2020年8月28日(金)

いずれフェンスを立てるために、祖父宅の土地境界の杭を動かしたり。ローカルな音楽ファイルを漁る弾みで耳にした槇原敬之『STRIPE!』がよかった。和音が乗る感じというやつだろうか。人々を音楽で励ましてきた人物が苦境にいるときは、大勢が支える側に回れるとよいのだけれど。ラジアンF待ち。

2020年8月27日(木)

スーパーで手に取ったいちじくが美味しくて、というかうまくて、ひとりで感動していた。瑞々しさとほのかな甘さに加え、花の香りのような味わいがする。ほかの果物とは美味しさのベクトルが全く別のほうを向いていながら、人の味覚を捉えて放さない。以前はこんなに美味しくびっくりするわけでもなく、祖父が畑の隅っこから採ってくれてもいまいちピンとこなかったのだった。そしてあの畑のいちじくは邪魔だからと祖父が伐ってしまった。ありがたさに気付いたときにはもういない、よくある後悔だなー。びわやいちじくは農家さんがよく敷地内に植える樹だけれど、その美味しさは大人になってから分かるもののように思う。

きょうの空は変化と動きに富んでいた。雲の下から雨の降っている様子が方々に見えたり、虹が出たり。刷毛で掃いたような雲も見えた。空の季節は目に見えて移り変わっていく。菊鉢へ植え替えたジャスミンの写真を友達に見せると「マツリカちゃん」と呼んでくれた。ので、僕もそちらの株をマツリカちゃんと呼ぶことに。Twitterの「ド嬢最新刊のムーミンの話に泣いた」というつぶやきを切っ掛けに、『バーナード嬢曰く。』五冊をこれから読み進めるつもり。

2020年8月26日(水)

青果売り場はメロンとすいかが消えて桃が減り、梨やみかん、ぶどうが並ぶようになってきた。桃が並ぶころの売り場はほかの果物も織り交ぜた芳醇な香りがして、それを吸い込むのが好きだった。世が世なだけにそうしたことは当分できないだろなあ。近隣の梨園にはことしも営業を知らせるのぼりが立った。あれを見ると実りの季節だと思う。祖父がいたころは収穫だといっては畑仕事にかり出されたり、冬が来る前に済ませたい種々の作業のために呼ばれもしたのだけれど……。祖父宅と同じ敷地内に住むいとこたちはこの秋にも地元を出て行くそうで、屋敷全体の手入れはそのあとから行いたいと母が言っていた。知っている風景が滅びゆくさみしさに慣れるまで耐えたり、新しい風景の中に居場所を手に入れたりしていくことは、わざわざ言及するまでもない人の営みなんだろう。いまくらいの年齢になって初めてこうした感覚に実感が湧きつつある。

2020年8月25日(火)

春先から手を付けていた『たのしいムーミン一家』を昨日の夜に読み終えた。冨原眞弓さんが仰るところの夏の章は光に透明感があり、ずっとそこに浸っていたくなる。季節の巡りに合わせてムーミンを読むのが長いこと習慣になってる。次に手を付けるつもりな『ムーミンパパ海へ行く』の作中で流れる時間は、八月の末から十月三日まで。普段から複数の読みさしを平行して(集中力に合わせて少しずつ)進めているけれど、「海」は今年もおおむねその範囲で読むつもり。家族の再生や一家の休暇といったものを軸にいろいろな読み方ができ、そのたびに新しく思い至ることがある、味わい深い作品だと思う。あの力強いラストシーンへたどり着くのが楽しみ。

果物市場を覗くついでに那須の園芸店へ寄った。身体に受ける午前の風は涼しく、これは夏というのではないな、と思うような肌触りをしていた。ディルやなにかハーブの種を見繕いたかったのだけれど、園芸店の種売り場は手が入ったらしく、少しばかりのハーブとあとはよくある野菜や花の種が並んでいた。季節柄だろうか。オミナエシの黄色が目に付いた。

2020年8月23日(日)

アシタバの花がいくつも咲きかけていたため刈り取った。花が咲くと株は枯れるそう。春先に猫の墓の周りへ植えたシュウカイドウは、うれしいことに、早くもピンク色のぼってりした花をうつむきがちに咲かせていた。茉莉花はいま咲いている花でお仕舞いかなあと見てる。花期を終えたら菊鉢へ植え替えるつもり。日中、強い西日に照らされる稲穂を見て、収穫の時期は近いなあと思う。

2020年8月22日(土)

日が傾いてきたころに来た雷雲はすごかった。積乱雲が発達するのに合わせて、雲の底は龍かなにかみたいに激しくうねり、それが雷鳴とともに続々と上空を通過していくのだった。山の上のような涼しい風が木立へ叩きつけ、次第にばらばらと雨も落ちてきて、夕立の本隊となった。残りの夏のぶんのらいさまをまとめて落としていったかのよう。

『バグダッド・カフェ』を観た。ばきばきと音がしそうな空の青さがよかった。そしてしょっちゅう誰かがコーヒーを飲んでいた。ヤスミンがお客たちにコップの手品を披露しているあたりの雰囲気が好きだなー。物語前半はみんな殺伐としていただけに、居合わせた人たちとお店の片隅でまったり盛り上がっている感じが、潤いが差してくるその過程の幸せに見えた。お店がすっかり繁盛したときよりも、その手品のあたりの場面が好きだ。

2020年8月21日(金)

古い映画を観てますと医師に話したら渋いですねと言われた。もうちょっと減薬できそう、という話をする。『天使のくれた時間』を観た。よかった。天使というには少し物騒なあの青年が言う「煌めきを見せてる」って、ちょっと飛躍するけれど松崎ナオ『川べりの家』の歌詞で言うところの「一瞬しかない」なのかもなあ、と思う。いなくなった人たちのことを思って少しさみしい。

2020年8月20日(木)

『ミツバチのささやき』観た。クラフト・エヴィング商會『アナ・トレントの鞄』に頻出するので気になってた映画。始めのほうで母親が手紙にしたためていた「人生を本当に感じる力」って、現実と幻想のあわいを行き来するアナの(子供の)感じ方のことかも知れない。なんかみっしりしたものが水面下で静かに圧迫感を持っているような、ほのかな不穏さもあったように思う。見終えてからDVDのパンフレットやあらすじを読むと、舞台となる40年代のスペインでは内戦が終わり独裁が始まっていたそうだから、そうした当時の情勢を反映しているのかも。映画の中の映画としてフランケンシュタインがでてくるのだけれど、僕はそちらを履修してはいなかった。いずれ視聴できたら。ラスト近くなり、連れ戻されたアナを診た医者が「(ショックを受けたことは)少しずつ忘れていくよ。大切なのはあの子は生きてるってことだ」と母親に言うのだけれど、最後の場面でアナは月の光の下、精霊と話をしようとしており、それはアナがなんらかの価値観に抗うかのように見えた。『アナ・トレントの鞄』で触れられていた(たぶん有名な)少女二人が線路の上にいる場面を見ることができてよかった。

2020年8月19日(水)

ライムライトを観た。チャップリンの映画は比較的短いものならいくつか観て知っているけれど、今回のはがっつり尺があった。カルヴェロの拗ねは分かる気がするよ。そうした感情に任せるせいで別れがきてしまう。きのうは大学の先輩と久しぶりに少しやりとりをした。そのことを振り返りながら買い物へ向かっていると、受ける風が急に雰囲気を変えたように、懐かしく感じられた。もうここにない風景の記憶を感覚から引き出すことと、懐かしさも予感も等しく時の奥行きを見透かすものだということを思う。