ぼんやり過ごすうちあっという間に過ぎた日。認知負荷以外の疲れる原因で思い当たったのは「過度にじぶんを問題視する視点」。回復ができていないとか、愛着の傷を手当てする必要があるとか、駄目出ししすぎるからただ休ませるべきとか、それからこうした毎夜の内省とかね。いまのじぶんにいったん満足してみたら、という主治医の言葉でそのように方針を採ったわけだけれど、腹落ちしていなかったかもしれない。とりあえずじぶんは疾患に折り合いをつけ、日常を取り戻した。ほんとうに深刻な問題はただひとつそれだけだったとも言えるし、それはもう解決できたのだと言ってもいい。変えなければと思っている箇所は必須でなければ〆切もなく、オプション。ひとまずリカバリーしこの水準にくるのは単純に大変なことだったよ、到達という言葉をここで出してもいい。愛着とかつねに新たな問題解決に取り組みたがるけれど、疾患ひとつに絞ってみればたいへんよい感じに寛解しており、さまざまな患者さんを診ている主治医視点だと現状維持ができればなにも言うことはない、くらいであろ。いまのじぶんはなにも問題ないんだよ。いまとこれからのことをすきに考え、決めていく自由もある。ひとまずじぶんは満足のいく仕上がりになっている。そのままなにもしなくていいし、好き勝手にだらだら過ごしていい。……それで、どうだろ? 「回復ができていない」「愛着の傷を手当てする必要がある」と、「いまのじぶんはなにも問題ない」「満足のいく仕上がりになっている」「そのままなにもしなくていい」とでは、疲れの軽重に違いを感じそうなのは確か。であれば、自己に突きつけている課題はいったん置いてみる。課題を抱える自己ではなく、満たされている自己として捉える。いまふと思ったのだけれど、自身が満たされている存在だということを理解できるとしたら、それは救われているというような表現になるなにかなのだろう。満たされている自己という捉え方はきっと大切。ひとりでいることが豊穣の野であるくらいに内側を潤すことに余念はなかったでしょ。こうした捉え方を踏まえ、冒頭の「過度にじぶんを問題視する視点」から「満たされているじぶんを味わう視点」へと方向転換してお気楽に過ごしてみる。たったいまの肌感で、でも問題を手放してしまうのはすこし怖い、つねに問題解決に取り組み悩んでいないとなんか不安な感じ、というのがあった。これがじぶん自身の甘えたさ、甘やかしてあげたさを制限している観念では。いったんじぶんを好きなだけ甘やかすこと、それで満足することでようやく内発性や主体性が立ち上がってくること、回復したければその経路を通る必要があること、そうしたことを前提にするわけなので、いったん手放してみることが解決や回復へ続く道だということを怖れずに受け入れる必要がある。もう必死にならなくても安全なんだよ、ってこと。それで、満たされているじぶんをどのように味わうか、が肝心なテーマになるのだけれど、もうあたまがふわふわしていてなにを書いているのか分からなくなってきた。ひと息ついたらおふとんへいこう。それと散歩でよいから運動をしよう。現状の突破口は見えており、散歩なんだ。おやぷみ。
