モニターを梱包して引き取りにきてもらい、元通所先へ面談の相談についてメールを書いた。会社員/被雇用者以外の形態で収入、生計、暮らしを立てていた経験のある方が居たらお話を伺いたい、という内容。いつかそういうのを選択肢として持っておくのもありかなと思ってのこと。きょうはこの二件をこなせたら達成と捉えていたので偉業。うまくできないことだってよくあるからね。というかきのうよりはましだけれど体調由来の不安感が強めで耐えるように過ごしていた。そのわりにはお決まりの反芻思考はあまりなくて、買いものへ出かける夕方の車内でいまじぶんはとりとめのないことを考えているなあ、呪詛で占有されていない思考って気ままに考えるものなのだなー、と思ったりしていた。不安を感じるときは原因を、体調/状況/対人、に切り分けて捉えてる。体調はそのまま寒さや疲れがたまっていないか、睡眠不足や栄養不足がないか、気分転換になる動きはあるか、など。状況は幅広くて、直近の身近なストレス、居場所や避難先があるかとか、生活していく上での不安要素がどこにあるかとか、幼少期の愛着まで含む。対人はそのままで、他者の揺らぎを受け取っていないかとか、境界線に迫られたかどうかとか、解釈をじぶんひとりで増幅させていないかとか。とりあえずで原因を切り分けられると不安への耐性が持てるから、漠然と不安を感じているときにはその根っこを把握できると個人的には楽。不安は種から芽生えて枝葉を伸ばすもので、具体的なことから漠然としていくもの。そうしたいつのまにか生えてきたよく分からない雑草については、それをよく眺め、観察し、触れて、口へ運びよく味わってみる。不安は基本的に身体の声なので、じぶんと呼べる者たち皆でその雑草を味わいしっかり分かち合うと、身体は安心して不安をすこし弛めてくれるみたいなんだよね。でもこんなことをする前に具体的で確実なケアを見つけておくほうが早い。じぶんの場合は睡眠と長湯。睡眠はとても強くて、これができると心身不調も翌朝にはとりあえず、にできると感じる。これがうまくできないまま過ごした長い年月のじぶん、よく生きのびたものだね……。寒さが身体に溜まってくる夕方は具合がよろしくなくなってくるのだけれど、二時間くらいの長湯は自覚できるくらいには気分を持ち上げてくれるんだよね。きょうは一行くらい書きつけたらおふとんへいって養生しようと思っていたのに、なんかとりとめもなく書くのだなー。そんなに書きたいのかと問うと、とくにそんなことはない感。ここに雑記を書きつけるのって、じぶんにとっては一日の終わりの禊ぎのようなところがあり、一日を通して思考に浮いたり溜まったりした灰汁や澱をすくい取る作業でもある。そうしてすっきりした気分でおふとんへ入ると眠りも気持ちよいというか。いま吉本隆明、糸井重里『悪人正機』(新潮文庫)を読んでいて、いまのじぶんには吸い上げるように届く本だと感じてる。仕事を二月で辞めたいと決めるにあたって、世間のこうあれという通念や周囲のよかれという提案を退け、じぶんの判断を優先したのだよね。そろそろそうしたことが必要な局面は出てくるだろうから、正しさや通念へのカウンターを示してくれるこの本はたいへんな滋養。いま思い返したのだけれど、こうしてただ乱雑な思考のうちをとりとめもなく書き出す快があるときって、具合はそんなによくないときのサインなのだった。明らかにそのようね。素直に眠っときなさい。おやすみ。
