2011年1月17日(月)

あれこれ思うが言葉にならない。

落丁の多い記憶
過去にいつかどこかで起きた出来事が、抄った砂が手のひらから零れ落ちるように頭から抜け落ちているのを近頃よく感じる。例えるならドーナツの真ん中に穴が空いていると認識しているような状態で、食べ終えてしまえばその穴さえ虚空へ消えてしまう。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。きっと、気張って過去なんか背負わなくても、どうしようもない昨日を笑って不確かな明日を信じて過ごせるなら、いつか訪れる断絶の時を怖れずに受け入れつつやっていけるなら、様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残せるなら。それは決して空ろな一幕劇なんかではなかったと言えるはず、それなのに。
ひとりで在ること
学生の頃、所属していた経済研究サークルの同期の子から「君はとても鋭い」と言う風なことを言われた事がある。「人をとてもよく見ているね、でも自分もそんな風に見られているのかと思うと少し怖い」とも言われた。当時それが少し悲しかった。無意識のうちにコミュニティの輪から一歩退いた場所にいる自分を否応なしに認識させられた上に、悪意のないいささかの畏怖を纏った拒絶を感じたからだ。仲間と交わす議論は面白かったけれど、そんな輪の内で時折気付かされる孤独ってのは、雑踏の中でふと立ち止まる瞬間のように寂しい。いつしか僕は少しずつ同期達と距離を置くようになり、とうとう何も言い残さずにサークルと大学を去った。あの時分に感じていた孤独とは何だったのだろうと今でもたまに考える。
『……そのころぼくは二十歳だった。二十歳は退屈な年だ。若いというのはすくなく、苦く、うつろなことだ。その年で生きているのが楽しいという人間を、僕は信用しない。……』娼年(石田衣良 著)
一体、あの寂しさや空しさは若さにありがちなただの感傷だったのか。まさか僕はおセンチな煽りなどのために幾度も死にかけ彼岸を見たのだろうか。何れにせよ月日は瞬く間に流れ去り、現在の僕は程よい孤独に存外の居心地の良さを見出して、遠くなってしまった彼らの背中を時々振り返る。
若さの特権
mixiの出来婚バツイチなマイミクさんが、恋がしたい、とか、誰かと暮らしたくなっちゃった、とか、次の彼氏のスペック*女性向け診断なんて書き連ねている日記を読むにつけ、彼女の元旦那が引き取っていったという赤子の将来を案じてみたりするなど下世話な話で。
甘い水、辛い水
先日、死にたがってばかりの友人を突き放して批判した。僕は、親友ならば時として必要に応じ手厳しく接する事もあるのが健全な付き合い方だと思っている。けれどもそんな僕の声は鬱屈し過ぎた彼の耳には届いていないらしい。都合の良い馴れ合いや自棄っぱちの煽り合いは忽ち人を腐らせる。死にたいなら誰からも忘れ去られてからにしてくれと率直に言えない僕は甘いだろうか。そもそも僕に他者を批判する資格なんてあるのか。人はそれぞれ、なんて体のいい言葉に逃げるつもりはないけれど、彼が僕の言葉を受け入れないのならばそれも彼の在り方だし、少なくとも僕は僕自身の持つ善意好意義憤から彼に接したつもりで、そこには十分に確かな理解や道理などが欠けていたかも知れない。「人の友たるものは、推察と沈黙の、熟達者でなければならぬ」。ともかく生きていてくれ、いつか時が癒してくれるさ、なんて陳腐で残酷な神頼み。悲しいかな、沙漠を内に蔵する者は。人づてに頼まれてもいるけれど僕だけの力じゃもうどうにもならない。
昨今の視聴者の現実離れ
毎回必ず人が殺される刑事ドラマを見るのが楽しみな母の心の健康を密かに疑い始めた今日この頃。
何を見てもそればかり思い出す
ちょうど一ヶ月後が父の十三回忌にあたる事を思い出した。父は社労士を兼業する技術者であると共に君子蘭の栽培と品種改良に関するセミプロで、名もない新品種を幾つか遺し癌で逝った。その影響で僕は一頃、農学の道へ進んで雪割草の専門家になりたいと夢見ていた時期がある。昨年の盆、父の学生時代の友人が墓参りにやってきて、彼らが若かった頃の思い出話に花が咲いた。故人を忘れずにいてくれる人がいる。ありがたい事だ。膨大な記憶の中に人は生きている、と言ったのは誰だったか。父が二十年以上昔に興した会社も平成不況の波に攫われながらニッチな需要に活路を見出し今でも何とか存えている。様々な流れの中へ其処に在った軌跡を残して去った父は最期まで偉大だった。この時期の、肌寒く静かで眠れぬ今日のような夜に、あの頃の事ばかり思い出そうとしている自分がいる。
愛情の天秤
『セルロイドの人形に魂が入る事だってあるんだぜ? まして奴は脳医学用のデバイスを詰め込めるだけ詰め込んでるんだ。魂が宿ったって不思議はねぇさ』(攻殻機動隊 -GHOST IN THE SHELL-)
世の中のおそらく大多数の人々が彼らの家族や伴侶や仲間を大切に思うように、或いは養っている生きものを慈しむように、はたまた手間暇掛けた車やバイクに夢中になるように、それらと同じ重さで僕はただ、でっかいアクリルと綿のかたまり達を心あるものとして愛でているだけなのに。美少女フィギュアとやらに萌える事がもはやステータス化されようかという現代に於いて、片やぬいぐるみを抱かぬと眠れぬ厄年男の僕は馬鹿だ幼稚だ金の無駄遣いだと侮蔑されている。納得し難い。我が家とこの国の正義は一体これからどこへ向かうのだろうか。
それらはきっと等しく正しい
「欠落や喪失を糧としてしか創作ができない人種というのはいて、私もその類の人間です。」
「喪失を原動力にしている人間には何も期待してはいけない。どこまでも空っぽの思い出しか持っていないから。」
互いに面識のない、質の高い文章を書く物書き同士のこのように見事な意見の齟齬を見掛けて、僕は何かを喪失した事はあっただろうかと少し考え、ああ、喪失した事自体を喪失しているらしいからどうしようもないよねという割合楽観的な結論に達した。
唖の鴎はさまよいつづける
初め、このサイトを含めたWeb上での立ち居振る舞いに際して、はなからご大層な主義主張や動機などは持ち合わせていなかった。ただ、自分自身の存在の軌跡を確認出来て、その上で一握りの見知らぬ他者にそれを幾らかでも知って貰えたなら、そういうごく僅かな願望からWebの各種コミュニティに属している、というのはおそらく正しい。僕は少々退屈な僕だけに許された人生の暇潰しに耽っているばかりだから、残念ながらそれらはきっと「あなた」にとっては何の娯楽にもなりえないだろう。僕が自分の欲求に素直になればなるほどに、それらはより退屈で無感動で誠実さに欠けた見苦しいだけのものとなる、そんな確信めいたものがある。座右の銘の「欲望に忠実であれ」とはつまりそういう事だ。随分と身勝手で体の良い願望だと思っている。でも、「あなた」に迷惑を掛けるような事だけはきっと無いから、あったとしてもほんの僅かな間「あなた」の意識の隅っこを小川の朽ち葉のように流れ去っていくだけで、僕もそれで十分満足するし、どうか気に留めずに頂ければと思う。所詮は唖の鴎。沖をさまよい何を待つやら、けれども無言で、さまよいつづける。それだけの事。僕はいつでもどこでも何かしら、ささやかな希望を胸に待ち続けている。

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