2022年5月21日(土)

果物市場を覗いたり、知らない道を原付でのんびり走ったり、ほか買い物など。午後からは雷二つとそれに続く驟雨がきた。生い茂る緑に沈むようにして佇むアパートを住宅地の外れに見かけ、ここは誰か住んでいるのかなと考えながらそばを通り過ぎたのだけれど、あとから思い返してしまうくらいに建物の雰囲気がよかった。管理されてはいないにしても、ああした植物に囲まれた物件にもし春夏だけ住めたら、木陰や葉擦れの音が心地よさそうだ。こうして振り返っていると、きょうは曇天ではあったものの風光る日だったのかなと思う。いろんなものが心地よく印象深く感じられた日だった。ここを検索したら去年の4月23日が似たような日。ペーパーウェル08に参加してみた。

2022年5月18日(水)

午前中は用事を済ませるためにあっちやこっちへ。昼からは面談。夕方、疲れて少し眠ってしまった。このごろしんどい気分が慢性的に漂っている。開放された場所をふらふらすることとか、あるいはだらっと過ごすとか、そんなのをしてもよいかも。もうのんびりする。

2022年5月17日(火)

ここしばらくで撮った写真はLrのライブラリへ読み込ませたまま、RAW現像が手つかずになっている。時間と気持ちにもっとゆとりがあれば現像に向かえるのだけれど。音楽ライブラリを拡充したくて、年代別名盤リストみたいな記事を参考に中古CDを漁っている。あしたは面談があるから早めに眠るべし。

2022年5月15日(日)

ベッドのなかでぼんやり過ごした日。そろそろ日付は変わることだし、あしたのために休むがよい。吉田篤弘×フジモトマサル『という、はなし』のなかに「日曜日の終わりに」という短編があり、一週間の繰り返しのうちにある憂いと再生が、日曜の夜の台所でさらっと触れられる。まるで水平線のかなたにきらりと輝くなにかのように、染みこむうるおいを持って。フジモトマサル氏が2015年に亡くなられていたことをさっき検索して知った。

2022年5月11日(水)

自分が同人やインディーズ系の音楽を好きなのはなぜか、たまに考える。ネットへアクセスし始めた思春期に触れやすかったのが、見知らぬ誰かがホームページで配布するMIDIやMP3だった、というのが大きいかなと思う。そのころアマチュアの音楽制作者が集って作品を公開していたmusieというサイトで、自分は聴き専としてあれこれダウンロードさせてもらい、そうして手に入れたMP3のかなりな数をいまもこよなく愛している。エレクトロニカや打ち込み系があいかわらず好きなのも、三つ子の魂百までというやつなのはたしかなのだけれど、もう少し掘り下げてみるとこうではと思い当たるものもある。自分は手作り感や不揃い感に惹かれるんじゃないだろうか。光り輝く宝石であれば持つことのない、鉱物が宿す複雑な滋味やいびつさ、こうしたものに(も)魅力を感じるんだと思う。これを言い換えるとしたら、誰もが好むような商業ベースの作品と比べてより制作者の一部分であると感じられること、作り手との距離の近さ、だろうか。少し逸れるけれど、個人的な植物の好みは花壇のお友達といった草花より、雑草と呼ばれる種族に傾いている。そんなことも含めると、自分が手を伸ばしやすい基準みたいなものは、距離を感じる/純粋さや完成されたものより、身近/雑然とした手触りを持つ側寄り、になるのかな……。雑然としていることが含む豊かさには驚きや思いがけなさが隠されていると思う。あ、驚きを求めているのかもしれない。驚きや思いがけなさに出会いたいなら、メインストリームから少し外れて辺縁を渉猟してみることは有効だから、そうしたお宝探しをするような傾向が音楽では同人やインディーズ系の作品へと向けられているのかも。頭がぼーっとしたままでまとまりもなく書き出してみたら、以前よりはしっくりくる理由が見つかった。きょうはこのへんで切り上げ。