のセミハイベッドの上で丸くなって寝ている。あの日は家族が出掛けていたちょうどその時で、地震の第一波が過ぎ去った直後に、僕は火の付いていない煙草をくわえたまま家のどこかで寝ていたはずの猫を探した。僕の呼びかけに洗面台の下であお、あおと鳴いて返した猫をデジ一と一緒に抱え、ガス栓とブレーカーを妙に落ち着きながら落として家を飛び出し、全部で三つの大揺れが収まるまでずっと抱きしめていた。それからだろうか、猫は僕のそばにいることが少し増えたように思う。まあ、僕がいないときは家族にくっ付いているそうだから少し怯えているだけだろうけれども。

外飼いの犬はあのとき、地面が動くことは多少不審に思ったのかも知れないが、しゃがんで頭を撫でてやると尻尾を振りいつものように散歩を要求したので、安心すると共に少々呆れたことを記憶している。しかしすぐあとで自分の掘った穴に引き籠もってしまい、中々出たがろうとはしなかった。もとは野良犬だったから勘が良いだろうかと思っていたが、あいつは自身の第六感もどろんこも同じくらい信頼しているらしかった。家の基礎が剥き出しになるくらいでっかく深く掘った穴だ。たぶん、雨が止んだらしい今も、気が向いては自分が収まる穴を掘っているんだろうか。

あの金曜日の前日に頼んでおいたルピシアのお茶とAmazonのCDは、ちょうど一週間後に届いた。そのお茶を淹れて音楽を聴きながら今を過ごしている。僕が住んでいる家はヒビこそあちこちに入りはしたけれど、倒れるようなことはなかった。いつぞやのモニタの向こうには津波に押し潰された家屋がみっしりと映っていた。僕は自分や僕の家族、殆どの知り合いや友人が怪我も負わず無事だったことに感謝している。その一方で、なにか、なにか後ろめたいものを自分自身に感じずにはいられない。きっと無事にやり過ごした人びとはみな、同じ意識を心のどこかに隠し持っているはず。ネットの一部ではそれを自粛ムードとか何とか呼び出来るだけ敬遠している様子だ。きっとそれが良いのだろう。各々が各々の生活にいち早く戻ることがなによりの復興だからだ。だが、目に見えない幾つかの脅威から抜け出せる日は一体いつになるやら分からない。今こうして先のことを考えながら、のんびりと雑記を書けているのはささやかな幸運だ。

休題。ルピシアのオンラインショップで三千円以上買い物をすると、お茶のカタログと一年間ティーバッグのサンプルが届く。おまけにその買い物で三つ、お茶の試供品が数多くの種類の中から選べる。前回はさくらんぼの香りの日本茶、マンゴーの香りの烏龍茶、桃の紅茶を戴いた。前回というのはそのおまけの美味しさに釣られてフレーバードティーを先日買い足したからだ。有名どころの紅茶はだいたい戴いてみて、紅茶ってこういうものなのかと少し分かりかけてきたところへ毛色の違うお茶たちに出会ってしまい、味覚や嗅覚への欲望と好奇心がむくむくと頭をもたげてきている。色を連想させるお茶や季節を感じさせるお茶、寝起きの朝に飲みたいものやおやすみの前に飲みたいものなど様々に感じられることがあり、自分好みな淹れ方のコツもだんだんに分かるようになってきていて、いつか誰かに淹れてみたいなどと思う。

雨露に濡れたクロッカスこれを書いている途中に昼食を挟んで家族とテレビを眺めていたところ、九日ぶりに救助されたという少年とその祖母の報道が目に入った。僕の心は次第にすれて醒めてきている。放送する方は感動的なドキュメンタリに仕立て上げようと躍起になってるんだろうな、などと考えていた。娯楽の箱の前でお腹いっぱい食べておいて自分の良心が虚しい。

書くこと自体は僕自身の精神の健康なのだが、あまり考えすぎるというのは今は止めた方が良さそうだ。幸い食欲は満たされた。ガソリンなどの燃料は明日から流通の見込みが立ったし、原付にもまだ半分以上入っている。ひとり、茨城県高萩市の友達を除いて、遠方の友人知人らとも安否の確認は取れた。あとは出来るだけ暖かくしてぬいぐるみを愛でているとしよう。初日の夜もでっかいきつねを抱いていたお陰で割合眠れたし、彼ら彼女らとは実に長い付き合いだ。何もかもが不確かで乏しいこの状況、ひとまずぬい達の肌触りの良さは信頼に値する。

春雷らしい。クロッカスが咲くのももうじきだ。

2011年3月1日(火)

紅茶ネタで更新しようと思っているうちに月が変わってしまった。やれやれ。

リーフルのダージリン数ヶ月前から珈琲よりも紅茶を飲むようになったことをここでちらほら書いた記憶があるのだが、ここ一週間かそこらで本当に紅茶は美味しいかも知れないと思い始めた。今、隣の棚には紅茶葉の缶が既に五つもある。マスカテルだのウバだの何たら農園だのファーストフラッシュだのオータムナルだのBOPだのFTGFOPだの、にわかにはまだよく理解し切れていない表記がずらっと並んでいる。

こうなり始めた切っ掛けは二つある。一つはシルバーポットというネットのお店で安くチャイを仕入れようと思ったときに、ついでだからちょこっとだけ他の茶葉も買ってみようと思ったこと。もう一つは僕がごく個人的に応援している絵描きさん(サイトはこちら、所謂ケモノ絵メインなので苦手な人は注意)が久しぶりにpixivではなく自サイトを更新されて、そこのコンテンツに紅茶に関する紹介を載せていらしたこと。この二つだ。

ちょっと話がずれるが、初めシルバーポットから届いたマサラチャイには、胡椒とスターアニス・バニラが入っていなかった。そこでそこいらの店で買ってきた黒胡椒の実とその粗挽き・ハーブティーのペパーミントを適度に袋で混ぜて淹れてみたところ、中々美味しいじゃないかという結果になった。あとはアニスとバニラビーンズだが、これはブレンドする量としては少々お高いのではないかと思って躊躇している。まあ一缶50gやそこらで二千円する茶葉を幾つか大した躊躇いもなく買ってしまったのだから、どうとでもなってしまえとも思う。

話を戻す。シルバーポットで試しに購入したダージリンが気に入った、までは良かった。上記の紅茶のコンテンツを読み進めるうちに「もっと美味しい紅茶があるのだろうか」と考え始めてしまったのである。どうやらダージリンには季節ごとの違いや栽培農園の違いなど色々あるらしい。欲望に忠実であれ、という脳内のささやきのままに、気がつけば幾つかの紅茶葉を専門に扱っているお店、シルバーポットや紅茶舗 葉々屋リーフルダージリンハウスオンラインルピシアからパッケージやら缶やらが届いていた、という次第である。

以下、それぞれの紅茶を淹れ比べてみた感想。僕は紅茶に関してはにわかの素人なのであまり詳細なことは書きたくないのだが、これから先、もっと紅茶に詳しくなって舌も肥えてきて、本当に紅茶が好きなのだと言えるようになった時、そんな過去もあったなと振り返る為のメモとして書き記しておく。……余計なことだが、下手に知恵が付いたので覚えるために。以下に記す(S)FTGFOPというのはオレンジペコー(OP)のランクのこと。FTGFOPと書かれているのはオレンジペコーの分類の中でも「ファイン」で「ティーピー」で「ゴールデン・フラワリー」、要するに良いトコだけを選りすぐった葉っぱ、のこと。

条件は各茶葉ともスプーン大盛り二杯(7~8gほど)、お湯は近所の地下水脈から汲み上げられている水道水を沸かしたもの約350cc、抽出時間は5~6分。時間を計るのには3分と5分の砂時計を使った。一度淹れてみてからさらにもう一度自分に合っていそうな条件に微調整をしている。ダージリンの春・夏・秋摘み・ウバと順番に味わってみた感想。

  • ダージリン 2010年 1stフラッシュ プッタボン茶園 SFTGFOP1 DJ-14 ClonalQueen
    • なんだか紅茶らしくない……。水色(すいしき)は萌葱と褐色を混ぜ薄めたような感じ。茶葉はうぶ毛がたくさん生えていて、出し殻は鮮やかな若草色。全体的に「青い」なあ、と感じた。詩的なのは結構だが他に表現が見つからないのだから仕方がない。後述する茶葉と比べて渋みはあまり感じなかった。
  • ダージリン 2010年 2ndフラッシュ セリンボン茶園 FTGFOP1 FieryMuscatel
  • ダージリン 2010年 2ndフラッシュ オカイティ農園 FTGFOP1 DJ-94 MuscatelDelight
    • 農園の違いは今の時点では分からなかったが、他のシーズンと比べると明らかに、これは自分のイメージする紅茶らしさだ、という味がした。甘い香り、これはマスカテルフレーバーと言うのか。言われてみれば果物の香りに似ているかも。お茶の渋みがしっかりあり、他のものより爽やかで香ばしい印象。好みかも知れない。水色は何というか、紅茶色そのもの。
  • ダージリン 2010年 オータムナル キャッスルトン農園 FTGFOP1 DJ-375 SpecialChina
  • ダージリン 2010年 オータムナル ナムリン農園(Upper) FTGFOP1 EX-581
    • 春摘みと夏摘みの違いは割合明確だったが、夏摘み(2ndフラッシュ)と秋摘み(オータムナル、ダージリン地方での雪が降る少し前)の差はそこまでではない感じ。渋みは夏摘みよりは穏やかで、全体的にまろやかだと思う。秋という呼称に印象を惑わされている部分はあるかも知れない。構えて味わうより、気張らずのんびり飲みたい雰囲気。
  • ウバ 2010年 8月摘み ウヴァハイランズ農園 BOP VintageUva
    • これは初め、蒸らす時間を間違った。BOP(Broken Orange Pekoe)という品で茶葉が細かく、添付の淹れ方説明に三分ほどとあるのを上記のダージリンと同じ要領で倍の時間蒸らしてしまった。あれは少々苦過ぎたな。淹れ直してもう一度ポットの湯気から香りを嗅いでみると、花のような、上品な香水のような甘い匂いがした。本当。あまり嗅覚の良くない(五感がおしなべて良くない)僕がそう感じたのだから、普通の人ならとても香り高いと感じるはず。果物の匂いとはまた違う甘さ。渋みは一回目の抽出より確実に和らいでいたはず(二回目は三分ちょうど)だが、それでもダージリンの2ndフラッシュやオータムナル(このときは六分だった)くらいはあった。美味しいと感じるにはある程度慣れが必要かも。蒸らす時間をもっと短くして香りをメインで楽しむように淹れると良いのだろうか。

……と、それぞれの紅茶の第一印象はこのようになった。決して気取るつもりでは無いことを、これを読む人がいたら了解して頂きたく思う。それと用語を調べている途中で、他者の主観の混じった感想に僕自身の感じた印象がどの程度影響されているか、その辺はきっと分からない。それでも自分で香りや味わいを楽しむぶんには構わないと思う。珈琲を飲まなくなって代わりに紅茶を入れるようになり数ヶ月経つが、何となくコーヒーメーカーで淹れていたのとは変わって、より美味しい紅茶を淹れる過程での試行錯誤が結構楽しい。上で挙げた絵描きさんのコンテンツに「紅茶のしぶみを楽しむにはある程度の慣れが必要で」「大人になると舌も変わる」「当初は苦いだけだったが戴くうちに楽しみ方が分かってきて」という旨のことが書いてあった。好きこそものの何とやら、ということだろう。僕は現在、紅茶もどうやら好きになりそうでいる。

そして、休題。

僕は以前去年の冬に、あるお気に入りの音楽を静止動画に編集してYouTubeへ投稿した。そして今年になりポケデジSQ30mを手に入れ、たまにその動画撮影機能を利用するようになった。そういうわけでこれはそのお気に入りを出しにした、今後YouTubeに上げるかも知れない動画を貼るための練習。良かったら聴いてみて欲しい。僕はこの音楽を珈琲や紅茶と同じ嗜好品として聴いている。たまに聴く事でより、実に味わい深い曲だなあと感じるのだ。音楽は人並みには聴いてきたつもりで、この「bayaka – Amanece(2003 ode music production remix)」は今の時点で僕の中での評価は一番か二番目のもの。これから先、より佳い曲に出会っても、この音楽の輝きが衰えることはきっと無いに違いない。

bayaka – Amanece(2003 ode music production remix)

2011年2月10日(木)

SQ30mに取り付けた魚眼レンズ「K-180」携帯電話用レンズ「トダ精光『マグネットマウント』シリーズ」ポケデジ「SQ30m」に取り付けてみた。

各種レンズ今使っているスマートフォンWILLCOM 03にぶら下げていたトダ精光の携帯レンズがトイデジにも使えるのではと思いついたので、余っていたマウント用リングをSQ30mのレンズ面に貼り付けたところ、上手くぴったり張り付いた。携帯レンズにはマウント用リングが二種類が付属していて、大きい方は内径9mm外径15mm、小さい方は内8mmの外13mmだ。今回は何となく接着力がありそうな大きい方を貼り付けたが、もちろん装着するレンズはリングが大小どちらでも構わない。ただ、どうやらSQ30mには大きいリングの方がしっくり来る感じではある。

望遠レンズK-501(2.0倍角) ノーマルで撮った部屋の本棚 ワイドレンズK-701(0.5倍広角) 魚眼レンズK-180(0.2倍広角)手持ちのレンズで撮ってみた距離感の違い。左から、望遠レンズK-501(2.0倍望遠)、ノーマル(標準撮影)、ワイドレンズK-701(0.5倍広角)、魚眼レンズK-180(0.2倍広角/180度)。写っている部屋が汚い事についてはご勘弁を。左三つの写真は中央の何も取り付けないで撮ったものと大きな差はないが、魚眼レンズで撮った写真は極端なほど広々とした写りである。みっともないところまで写っていて、これでも部屋は片付けた方だ。恥ずかしい。

SQ30mのノーマル撮影と魚眼レンズK-180装着時での写り具合の違いを更に比較。それぞれで二枚とも、撮った時の立ち位置は違っていない。瓶ジャムの棚 魚眼レンズK-180装着時 ドラッグストア 魚眼レンズK-180装着時 駐車場 魚眼レンズK-180装着時駐車場の写真など遠近が極端に強調されているが、それが魚眼レンズの味なのだろう。先日の雑記でPENTAXのデジ一用の魚眼レンズを使ってみたいと書いたが、これでは使う機会がほとんど無いかも知れない。ただ、上級デジ一機があれば夜空の星の巡りを撮る時などにちょうど良いのではないか。詳しいことは各種レビューを見てないから分からないが、天空の星々を一枚の写真に収めたい時、周囲に遮る物がないのなら、極論魚眼のような超広角レンズが撮影には向いているはずだと思う。

今手元にある四つのレンズのうちマクロレンズK-400(4.0倍接写)はSQ30mでは扱いが難しい。装着して撮ってみると分かるが、ピントが上手く合わないのだ。SQ30mには接写モードがあり、このマクロレンズを付けて撮る場合は接写/ノーマルどちらでも写りに大差はない様子。上手くピントが合うのは4~5cmほどまでレンズを近づけて撮った時だ。

メーター マクロレンズK-400装着時(接写モード) チーズのぬいぐるみ マクロレンズK-400装着時(接写モード)SQ30mの接写モード撮影とマクロレンズK-400装着時(接写モード)での写り具合の違い。このマクロレンズK-400、トダ精光の製品紹介ページに書いてあるとおり、虫眼鏡的な使い方が少なくともSQ30mでは正しいらしい。焦点(ピント)が合う距離は自分で探すしかないわけだ。

僕がこの「マグネットマウント」のレンズを買ったのはもともと、WILLCOM 03 WS020SHの内蔵カメラに不満があったからで、ワイドレンズK-701などは普通の風景写真を撮る時心持ち広角で写せるので重宝している。魚眼レンズK-180とマクロレンズK-400の使い心地は微妙なところだ。使い時をその時々で判断する必要がある。望遠レンズK-501はこの場合器用貧乏な感じもする……近づいて撮りたい時のためにSQ30mには接写モードがあるわけで。ワイドレンズと併用するから別段構わないのだけれど。Amazonで売っている「トダ精光 ケ-タイレンズ」シリーズはコンデジやデジ一のレンズに比べれば格段に手頃な価格で購入出来、製品仕様は光学ガラスにアルミボディのmade in Japanという出で立ちなので、「手軽に本格的レンズを使って撮影してみたい」という方はこの辺りから始めてみるのも良いかも知れない。

余談になるが、僕のWILLCOM 03は大容量バッテリーを装備しているので、カメラのレンズの縁すぐそばにバッテリーカバーの出っ張りがある。マウント用リングの大きい方ではそれに引っかかってしまうため、径の違うリングを付属してくれたはからいには気をよくしている。トイデジにも色々あるだろうし、場合によってはレンズ付属の小さいリングでもはみ出してしまうかも知れない。そういう場合はねじを締める時使う平ワッシャーの小さいのをホームセンターで買ってきて接着してみるのが一番良いと思う。アルミ製は磁力でくっ付かないので、ステンレス製のものを探せばいいわけだが、ま、探せばあるだろう。

2011年2月6日(日)

二週間ぶりの更新になるか。義務に駆られてするものではないし、まだ気力に欠けているので手短に。

ここ二週間ほどだらだらと紅茶を飲み、夜になれば星を眺めたり、Twitterにボトルメールを流したりしていた。

アルコールランプ紅茶はフォションのチャイが美味しい。しかしコーヒーより割高だ。最近はコーヒー豆の相場価格が高沸しているらしいが、それでも高い。店頭で買うからそうなのであって、ネットの直輸入サイトを探せばいいのだが、とにかく美味しいものは譲れない。ハーブティーなどは手持ちの薬草辞典を頼りに少しずつ開拓している最中。マローブルーはあまり好みではなかった。

今使っているティーポットはカップ二杯分あり、淹れ立てを飲んでいるとポットの方が冷めてしまう。なので、小さい頃凝っていた化学の実験セットからアルコールランプを引き出して暖めるのに使っている。が、これがえらく油を食う。好きな時お茶を飲みたい、その好きな時には常に熱くなくてはならない、これを両立するとランプに火が付いたままの放置、となるので致し方はない。油にも種類があり、消毒用エタノールから工業アルコール、アロマ用の香りやら炎色付きのオイルなど色々ある。個人的には炎色付きオイルを安い工業アルコールで薄めて使ってみたいのだが、果たして混ざるものはあるだろうか。

おおぐま座周辺の星空夜空を見ていて覚えたのは北極星の見つけ方とおおぐま座の星の結び方である。北斗七星の柄杓の頭の二つ星を線で結んで延長していくと北極星がある。また、カシオペヤ座を二等辺三角形にすぼめて行くと先の線と交差して天の北を指す。北極星は確か二等星なので少々目立たない。おおぐま座の尻尾である北斗七星の柄の方にはアルコルとミザールがあり、これは見かけの二重星であるらしいのだが、僕の目が悪いのか、星が二つあるようには見えない。古代のギリシャだかどこだかでは目の良い兵士を選り分けるために、この二重星の陰のミザールを使っていたという話だ。この逸話は去年の秋にプラネタリウムで観た知識の受け売りではあるけれど、十分役に立っている。広角レンズ「PENTAX smc PENTAX-DA 15mm ED AL Limited」で撮った写真をレタッチソフトで加工しすると星が眩く浮かび上がる。僕の使っているデジ一「PENTAX K200D ver.1.00」は初心者用の入門機であり、まあ今の僕にはこれくらいでちょうど良いのだが、長時間露出撮影には向いていない(1/3000~30秒が限度)ので星が弧を描いて天空を巡る様子は撮れないでいる。上級機も欲しいことは欲しいし、魚眼レンズというのも使ってみたい。差し当たってこのデジ一での写真撮影に困る点は見当たらないし、魚眼レンズは手持ちのスマートフォン(WILLCOM 03 WS020SH)で実践済みなので、まあ良いだろうと思っている。

TwitterのボトルメールというのはこちらBottleTwit – つぶやきの海にボトルメールを流すの事だ。BottleTwitの仕組みは瓶の幾らかをサーバーにしまっておき、新しい瓶が出来た時に古い瓶から順に押し出され漂流して行くものらしい。だから瓶を流しても、誰か(若しくは自分)が一定数上書きしてくれないと自分の瓶はいつまで経っても流れていかない。BottleTwitのサービス開始日は2010/04/07らしくまだ一年も経っていないので、現時点では瓶が流れ出すのに大凡二、三日かかっている模様。もっと沢山の人が利用するようになると良いなあと思ったのでここに書き留めておく。

昨日は先の青空市へ行ってきた。前より人が多かったのはここしばらくお天気がよかったからだろうか。トイデジ「SQ30m」で色々冷やかしているとよく声を掛けられた。その小っこいのがカメラなのかい? という訳である。前に欲しかったもののH-IIB打ち上げ中継のため諦めた品、ぬいぐるみのあの猫を探して回った。化け猫アイコンメーカーのあの猫みたいな、といっても分からないのは当たり前なので、売り子の奥さんに「こんな目の形した灰色の寝転んでる猫」と説明して探して貰ったりはしたが、結局自分で見つけた。聞くところによるとこの猫、「チーズスイートホーム」という漫画・アニメのキャラクターであるらしい。後で自宅に帰ってからググるとまん丸に目を見開いたかわいらしい猫のイメージ画像が沢山出てきた。ただ、僕が気に入ったのはぬいぐるみの下弦の月な目付きの方である。

街灯と空 将棋の駒 ブッダなのか ミル 昔の看板 お多福 洗濯バサミ 二煎茶、与一の郷 大田原とうがらしソース 白梅 ネコヤナギ 大田原産コシヒカリ2000円 味噌と練り合わせてご飯に チーズスイートホーム 青空市の雑踏 まめだぬき……? 古銭コレクション ウミガメの子 公衆電話 ゆうびん 普通の石ころに見えたのですよ。

自宅に帰ってSQ30mで撮った写真を整理していて、あの市のあちこちで撮った貴石の写真がお日さまの下で見たのとでは違っていることに気付いた。確か貴石には太陽光と蛍光灯とで変色効果を持つアレキサンドライトAlexandriteや、観察する角度で二色性を持つダイクロアイトDichroiteなどがあるのは図鑑で見て知っているが、無色透明な水晶も撮る角度や光の加減で群青の青に写ったり紺碧の緑や茶色の縞が写っている。デジタルな機械の目と人間のそれとの違いについてなど初めて知った。記憶違いでなければデジ一のレンズフィルタには偏光する類のものがあったはず。あれを使ったらどう映るだろう。

手短に書くと書いたが長ったらしくなってしまった。書くことそのものは僕の精神の健康でもあるので別段困らない。ただ簡潔にまとめる才があれば困らないだろうにと考えている。この雑記日記たちはそれなりに簡潔でもないし大して冗長でもない。ま、良いだろう。

2011年1月22日(土)

今日は風もなく穏やかな日和だった。あちこち出掛けて道の駅那須与一の郷│栃木県大田原市のフリーマーケットを覗いてきた。帰宅後JAXAのサイトからH-IIBとHTV2の打ち上げlive中継を見る。

三羽のアヒル SkyHigh あしあと? 車庫

道の駅那須与一の郷│栃木県大田原市では、土曜日と日曜日の日中、広場で青空市というかフリーマーケットが開かれている。市に出されているものは様々で、骨董品、陶器や花瓶に置物、貴石やアクセサリ、古着、風水と姓名判断などなど、およそ「好きだからやっている」と呼べる出し物が居並んでいる。

まだ名無しの二人この道の駅は家に帰る途中たまたま通りかかったのだが、そういえば土日はフリマやってるんだった、と思い出して立ち寄った。初めは冷やかすだけのつもりがぬいぐるみを大々的に市に出しているところに出くわしてしまい、終始にやつきながら好ましいものを物色し、結局店の主にもオススメされたウサギを七百円×二人分、百円おまけの千三百円で譲って貰った。主の話によればこのウサギたちは初め真っ白ウサギを含めたトリオだったらしい。午前の間にその白ウサギだけ売れてしまい、残ったのが彼らなのだそうだ。三人組で揃えられなかったのが非常に残念だが、まあいいや。気に入った。

午後二時半ごろに行われるロケットの打ち上げ中継を見たかったので、丹念に他のぬいぐるみを探すのを諦めて家に帰ってきた。どのみちフリマは明日も開かれるはずだし、それが駄目なら一週間後だって、のんびり気長に矯めつ眇めつ見ていけばいい。

木彫りの母と子 招き猫のタグ 重たい木の化石 尾っぽを立てろ トンボ玉 ガラスの梟 青空市の或る風景 居並ぶぬい達

こうのとり2号機(HTV)とH-IIBロケット2号機の打ち上げ中継は数十分ほど前からネット配信で見ていて、エンジンとブースターに点火したかと思う暇もなくリフトオフし一瞬で空の向こうへ上っていった。プレスリリースによればHTVはこの後五日ほど掛けてISSとドッキングする計画との事。僕は以前、ISSとシャトルがランデブーしている最中の写真を撮った事があり、条件がよい夕刻ならば肉眼でもISSが天空を駆け抜けていく様子が観察出来るので、興味がお有りの方はJAXA 国際宇宙ステーションを見ようのページから情報をたぐってみると良いかも知れない。

2011年1月21日(金)

SQ30m部屋の掃除と本棚の整理に掛かりっきり。

七年ほど前から購読しているNATIONAL GEOGRAPHIC 日本版がそろそろ本棚を圧迫し始めた。付録のごちゃごちゃとした小雑誌を捨てればあと二年半は保つのだろうが、こういうときに思い切って捨てられないのが自分の駄目なところだ。そもそも捨てきれずにいる小雑誌にしたって、別の棚に移し替えればいいのだし。

それよりも、昨年の秋から年末にかけて買い込んだ中古本の類が呆れるほどの積ん読の山となっていて、数ヶ月近く放置していた自分にも呆れた。冬の寒さに引き籠もりがちになる事を予想して買い込んだのはいいが、今日のように思い立って整理整頓と読了を心がけていかないと部屋に足の踏み場もなくなる。以前書いたような気がするが、僕は収集癖持ちであり、その対象にはもちろん本や雑誌も含まれている。知る事と集める事を両立して満足させてくれる本に対して、僕は割合な愛情を抱いている。だから手放せない。以前Webのどこかで「書棚の育て方」という短編SFを読んだ記憶があり、いつかああいう書棚が欲しいなあと思う。

昨日、POCKET DIGITAL CAMERA “SQ30m”というトイデジを買った。

トイカメラと言えばHOLGAだが、僕は飽くまでおもちゃという性質にこだわってこのトイデジを選んだ。シャッターを押してから撮影まで数秒掛かる点が難だが、このトイデジは至ってコンパクトでシンプルだ。撮影モードにノイズやモノクロ、ビビッドといった選択肢があるのも遊び心を刺激してくれる。

魔女宅のジジ 犬のエリー ナショジオ

撮像素子195万画素というのは十数年以上前のデジカメと同じ程度の数字だ。その辺は割り切って使おうと思う。

2011年1月17日(月)

あれこれ思うが言葉にならない。

落丁の多い記憶
過去にいつかどこかで起きた出来事が、抄った砂が手のひらから零れ落ちるように頭から抜け落ちているのを近頃よく感じる。例えるならドーナツの真ん中に穴が空いていると認識しているような状態で、食べ終えてしまえばその穴さえ虚空へ消えてしまう。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。きっと、気張って過去なんか背負わなくても、どうしようもない昨日を笑って不確かな明日を信じて過ごせるなら、いつか訪れる断絶の時を怖れずに受け入れつつやっていけるなら、様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残せるなら。それは決して空ろな一幕劇なんかではなかったと言えるはず、それなのに。
ひとりで在ること
学生の頃、所属していた経済研究サークルの同期の子から「君はとても鋭い」と言う風なことを言われた事がある。「人をとてもよく見ているね、でも自分もそんな風に見られているのかと思うと少し怖い」とも言われた。当時それが少し悲しかった。無意識のうちにコミュニティの輪から一歩退いた場所にいる自分を否応なしに認識させられた上に、悪意のないいささかの畏怖を纏った拒絶を感じたからだ。仲間と交わす議論は面白かったけれど、そんな輪の内で時折気付かされる孤独ってのは、雑踏の中でふと立ち止まる瞬間のように寂しい。いつしか僕は少しずつ同期達と距離を置くようになり、とうとう何も言い残さずにサークルと大学を去った。あの時分に感じていた孤独とは何だったのだろうと今でもたまに考える。
『……そのころぼくは二十歳だった。二十歳は退屈な年だ。若いというのはすくなく、苦く、うつろなことだ。その年で生きているのが楽しいという人間を、僕は信用しない。……』娼年(石田衣良 著)
一体、あの寂しさや空しさは若さにありがちなただの感傷だったのか。まさか僕はおセンチな煽りなどのために幾度も死にかけ彼岸を見たのだろうか。何れにせよ月日は瞬く間に流れ去り、現在の僕は程よい孤独に存外の居心地の良さを見出して、遠くなってしまった彼らの背中を時々振り返る。
若さの特権
mixiの出来婚バツイチなマイミクさんが、恋がしたい、とか、誰かと暮らしたくなっちゃった、とか、次の彼氏のスペック*女性向け診断なんて書き連ねている日記を読むにつけ、彼女の元旦那が引き取っていったという赤子の将来を案じてみたりするなど下世話な話で。
甘い水、辛い水
先日、死にたがってばかりの友人を突き放して批判した。僕は、親友ならば時として必要に応じ手厳しく接する事もあるのが健全な付き合い方だと思っている。けれどもそんな僕の声は鬱屈し過ぎた彼の耳には届いていないらしい。都合の良い馴れ合いや自棄っぱちの煽り合いは忽ち人を腐らせる。死にたいなら誰からも忘れ去られてからにしてくれと率直に言えない僕は甘いだろうか。そもそも僕に他者を批判する資格なんてあるのか。人はそれぞれ、なんて体のいい言葉に逃げるつもりはないけれど、彼が僕の言葉を受け入れないのならばそれも彼の在り方だし、少なくとも僕は僕自身の持つ善意好意義憤から彼に接したつもりで、そこには十分に確かな理解や道理などが欠けていたかも知れない。「人の友たるものは、推察と沈黙の、熟達者でなければならぬ」。ともかく生きていてくれ、いつか時が癒してくれるさ、なんて陳腐で残酷な神頼み。悲しいかな、沙漠を内に蔵する者は。人づてに頼まれてもいるけれど僕だけの力じゃもうどうにもならない。
昨今の視聴者の現実離れ
毎回必ず人が殺される刑事ドラマを見るのが楽しみな母の心の健康を密かに疑い始めた今日この頃。
何を見てもそればかり思い出す
ちょうど一ヶ月後が父の十三回忌にあたる事を思い出した。父は社労士を兼業する技術者であると共に君子蘭の栽培と品種改良に関するセミプロで、名もない新品種を幾つか遺し癌で逝った。その影響で僕は一頃、農学の道へ進んで雪割草の専門家になりたいと夢見ていた時期がある。昨年の盆、父の学生時代の友人が墓参りにやってきて、彼らが若かった頃の思い出話に花が咲いた。故人を忘れずにいてくれる人がいる。ありがたい事だ。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。父が二十年以上昔に興した会社も平成不況の波に攫われながらニッチな需要に活路を見出し今でも何とか存えている。様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残して去った父は最期まで偉大だった。この時期の、肌寒く静かで眠れぬ今日のような夜に、あの頃の事ばかり思い出そうとしている自分がいる。
愛情の天秤
『セルロイドの人形に魂が入る事だってあるんだぜ? まして奴は脳医学用のデバイスを詰め込めるだけ詰め込んでるんだ。魂が宿ったって不思議はねぇさ』(攻殻機動隊 -GHOST IN THE SHELL-)
世の中のおそらく大多数の人々が彼らの家族や伴侶や仲間を大切に思うように、或いは養っている生きものを慈しむように、はたまた手間暇掛けた車やバイクに夢中になるように、それらと同じ重さで僕はただ、でっかいアクリルと綿のかたまり達を心あるものとして愛でているだけなのに。美少女フィギュアとやらに萌える事がもはやステータス化されようかという現代に於いて、片やぬいぐるみを抱かぬと眠れぬ厄年男の僕は馬鹿だ幼稚だ金の無駄遣いだと侮蔑されている。納得し難い。我が家とこの国の正義は一体これからどこへ向かうのだろうか。
それらはきっと等しく正しい
「欠落や喪失を糧としてしか創作ができない人種というのはいて、私もその類の人間です。」
「喪失を原動力にしている人間には何も期待してはいけない。どこまでも空っぽの思い出しか持っていないから。」
互いに面識のない、質の高い文章を書く物書き同士のこのように見事な意見の齟齬を見掛けて、僕は何かを喪失した事はあっただろうかと少し考え、ああ、喪失した事自体を喪失しているらしいからどうしようもないよねという割合楽観的な結論に達した。
唖の鴎はさまよいつづける
初め、このサイトを含めたWeb上での立ち居振る舞いに際して、はなからご大層な主義主張や動機などは持ち合わせていなかった。ただ、自分自身の存在の軌跡を確認出来て、その上で一握りの見知らぬ他者にそれを幾らかでも知って貰えたなら、そういうごく僅かな願望からWebの各種コミュニティに属している、というのはおそらく正しい。僕は少々退屈な僕だけに許された人生の暇潰しに耽っているばかりだから、残念ながらそれらはきっと「あなた」にとっては何の娯楽にもなりえないだろう。僕が自分の欲求に素直になればなるほどに、それらはより退屈で無感動で誠実さに欠けた見苦しいだけのものとなる、そんな確信めいたものがある。座右の銘の「欲望に忠実であれ」とはつまりそういう事だ。随分と身勝手で体の良い願望だと思っている。でも、「あなた」に迷惑を掛けるような事だけはきっと無いから、あったとしてもほんの僅かな間「あなた」の意識の隅っこを小川の朽ち葉のように流れ去っていくだけで、僕もそれで十分満足するし、どうか気に留めずに頂ければと思う。所詮は唖の鴎。沖をさまよい何を待つやら、けれども無言で、さまよいつづける。それだけの事。僕はいつでもどこでも何かしら、ささやかな希望を胸に待ち続けている。