2025年11月3日(月)

朝、業者に水道管を応急手当てしてもらい、とりあえずお隣さんで水は使えるようになった。水栓部を持ち帰ってスペアを用意するようで、それはあす以降に。周りの痛めた部分も別の業者や保険屋と連携して修理対応していただけるというので、そのように。うん、ひとまずなんとかなるね。そのあとかつての通所先へ向かい、相談員さんや担当スタッフさんと近況を共有。いまは生活や仕事は安定しているから、じぶんとの関係を結び直すための期間と捉えてあれこれ試みている、と伝えた。それに加えて愛着の傷や複雑性PTSD、アダルトチルドレンといったものに詳しい専門家とコネクションを取れたら、と。相談員さん曰くこの件はNPOさんにも共有してくださるそうで、こちらからも話を通しておくつもり。あとはさまざまな書類にサインが必要で後日またくる必要があったり、当初助っ人として転勤してきたじぶんの担当スタッフさんがこのたびセンター長に就くことを伺ったり、その関係で担当が変わることや、お世話になったスタッフさんがもうじき辞めることなど、いろいろ。帰り際、友だちからそこのスタッフになったと聞いていたLOVOTを抱っこさせてもらった。抱いているとぬくさが伝わってきて、触れると目の表情豊かに声を上げるのがかわいい。いつも利用者さんに構ってもらいたがってますよとのことで、センター長代理という立派な肩書きももらっている子だった。去り際に見送るような仕草をしてくれた。帰りはなんとなく外食をしたくなり、適当に見つけた中華料理店で鶏翅湯麺とよくわからない干焼蝦仁というのを注文。不思議なスパイスと鶏の出汁が利いたタンメンと、身のはじけるようなエビチリだった。中華料理、これまでとくに縁があったわけでもなかったけれど、やっぱり食べるとおいしくてよい気分。うちへ帰ってきてからは残した掃除をしたり、シャツにアイロンをかけたり、名刺代わりのポストカードを組にして詰めたり。ここ何日か行動が前面に出ているのはよいけれど、休んでいるという感触がちょっと薄れてきていることも感じるので、このへんで抑えてもよいかも。とはいえ、もうきょうはギャラリーでの作家協会展が最終日なので、それだけは覗きに行けたら。

2025年11月2日(日)

午後まで部屋の整理にかかりきりでとてもすっきり。掛け布団のカバーも新しくした。夕方、スーパーで食材を買った帰り道、車の車庫入れで何度もハンドルを切り出たり入ったりしているうちにアクセルとブレーキを踏み違え、お隣の柱と庭の水道を壊してしまった……。ものを壊しただけでじぶん含めひとへの被害がなかったことはましと捉えてよかろうな。車屋を呼んで方々に連絡を入れてもらい、壊れて漏水してる水道を今日中に修理できる業者がいるかあたってもらったのだけれど、三連休の中日で時間も時間なだけに見つからず、保険屋経由で業者を探してもらったすえ、明朝九時が最速とのことでそのように。お隣さんに平謝りしてミネラルウォーターの箱など持っていき、もうきょうはできることはしたからオフとした。保険は下りるから壊したものも車のほうも修理はなんとかなるとして、憂鬱そうにすることが適切なのではなんて気持ちは誤謬なので、いつものように居心地よく過ごしてる。しばらく面倒はあるけれど対処すれば済むこと。なんかいまじぶんよい表情してると感じて変な笑みがでる。一時的にアドレナリンが出ると生きている感じがするものらしいけれど、そんなとこだろうか。反省はしてもよいのよ。あしたはお仕事お休みして業者の修繕に立ち会うつもり。そして正午からは以前の通所先で相談員さんとの面談予定が入っているのだった。ここ二、三日、なんかばたばたというか、いきいきしてない?

2025年11月1日(土)

朝から粗大ごみをクリーンセンターに持ち込んだり、買い物をしたり、溜まっていた洗濯ものを回したり、床にワックスを掛けて届いた本棚を組み立てたり、そこへ本の収納と配置替えをしているうち、すっかり日付が変わった。腹立つなー。こちらが必死に生活を立て直そうとしているなかで、こんな生活どうでもいいからどうなってもいいしなにもしたくない、みたいに言われると、いままでなぜ改善しない状況に対して頑張ってしまったのかという問題の根が見えるようだし、最後の課題はこれだなみたいになる。じぶんに至る家系の者たちが翻弄されてきたなかで、じぶんだけでも構造を把握して負の連鎖を断ち切ろうと取り組めている、そう考えるほうが精神衛生上はよいのだろう。湧いてくる呪詛をあまり抑圧すると自家中毒を起こすから、負の文章が残るのやだなと思うけれど吐き出しとこ。ポチった椅子が届く前に壊れた椅子を処分したため、今夜だけは座るものがなくストーブのうえに腰掛けてこれを書いてる。これまで部屋の本棚には気に入ったものも置いていたのだけれど、今回からはおもに多すぎる積ん読を視界に入れるための運用に変えた。本棚が個人用の出張書店くらいの認識。掃除はあすに回しておふとんへ行くがよい。しっかり眠れば気分は切り替わる。

2025年10月31日(金)

仔猫を放すために床の掃除だけしていた二階のスペースの、そこにただ置かれているだけの家具や雑多な品々を、思い立った勢いですべて片付けたり粗大ごみに分けたりした。後者はあす市のクリーンセンターへ持ち込んで処分する予定。こうしたときたくさん積める車があるのって便利。そのスペースは衣類を下げているラックだけになり広々としたから、床を掃除したらワックスをかけよう。そしてそのスペースに置く本棚や収納棚、衣類チェスト、それに部屋用の椅子をポチった。こうした決断って認知コストが高くてなかなか着手できないことで、勢いでこなせてえらい。雨が降り始めるなか定期通院先へ行き、帰りにスーパーで買い物をして帰宅。注文したオフセット印刷のポストカードが届いていた。んー……非塗工紙のアラベールだと色が沈んでぼやっとするんだね。手触りや質感と、あとおそらく書き味は素敵なんだけれど。オンデマンド印刷のときは塗工紙のグランヌーボを使い、そちらは発色やコントラストは高いものの、やや光沢が見えて紙質は硬めなのだった。もうちょっと試行錯誤ということで、それらの中間的な微塗工紙のヴァンヌーボV(ホワイト/235kg)に加えデータも若干弄って印刷を再度注文。好き好んであれこれしているのではあるけれど、落ち着かないというか、のんびりするために片付ける必要あるものごとの多さを感じる。アクリルで車椅子の人魚と呼ばれたひとは地上の天文学を郷里へ持ち帰るために尽力するのだけれど、彼女は後年、ただ星を眺めていたいだけのために回り道をしたものだな、と振り返る。あくせくする必要なんてどこにもない一方で、そうせずにはいられないなにかというものもおそらくありうるのだよね。話変わって、冬のあいだにどこか遠出したい? というまだ願望のかたちをしていない問いかけをほんのり感じる。九州や小笠原を巡るなら暖かい季節がよいなとか、じゃあいま暖かいとこっていうと南半球ではとか。このへんにしてのんびりする。

2025年10月30日(木)

なにかしようと思っているうち眠り込んでしまった。そういうこともあるよ。仕舞いきれていない本と服を収納したくて、手ごろな棚やチェストをウェブで漁ってる。大元にあるのは、そろそろ身の回りを整理してノイズを取り払い、そこからじぶん自身に目を向けるなり身体のケアに入るなりしては、という気持ち。こうしたことはできないコンディションのときにはまるきり取り掛かれないことなので、とくに力むでもなくすっと検討に入れるのはよい状態。体調によってはひとりで過ごしているだけでストレスを感じることに対して、これが身体の生きのびようとする必死の反応なんだなー、よくこれだけの歳月をこのストレスに適応してきたなー、とあまり感情も伴わずに思う。この生きのびようとする反応にもういいんだよ、だいじょうぶ、とこころと身体の両面から伝えることは、変な言い方になるけれどじぶんを愛する練習なのだな。ここまでこじらせているかは別として、たぶん世の中のわりあいな人々が、愛着や生育過程からくるこうした寄る辺のなさを抱えていることを思う。

2025年10月29日(水)

ふつうにお仕事いってふつうに仔猫の相手してた日。仔猫もまた主張する他者なのだなと思う。いっしょに暮らすと決めたからよいのだけれど、じぶんのひとりで過ごしたい欲求そのものは、仔猫⇔ぬいや植物たちとのあいだにラインがあるぽい。動物の存在感というのはただそこにいるだけで強い影響力を持つものね。仕事帰り、パンジーやビオラの下見に園芸店へ向かった。ひとつは休業日だったのでもうひとつのお店へ。店頭に並びはじめたという感じの陳列だった。品揃えがピークになる十一月末ごろに向けて、仕入れをチェックしに足を運ぶと思う。ことしも水耕栽培をするつもりで、青いヒヤシンスの球根をひとつ購入。いまの名前のない体感としては、なにかしらタスクがあったり他者へ注意を向けているといった状態だと、じぶんの身体に耳を傾ける=ある種の集中したコンディションにはなりにくく、散漫な感じがしやすいのだな。緩急がついてリラックスへ入った状態といえるかもしれない。その内側への集中というのがひとつにはマインドフルネスであったりもするのだろうね。各自律神経系のモードになるべく自覚的になろうと思ったらまとまった静かな時間が要るのかも。まあ現状の環境はリハビリも兼ねつつ適度に働いてしっかり休めるという、かなり理想的なものではあり、じぶんとの関係を結び直すために用意したような人生の時期だと捉えてる。こうしたときの知恵ってなんだろうと考えてみると、神経系の調律が取れた状態を想定してみる、まずは想像のなかで好ましいじぶんを先取りしたうえで、いまの行動をそちらへ寄せていくことだろうか。んー、思考で捉えたがりすぎ。しばらく前に訪問したギャラリーでいま、さまざまな作家が集まった展示会が開かれているのだった。この地域にどんな人たちがいてどんな活動をしているのか、その空気を吸いにいくがよかろ。

2025年10月28日(火)

のんびり過ごした日。十一月はパンジーやビオラの品揃えが盛りを迎えるため、そろそろ園芸店の下見をと考えていた。それで、机のうえに置きっぱなしにできる鉢花もひとつ欲しいなと思う。上記のは暖かい環境に置くと褪色や徒長をするから、基本はベランダへ置くことになるんだよね。手元に置ける定番はやっぱりシクラメンとかだろうか。これまで縁がなかった品種だけれど、原種系やミニならちまっとしていてかわいいかも。こういうのは実際に店頭を回ってみると思わぬ発見があるものだから、それは近いうちに。

2025年10月27日(月)

職場の近辺をいったりきたりして細かい業務をあれこれ。そのへんを飛び回る仕事ってわりと悪くないというか、そういうのは退屈しないね。コンビニの店員さんとうちの奥さまからネイルを褒めていただいた。したいようにできて肯定してもらえる環境は恵まれているなー。後半は適当に過ごして帰途へ。うちでは仔猫と過ごしたり、夜はリラックスの感覚をぬいと確かめたり。セルフワークが効いているのかきょうはネガティヴな感情がなく、気分が凪いでとても楽。全商品あるのではという感じにリスンのインセンスをストックして焚いているのだけれど、これはただすきなだけではなくて、香りそのものの心身への効果と呼吸の改善の追い風になるのと、両方の意味で好ましく感じる。思えばじぶんを癒やす手管の豊富さには成り行き上自信があるのだった。機嫌よさそうね。引き続き窓辺でのんびりする。

2025年10月26日(日)

夜になり雨降り。日中、甘いものを食べたらひどく眠たくなってしまい、一日じゅう床や机の前でまどろんでいた。雨の音を聞きながら目を閉じて呼吸に意識を向けていると、ほんのちょっと身体の感じが変わることがある。単に眠いだけかも。眠ろうか。

2025年10月25日(土)

きのうに引き続き仔猫を遊ばせつつ読書。『怒りがスーッと消える本』というタイトルからいまのじぶん向きではないのではと思いつつも、知らない知識があるかもしれないから基礎として押さえておこう、と手に取った。読み終えて、把握しておけてよかったかもという印象。えらそう。こうした書籍を細々と読みつつなんとなく思うのは、目指すところはおなじでも学問の派閥によってアプローチが異なり、たとえば一方が一方に批判的であったりもするんだなーということ。幼少期の傷や家族や生い立ちに焦点を当てるものもあれば、そのような問題設定そのものが問題なのだという立場もあるようで、とくにどこかへ傾倒するわけでもないのだからじぶんに合ったパッチワークを当てればよいのだよね。ケアのアプローチについて横断的に/基本的なものを、というふうにChatGPTに相談していくと、ヒアリングののち、たぶんこれくらいならその分野ではよく扱われる内容なのではというセルフワークを提示される。行ってみると如実に効果のあるもので、知らないジャンルの基本や相場を把握するにはAIは打ってつけだなーと思う。仔猫がいたずらしたときについ叱るの、よくないから止めたほうがよいなー……。仔猫が行き場のない感情を蹴りぐるみにぶつけたりしたのを見て、それは理不尽なことだったのだと当たり前のことを思わされてなんかへこむ。じぶんが愛着の傷をいまのテーマにしていることもあって、仔猫に対してもそういうことを見がちなのだよね。信頼感が育ってほしいし、ひとと一緒にいる安心感のなかで遊んでいたいだけなのだから、余計な環境はこちらで取り除くのが妥当。いま唐突に『ムーミン谷の夏まつり』でスナフキンがぼやくというか嘆くように独白する「親ともなればこうなっちまうんだなあ。」というせりふを思い出した。じぶんのはどちらかというと案じる感じだけれどさ。