2022年1月10日(月)

そわそわってほどではない、なにか煮詰まった感じがする。これはどこかへ撮りに出かけたいか、創作へ向かっていたいか、おおよそそんな感じの欲求。自分の場合だとこういう欲求はやっぱり、それで駆動される状態へ持っていくためにはなんらかのチャージ行為(なにもせずに過ごすとか)が要るのだな。というか実態は逆かもしれない。なにかに取り組むことができない状態は、心理的なあるいは脳機能のチューニングがうまくいっていないことを示しているのかも知れず、そうしたときに無理をすれば目に見えずともダメージは蓄積する。取り返しがつく地点で引き返せるならよいけれど、たとえば、ひとたび砕けた食器はどう修繕しても元の強度を望めないのだよね。その修繕にだって時間がかかるしさ。話は逸れたけれど、欲求が出てきたならうれしいこと。冬場は個人的にオフシーズンなため、あまり撮るものもないなーという思いが先行するけれど、実際には視座と関心さえあれば、いつどこにいても見るべきものはあるはず。それから、星野道夫『イニュニック[生命] アラスカの原野を旅する』(新潮文庫)を読み終えて解説へ目を通すうち、探していたもののヒントを見つけた。

……たとえ何の説明がなくても、その超ロングショットの写真は見る者を圧倒するだけの物語性とど迫力とを持っている。この言葉は説明のためのキャプションではない。星野氏が様々なシーンに遭遇し、魂をゆさぶられるうちに、肉体の深部から湧き出てきたにちがいない言葉だ。写真と言葉はそれぞれに独立している。だが、それらが同一の見開きの頁の中に配置されることによって、それぞれの持つ意味が二乗倍されて鮮烈に浮き上がってくる。……

……そして、これら二つの言葉には、星野氏があの過酷な極北の世界に自らを投じ、カメラのレンズを通して何万というシーンを凝視してきたなかから全身で感じ取り内面で深化させていたに違いない自分とクマとの関係性についての思い、ひいては人間と自然界との関係性についての認識が凝縮されている。……

……写真家・星野道夫氏は、アラスカに身を投じなければ記録することのできないシーンをカメラでとらえるのと同時に、アラスカの森に棲み、険しい山や谷や森を探検し、大自然の動物たちや化石に遭遇するなかでしか湧いてこない思い、すなわち言葉を、次々に書きとめた。写真がシーンの発見であるように、言葉は思索の発見である。星野氏においては、写真家は写真で表現すればいいなどという狭い枠組みは、まったく無意味だったろう。彼にとって、写真と言葉はそれぞれに独立した不可欠の表現手段であると同時に、共鳴し合いそれぞれの意味づけを二乗倍深め合う表現手段だったのだ。……

―― 解説「言葉の発見者としての星野道夫」 柳田邦男

写真とともに織りなすべきは説明でなく思索や哲学で、写真も言葉もそれぞれになにかを語るものであるべきなのだな。僕には哲学がないため理路の順番が逆になってしまったけれど、見よう見まねでやるよ。

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