雪がちらつく日。二週間後には立春が控えているから、この寒さの底をなんとかやり過ごそう。
2022年1月19日(水)
面談へ。スポーツ会への参加は(第6波のため)キャンセルしつつ、職業適性検査の結果を聞いた。机に向かう系や教育・対人支援職に適性がある一方、手先の器用さについては心もとないため、早さよりも自分のペースで取り組める作業の方がよいのでは、という結果だった。職場でのコミュニケーションにも特に問題はなさそうだということが結果に書かれており、おお……と思う。研究職や言葉/文章方面は僕自身も関心がある分野だったから、認知機能やワーキングメモリーには難があるとしても、やってやれないことはないくらいのレンジにあるのかなと思う。形態のスコアがE/Dのわりには写真を趣味にしていることだし、職員さんがおっしゃったように、これはたんにテストの診断結果なんだね。こうした結果が返ってきたことで、やれそうならやってみようか、みたいな意欲が湧いてきそうに思う。ほかの職員さんからは、仕事にはおおむね適応できるだろうけれど、手を抜くところと力を入れるところのさじ加減が難しかったり、ストレスを抱え込んで調子を崩したりするかも、そのへんのバランスが課題になりそうだ、ということを言っていただいた。なにかにつけ痛感している箇所なだけに、それが自分の課題になってくるのだなー。正月に引いたおみくじにも書かれていたことだけれど、少しずつ着実に外堀を埋めて、必要なものを身につけて復帰しような。
2022年1月18日(火)
ISSの夕方のパスを見た。あしたは絶好の条件だけれど、予報では曇りになりそうだ。めずらしく唇が荒れている。
2022年1月17日(月)
なにごともなく過ぎ去りし日。
2022年1月16日(日)
玉藻稲荷や産直、河原、乃木神社周辺なんかをうろうろして、買い物を済ませて帰途。やっぱり、四方と頭上が開けただだっ広い場所をうろうろするだけでも、気持ちの凝りや淀みはほぐせる。水路の流れと水草を撮りながら、季節には本流のほかにさまざまな支流や細流があるのだろうと思った。
2022年1月15日(土)
部屋の片付けをしたり、鉢植えいくつかを整枝したり。ちょっと胃が気持ち悪いからベッドへ行ってしまおう。
2022年1月14日(金)
きのうはサーバーが繋がらず。ふさふさと積もった雪はきょうの昼までにあらかた溶けた。地元や隣の市からは、昨年夏のピーク時のような感染例報告が入ってくる。
2022年1月12日(水)
雪が降る気温のなか、歯科へかかったり、買い物をいくつか済ませたり、適性検査を受けに行ったり。後者は自動車学校で初めに受けるそれをもう少し充実させたような内容だった。計算や文章問題など紙ベースの問題はわりと楽しかった代わり、ボード上の駒を手で動かす問題はまごついたかも、という手応え。こういうの、人と比べるものというよりは、自分自身の適性と傾向を知るものだからね。善し悪しは気にしない。結果の集計には少し時間がかかるから一週間後の面談の際にあわせてお伝えします、ということでテストは終わった。立場や後ろ盾もなくただ受けたいと思ったらお金がかかる検査だと思われるので、職員さんと福祉に感謝したいところ。滔々と流れる水路を通りすがりに眺めながら、この不断さと水草の青みを撮ってみたいと思った。そのあとの予定は押していたからきょうはスルーして正解だったのだけれど、時間があれば覗き込みたい。神社の鳥居の目の前を流れる、水草の揺れる様子がとても綺麗な水路なのだよね。
2022年1月11日(火)
クローズアップレンズはおもしろいかも。こうしたフィルターを一枚持ち歩くことで、大抵のレンズが簡易マクロとして使えそうだ。クローズアップレンズは度の強さで分けられているけれど、あんまり接写能力を優先してもかえって取り回しに難が生じるから、レンズそのものの最短撮影距離をカバーしつつ可動域が大きいものをチョイスするのがよいのかな、と思った。ひとまず、お値打ちかつ汎用性がありそうなマルミのMC+2と+3を使って、どちらが自分の使い方に馴染むか分かったら、ケンコーのACタイプのものを一枚手に入れるつもり。個人的に着けっぱなしレンズに惹かれるところがあり、43mm F1.9でなんでもこなしたいのだよね。寒中見舞いのおはがきが届き、よろこびの変な笑みとともに眺めてる。
2022年1月10日(月)
そわそわってほどではない、なにか煮詰まった感じがする。これはどこかへ撮りに出かけたいか、創作へ向かっていたいか、おおよそそんな感じの欲求。自分の場合だとこういう欲求はやっぱり、それで駆動される状態へ持っていくためにはなんらかのチャージ行為(なにもせずに過ごすとか)が要るのだな。というか実態は逆かもしれない。なにかに取り組むことができない状態は、心理的なあるいは脳機能のチューニングがうまくいっていないことを示しているのかも知れず、そうしたときに無理をすれば目に見えずともダメージは蓄積する。取り返しがつく地点で引き返せるならよいけれど、たとえば、ひとたび砕けた食器はどう修繕しても元の強度を望めないのだよね。その修繕にだって時間がかかるしさ。話は逸れたけれど、欲求が出てきたならうれしいこと。冬場は個人的にオフシーズンなため、あまり撮るものもないなーという思いが先行するけれど、実際には視座と関心さえあれば、いつどこにいても見るべきものはあるはず。それから、星野道夫『イニュニック[生命] アラスカの原野を旅する』(新潮文庫)を読み終えて解説へ目を通すうち、探していたもののヒントを見つけた。
……たとえ何の説明がなくても、その超ロングショットの写真は見る者を圧倒するだけの物語性とど迫力とを持っている。この言葉は説明のためのキャプションではない。星野氏が様々なシーンに遭遇し、魂をゆさぶられるうちに、肉体の深部から湧き出てきたにちがいない言葉だ。写真と言葉はそれぞれに独立している。だが、それらが同一の見開きの頁の中に配置されることによって、それぞれの持つ意味が二乗倍されて鮮烈に浮き上がってくる。……
……そして、これら二つの言葉には、星野氏があの過酷な極北の世界に自らを投じ、カメラのレンズを通して何万というシーンを凝視してきたなかから全身で感じ取り内面で深化させていたに違いない自分とクマとの関係性についての思い、ひいては人間と自然界との関係性についての認識が凝縮されている。……
……写真家・星野道夫氏は、アラスカに身を投じなければ記録することのできないシーンをカメラでとらえるのと同時に、アラスカの森に棲み、険しい山や谷や森を探検し、大自然の動物たちや化石に遭遇するなかでしか湧いてこない思い、すなわち言葉を、次々に書きとめた。写真がシーンの発見であるように、言葉は思索の発見である。星野氏においては、写真家は写真で表現すればいいなどという狭い枠組みは、まったく無意味だったろう。彼にとって、写真と言葉はそれぞれに独立した不可欠の表現手段であると同時に、共鳴し合いそれぞれの意味づけを二乗倍深め合う表現手段だったのだ。……
―― 解説「言葉の発見者としての星野道夫」 柳田邦男
写真とともに織りなすべきは説明でなく思索や哲学で、写真も言葉もそれぞれになにかを語るものであるべきなのだな。僕には哲学がないため理路の順番が逆になってしまったけれど、見よう見まねでやるよ。