2019年4月20日(土)

春の宵。ほうほうとフクロウだかミミズク系の謎の声が聞こえる。姿は見えないけれど、そういう鳥がこの辺りにいるんだなー。

植え付けてある二種類のアーティチョークがロゼット状態から立ち上がってきた。紫色の葉を持つものと白いうぶ毛を持つものの二つあり、なんかどちらもお互いに姿が似ていないなーと感じてる。ていうか大丈夫か。手間暇かけた畝が何年かのあいだ占有されてしまう上に、よく育てばひとの背を越えるアザミだぞー。それとはあまり関係のないところで、去年駄目にしたと思っていたわけぎがアーティチョークの株元から再生しつつある。もうちょっと増やせたら定期的に料理の薬味くらいには使えそうだ。

僕には珍しく、今年は朝顔と夜顔をもうポリポットに蒔いた。まだ夜間に霜注意報が出る外気温だけれど、芒種の前にそれなりな大きさの苗を植え付けられるはず。上手く行けば七月中に夜顔の真っ白い花を見ることが出来るかもと算段してる。

ごほうびなるトマトを初めて食べた。これはいままでにないような爽やかな甘味を持っていて、食べやすいことは食べやすいけれど、僕がトマトに求めている青臭さは全くない。大げさに言えば野菜の中でもすいかやいちご方面の甘さだと思う。

2019年4月19日(金)

春のしるしであるところの雷注意報が出た。いま、蚊取線香を焚いてる。

お茶の味わいにおいて青さと焙煎香って相反する概念なのか。思い至らなかった。ということは単純に考えれば、ただ好きな香りだけ追っていたのでは栗っぽさのあるお茶に出会えないかもしれない、ということになる。ううむ。

昨今の台湾高山茶やダージリンだと、あの草原のごとき青さは時代後れというか、それに取って代わった花の香りに比べて良いものではないよね、とされるそう。マスカテルを淡くしたような青い香りの初体験が2010年の春摘みプッタボン農園DJ-14で、僕にとってのうまいか駄目かの基準がそこで焼き付いているのだけれど、まあ時代後れということで紅茶だの烏龍茶だの探していたんじゃ見づけづらくなっているみたいだ。国産茶のなかにはこれが息づいているのがあり、変わり種として手を伸ばした釜炒り茶の香寿にその青さを見つけた。印雑131という品種の系統を辿ればなにか収穫があるかもと思う。

病院三件と市役所をハシゴした。新しくなった市庁舎の八階にあるらしい展望台を覗いてみることにして、おそらく何年ぶりかでエレベーターに乗る。縦に動くことへの感慨はなかったな……。展望台に着くと北側/南側にそれぞれ外を眺められる窓があり、それは硝子張りなのだが太い鉄筋も何本か通っていたりして、「あーこんな感じなんだー」くらいのゆるい眺望の中に見知っている風景を重ねたりした。

そういえばやはり何年ぶりかで芝生に寝転び読書をしていた。あれは格好が先行しているものだと思っていたけれど、風に吹かれながらの心地よさはあると考えを改めたところ。ただ腕が疲れるよね。

このごろ自分の性格が悪くなっていやしないかと内心で懸念してる。いま懸念て書いたの、もとはましなはずだといううぬぼれかもな……。直接の原因となっている不満の種を自分の思考で分解しなければ。

2019年4月18日(木)

日中、ひとりでくえくえ言っている蛙の声が茂みから聞こえた。

最近始まったことでもないけれど、体のいいつかみで始まる科学記事が目にとまった。ビッグバン後最初の分子イオン、宇宙空間で検出 – CNN.co.jp宇宙で最初に形成された分子、星間空間で初検出 – AFPBB newsのあたりがそう。こういうのって記事のページビューを上げるための工夫なのだろうな。というか、なにか知った気分になれる、ということが需要として強いのか。それを言いだしたらきりがないし、返す刀で僕自身が切られてしまった。

眠りに就くとき暗闇から覗う、窓から差し込む月の光がほのかに室内を照らしている様子の、そのとき心が水面のようになる感覚。死ぬということは、その月明かりと闇の気配がそこからもう訪れないということだろうか。叔父のことが脳裏を掠め、そんなことをちらと思う。

Lisnのお香をいくつか取り寄せた。これは週末の楽しみ。蚊取線香に関しては、夜の田んぼから蛙の声が聞こえるようになったら焚こう、という縛りを設けてある。

2019年4月16日(火)

神社のある高台から街並みと散っていく桜を眺めていた。陽差しは柔らかく風は穏やかに吹き上がり、下界の雑多な生活音が程よく聞こえてくるその場所でしばし、ぼんやりと愁いを抱く。神社の参道を逸れるけもの道に気付いてそれを辿ったところ、樹木の匂いがする森を抜け、桜に囲まれて半ば忘れられたような窪地の陽だまりの先に、普段は遠くから見るだけだった斜面の墓地が続いていた。セメント製の椅子とテーブルがいくつか設えてある。そこはどうも地元の人たちの抜け道か散歩道らしく、辺りの土はふかふかで靴が少し沈むようだったから、訪れるひとはそう多くなく、また日ごろから利用されているようだった。振り返ると桜のあいだから昇る昼の月が見え、遠く野外のステージで歌っている誰かの声が聞こえてきた。日が傾き始めていることに気付いて来た道を戻り、買い物をしにスーパーへと向かった。

叔父はおそらくあまり長くはない、というか、緩和ケアに移るために空き部屋を応募していると聞いた。近ごろは叔父に小言を言われるから会うことを避けていたのだけれど、そのうち顔合わせに行ってみるかという気になってる。僕の母方の家では去年に祖母が逝ったし、祖父ももうじき自分は死ぬと告白していた。思い出の風景が少しずつ変わっていく。

別にテーマにしているわけでもないのに春~初夏らしさのある本に、クラフト・エヴィング商會『テーブルの上のファーブル』(筑摩書房)があった。「昼月、昼酒、昼寝つき」「この世は昼でも月下です。」という言葉にピンと来た方は手に取ってみて欲しい。そういえば吉田篤弘の新著をずいぶんと読んでいないなー。

2019年4月15日(月)

気象庁の情報によると一週間先から高温の傾向があるとか。

ペンタックスのDA 20-40mm F2.8-4 LimitedとFA 31mm F1.8 Limitedで似たような条件の桜を撮ってみて、前者は今どきなエッジの効いた写りをするのに対し、後者はフイルム調に写るようだ、という感想を持った。DAがAPS-C向け/デジタルでFAがフルサイズ/設計が古いから当り前なんだけれどさ。このへんの画角は沼だね……。

2019年4月14日(日)

先日、くるぶしを小さなブヨらしきものに刺され、これを機会にと蚊取線香の小さいやつを買ってきた。この匂いがたまらなく好きで、好きな匂いを挙げてと言われたりしたら、潮/朽ち木とともに蚊取線香(金鳥の除虫菊の)がベスト3入りする。

春らしい本を読みたいねえ。吉田篤弘の『空ばかり見ていた』は一人暮しを始めた春のころの感覚が滲む。同じ理由からKyoto Jazz MassiveのアルバムであるBy KJM/For KJM/Re: KJMが耳にしっかり残っている。賑々しい宵を味わっていたいのだな。

2019年4月13日(土)

ふらふらと農道を行った。某所の山桜は山の中にあるためか、まだ全く咲いておらず。近くの仮設テントで大判焼きのうぐいす餡を買い食いし、キクザキイチゲが北側の斜面に咲いているのを見つける。平地のソメイヨシノは明日の雨で散り始めそうだ。

2019年4月10日(水)

日中ずっと、桜にぼたぼたと雪が降った。懸念していた虫歯は呆気なく治療された。そりゃ楽なほうがいいんだけれどさ。夜更けにイベント・ホライズン・テレスコープの成果発表があり、M87中心部のブラックホールの輪郭を撮影した画像を見たり、youtubeで会見を見たり。