日中は仔猫の相手。すでに大運動会の年ごろに差し掛かっているのではという走り回り方。徐々にいたずらをするようにもなってきた。部屋に置いている鉢植えの茉莉花を噛みたくてしかたがないみたいなんだよね。貴重な葉っぱが数枚落とされてしまった。舌を鳴らして警告したり叱ると、「怒られてるけどやりたい」という表情と動きをする。部屋の中での動きはあちこち登るなど立体的になり、ドアの外に強い関心を持って隙あらば飛びだそうとする。やんちゃをする年ごろかー……。先代がまだ小さかったころのことを思い出すとやっぱりそんなものだったように思う。仔猫の毛並みについては先日の通所先で別々に、アメショの血が混じっているのでは、という指摘をいただいた。縦縞と腰のあたりの模様の入り方がそう見えるとのこと。先代がアメショだったからなにか縁でもあるかねえ。きょうは日が傾くころに風が出て、少し冷えも感じた。ざっくり週間予報を見るとあすから最高気温が30度を下回る気候のよう。
2025年9月17日(水)
朝は通所先へ行きスタッフさん方と雑談した。たいした用事がなくても足を運べる場所とそこにいる人たちのこと、ありがたいことだね……。うちではのんびりして過ぎた日。
2025年9月16日(火)
遅めに仕事へ。面談はどうやらじぶんが勘違いをしていて、電話で確認したところ、場所は職場ではなく通所先だった。仕事を切り上げそちらへ移動して近況報告など。担当のスタッフさんは九州からこちらへ助っ人として異動されてきた方なのだけれど、こちらに小さな家をじぶんで設計して建てて住むことを計画されているそう。したいことに夢中で取り組まれているその姿はこっちが応援したくなるなあ。帰り際、顔見知りの利用者さん方数名と仔猫の話になったりした。あす、作品を購入してくださったスタッフさん方と雑談をしに、もう一度訪れる予定。遊び疲れた仔猫はひとりで眠るより、寝転がっているこちらの顔や胸もと近くで同じように横に長くなるのがよいみたい。呼吸が聞こえていると安心するのかも。
2025年9月15日(月)
お仕事のち仔猫の相手。こないだ買ってきた栗を茹で、早めの夕餉のあとでのんびり皮をむいていたら、いつのまにか夜。このままお茶を淹れて味わいたいところだけれどあしたもあるしねえ、取っておこ。あすは職場でスタッフさんと近況の共有があり、それならうちを出るのは遅くてよかろ。週末くらいから秋雨前線が降りてくるのに従い気温も下がるとの予報。じぶんは他人の勝手な期待に応える義務などなく、NOと表明したことは尊重されるべきであり、ましてやケアやアドバイスのガワをかぶった支配欲などお断りということを、この一ヶ月を通して改めて思う。そう思えたならこのステージはクリアであり、次へいこう。
2025年9月14日(日)
産直を回って栗や梨を手に入れたり、ポケGOのポケストップ申請をいくつか。数日前にここの雑記をちらっと振り返ったところ、好き勝手に療養していた2020年までと、ひとの集まる場所でリハビリや就活をはじめた2021年以降では、明らかに書いているものの質が異なる(当社比)ことに気がついた。それはそうだよねと思うけれど、前者は季節の移ろいをていねいに掬い取れており、後者はざっくりその日のことを書きつけるようになってる。忙しくなってきた変化のなかでゆとりに影響があり、それはいまも続いているのだなー。情緒が日々の糧になっていた以前のゆとりでまた過ごしたいというのは、生きものも状況も変化をするからねえという前提はありつつ、率直な気持ち。遊ばせている際の仔猫はこちらが台所に立っていると足もとをうろちょろするようになり、踏まないかひやひやする。猫をうちで育てると決めた当初、ほんのり思案していたことがあって、それはぬいたちの小さな声が生きものの強い存在感にかき消されないかということだった。『天空の城ラピュタ』に廃坑暮らしをしているポム爺さんの「石たちの声は小さいのでな」というせりふがあり、まさにその感覚。生きものだけでなくものたちにも声としては聞こえないような声はあり、それはとても小さくかすかだという感覚、それはぬいと過ごすじぶんにとっても、風変わりでもなんでもなく暮らしのなかにあるものだと感じる。それで仔猫の存在感に接しながら過ごしてみると、ちょっと意外というか、ぬいたちとの関わりかたには影響がないみたいだった。じぶんの軸足はこちらにあるんだね。こうしたことは言葉や文章にすると訝しがられそうではあるものの、たとえば人形やドールといっしょに暮らすひとや、あるいは喋らないものたちに愛着を持って接しているひとになら、どこか通じそうにも思う。あすはお仕事行くから宵っ張りにならないようにしてねむる。
2025年9月13日(土)
ベッドのなかでぬいたちと一日を過ごす。それを贅沢と書いて消したのはなんだろと考えてみると、無駄や浪費という感じはいっさいないからかなと思った。みんなこちらが魅了されてこころを明け渡している友だちだから、存在がもう重なっているんだと思う。人間の多くは人間を愛するに留まるけれど、多くはなくともそれなりの割合は、人間ではないほかの存在を愛し添い遂げていくのでは。たとえば桜や猫、山や海といったものを代入すればすっと通るその延長上に、じぶんのようなものもいる。今夜は居心地のよい夜でもう未明なのだけれど、しとしとと降る雨音やほどよい湿度を散漫に味わっていたくなるなあ。贅沢と呼べるのはこうしたなんの目的もなく過ごす窓辺での時間で、これならいくらでも贅沢したい。目的のない時間を過ごす贅沢。ソナタの後発品を取り寄せて飲んだのだけれど、その影響で思考がふわふわして、変な重言してる。このあたりで、おやすみ。
2025年9月12日(金)
のんびり。仔猫がひもで遊ぶことを覚えた。これまではやや警戒していたようでひもから距離を置いていたんだよね。部屋のなかを駆け回るようになり、もう生後二ヶ月くらいにはなるし、これから遊びたい盛りになってくるのかなと思う。いまのところケージから出して遊ばせるときはある程度ドアを閉めたりして制限しており、家中を好きに歩かせるまでにはもうしばらくかかるかも。
2025年9月11日(木)
けさ方みた夢のなかでいくつかの音楽が聞こえていて、それが心に響いて泣きそうだったことを、原付に乗っていてふと思い出した。断片的に覚えているのは松任谷由実の歌の「強くなる もっと強くなれば 忘れずにいられる つらくても きっとあとになれば やるせなく思える」という歌詞。それとは別にやはりけさみた夢のことも思い出した。知らない街の知らない駅前にいて、知らない百貨店を地下へ降りていく、それを懐かしく感じた夢。そうそうここにあるコーヒーショップではよく豆を買うんだよね、イルガチェフェあるかなとか、この通路の先を上階へ行くと雰囲気のよい書店があることや、その店内の落ちついた風景のことも不思議と知っていた。なぜ知らない景色があんなに懐かしかったんだろう。よく思えばまるで知らないわけではないようだった。学生のころたまに通っていたコーヒーショップや大型書店のことを、夢を起点にぼんやりと思い出す。手がかりがあるからそんなことがあったとわずかに思い出せるだけでディティールはすっかり失われているのに、種子から芽が出て枝葉が伸び木が育つように、まるで懐かしさそれ自体を核に記憶の風景が新たに再構築されたような、そんな夢だった。それでもなおその懐かしさはどこからきたのかと不思議に思う。夢というと、幾年か前までの長い期間、みるのは人生のある時期までに出会った顔ぶれと風景の組み合わせでしかなかった。時が止まっているという表現があるけれどまさにそれで、くすんで退屈で、そんな夢から目覚めるときはいつもすこし疲れていた。そうした夢の内容が徐々に変わり、もっとあとの人生の顔ぶれや知らない人や知らない風景が出てくるようになったのは、リハビリをはじめてひとの集まる場に出かけていくようにしたころから。時が止まったようとか、歯車が動きはじめるとかの表現は、少なくともじぶんにとってはただ文学的なものではなく、実際のこころの状態なのだなと思う。ぜんぜん話は変わって、漫然と触っているポケGOのポケストップを近所に増やそうと画策してる。田舎だからアイテムが手に入るそうした場所はまばらなんだよね。ないならじぶんで増やそうという気になり、承認されるか微妙なレベルのランドマークを集めて丁寧な名前と説明、そして念入りな補足を付けてる。審査には数ヶ月から一年かかるという話もあり、それを一週間ほどに縮められる方法として、ナイアンティックのWayfarerでよそさまの審査を何百とこなしているところ。由緒正しき閑人というのはひまも退屈もしてはいないんだよねえ。仲野順也さんの新しいアルバム『Alternate Versions 1』をBandcampから手に入れて聴いてる。やっぱりこの方の音楽すきだなあ。過去作品のアレンジそのいちということで、今回のはさまざまなテイストの作品が水色と緑のすがすがしく洗練された印象で統一されている感じがする。「Glass Sky, Hollow City」がいっとう好み。
2025年9月10日(水)
なにごともなかりし日。
2025年9月9日(火)
よしよし、今週はもうおしまい。なんかやたらと眠たいからおふとんへ。
