日中は仔猫の世話。お皿を傾けてあげるとそこからミルクを飲めるようになった。本気で噛まれると痛いのだけれど。こちらの手が遊び相手で、お気に入りはパソコンの筐体後ろやカーテンが集まる薄暗いすみっこ。名前、なににしようか……。先のトラブルは身体のほうが受け入れたのか体調が戻り、幾ばくかの悲しみも感じるようになってきてほっとしてる。夜には虫の声が賑やかなことや、アオマツムシの季節感ある声も聞こえるようになったことに気づく。個人的にアオマツムシの声には秋の夜の沿線をイメージするんだよね。夕方の買いもの帰り、水蒸気で見通しにくい空に入道雲が崩れゆくのを見かけ、濃密な大気の底で生活していることやその上層から続く宇宙のことを、改めて思う。あいかわらず熱のこもるような暑さが続くのに、夜闇にはどこか透明感があって涼やかで、もう何シーズンめかのコートを新調したかった気持ちを思い出した。
2025年8月22日(金)
定期通院先へ。このところの出来事を話すと主治医は「問題を乗り越えたと思ったらまた別の問題がやってくるけれど、ひとつひとつ冷静に対処していく、そしてじぶんの失敗を許す」と仰った。うちでは仔猫の相手。自室へ放して構っていると、徐々に遊ぶことを覚えてきたのかこちらの身体の周りでころんころんと動き回ったり、こちらの手を蹴り蹴りしたり、甘噛みしたり。サイレントニャーをたくさんする。茶トラと書いたけれど、よく照らし合わせてみるとキジ白というものでは。白黒に茶が縞模様に入る、よく分からない模様。ミルクも離乳食もそれなりに口にするものの、まだうんちをしておらず濡らしたコットンでお尻を刺激している段階で、ここがもっかの気がかり。
2025年8月21日(木)
仔猫の世話やケージを買ってきたり。
2025年8月20日(水)
母が出先で仔猫を拾ったとのこと。茶トラの♂。動物病院へ一晩預け、あす連れ帰ってくるそうで、うちでいっしょに暮らすことになった。仔猫には最近何度か縁があったわけで、その茶トラがくるのはもうなにかの流れのようなものでは。きょう考えたのは「じぶんはじぶんの意思を尊重する、他者からの強制は受けない」ということ。思えばひとを責めることに際限はないけれど、じぶん自身がどうするかについてなら迷うことなどないのだった。主体性や自他境界のこと。午前中は刈り払い機用のガソリンを買いにいき、庭の内外の草刈りや芝刈りをしてあとはのんびり。庭木のヤマボウシが幹の途中から折れずに曲がってしまっており、これはあとで支柱をつけるつもり。春先からも含めてこのところの出来事には、まさにこのタイミングだと感じられることがいくつもあり、そうしたことはあるのだろうと思う。偶然とか必然というよりは、なにかの采配といった言葉が浮かぶようでもあり、ある道を歩いて行けば出くわすことといった感じもする。なんとなく、このまま変化していくことに加えて、耳を澄ますことが大切という気がする。
2025年8月19日(火)
しっかりめの掃除をしてすっきり。スーパーにて買いものを済ませたところ通り雨に降られ、急ぐこともないからと雨の当たらないベンチで空を眺めていた。夕餉に黄金桃という桃を食べたのだけれど、口のなかにくちなしの香りそのものが広がるようでびっくりした。もう一種食べた白桃系はくちなしの香りはそこまで強烈でなくて、もしかして好みの品種に出会ったのでは。
2025年8月18日(月)
だるくて気が乗らないなー、という判断で今週はお休みを取った。こういうとき気分を優先できるようになっててえらい。しばらく前から気づいていることとして、鉢植えのブリジャソットグリースといういちじくがふたつ、実をつけている。このいちじくは大鉢へ植える前に根を充実させようと思って、一年ほど前から手ごろな大きさの鉢で管理していたのだった。じぶんはいちじくの育て方が下手らしく、庭に何度も植えつけては枯らしたり弱らせたりしている。このブリジャソットグリースも枝葉が充実しないなあと思っていたところ、青くて小さな実に気がついた次第。うまく熟すまでそこにあるか疑問もありつつ様子見することにした。
2025年8月17日(日)
産直を覗きに行ったほかはうちでだらだらしていた日。
2025年8月16日(土)
のんびり。きのうのことをいくぶんゆとりを持って振り返り、「こういう人物との共依存や支配から脱出できたんだ」と不思議にほっとする感じが湧いてきてる。大切なのは、これまでの関わりそのものは否定しないこと。そうすればこれまでのじぶんの判断や感性を否定せずに連れていける。空心菜の美味しさにやっと気がついて直売所で見かけると手にしてる。さっと炒め物にすると歯ごたえがあってうま味も強くて、すきな野菜だなあと思う。ふと思い出したのは、先の春にバンコクへ行ったとき海沿いのレストランで食べた、「朝顔のつるの炒め物」。翻訳アプリで読みとり注文したメニューだったけれど、いくつもの知らないスパイスがごりごりに利いていて、こんな美味しい料理があるんだとびっくりした。あの朝顔らしき野菜は空心菜かその仲間だったのでは。ついでに思い出す、露店で買った発酵ソーセージを巻くのに使った、チャプルー(ハイゴショウ)のぴり辛い美味しさ。(緑ではなく)青い胡椒、という表現が浮かぶような香りで、生のまま丸かじりすると野菜そのものが美味しかったのだった。日本で手に入らないかなーと検索すると苗だけは売っており、植物の世話をする気力があるときなら部屋で育てているかもと思う。いまなんだかしみじみと思うのは、好きになった野菜、旅の思い出、そうしたものの手触りがじぶんをやわらかく包んでくれることのありがたさ。宵のころからより強くなった雨音には身体が緩むのを感じるし、いまは安心をよく味わうのがよいよ。
2025年8月15日(金)
産直を覗いたり、模型店で花火を買ったり。分かるはずと思って伝えたことが分からなくて/受け入れられなくて猛烈な反発を受けたこと、その想定がもはや成り立たないのだから、しかたのないことだなと思う。ベースの部分で「これって対等なの?」と問うたことの帰結なわけで、そうではなかったことの証左かもしれず、おそらくじぶんが成長したことで身の丈に合わない服を脱ぐような営みの一環なのだろね。強烈な攻撃性が引き出されたことは、「してあげているのに不服を言った」というかたちなどでの、なにかしらの図星だったのかもしれない。というか、ケアやアドバイスは要らないと伝えたことが発端でこれなのだし、ある種の共依存があったと考えるとすっと通るけれど、どうだろう。愛情や献身と呼べばいろいろに解釈できるだろうけれど、それらを拒んだとたんに狼狽→豹変でこの有様であり、それらによる支配があった/その支配を逃れたのではという気がするよ。気は沈むわりに楽でもあり落ち着いているのは、食い違っていたことで苦しかった前提と事実を一致させたところにあるんだろう。それなら、受け入れるがよい。さて、どうしよう。手放すと入ってくるという因果はたしかで、よいこととそうでないことはあざなえる縄であるし、こうしたことが起きるのはものの運びが大きく変化しているしるし。すこし離れたところから花火大会の花火を打ち上げる音がどん、どどん、と不連続に聞こえてくる。きっと、どうしなくてもいい。日々の選択がじぶんをどこかへ連れていってくれる。であるなら、日々の生活をなるべくよいあんばいにしておくことには、よい流れを引き込む力があるはず。しばらくはそりゃつらい。でもね、痛みは痛みでしかないし、生きていて痛みを避けたら鈍感になっちゃうからね。力を抜いておやり、じぶん。
2025年8月14日(木)
注文ふたつを梱包し直して発送。途中、梱包材など買う都合もあって車でホームセンターへ向かい、買いものついでに広い駐車場の隅で車を止める練習をした。ひとまず初心者マークなど貼り付けたり。コンビニの駐車場に止めるのってむつかしい。おとといの出来事からずっとしんどい。動揺のあまり、直接の相手に向けたかった負のエネルギーで、身近にいたこちらが切り刻まれたのだなと思う。激しい警戒感と闘争/逃走反応を感じる。週後半を休めるように調整しておいてよかった。