神社のある高台から街並みと散っていく桜を眺めていた。陽差しは柔らかく風は穏やかに吹き上がり、下界の雑多な生活音が程よく聞こえてくるその場所でしばし、ぼんやりと愁いを抱く。神社の参道を逸れるけもの道に気付いてそれを辿ったところ、樹木の匂いがする森を抜け、桜に囲まれて半ば忘れられたような窪地の陽だまりの先に、普段は遠くから見るだけだった斜面の墓地が続いていた。セメント製の椅子とテーブルがいくつか設えてある。そこはどうも地元の人たちの抜け道か散歩道らしく、辺りの土はふかふかで靴が少し沈むようだったから、訪れるひとはそう多くなく、また日ごろから利用されているようだった。振り返ると桜のあいだから昇る昼の月が見え、遠く野外のステージで歌っている誰かの声が聞こえてきた。日が傾き始めていることに気付いて来た道を戻り、買い物をしにスーパーへと向かった。
叔父はおそらくあまり長くはない、というか、緩和ケアに移るために空き部屋を応募していると聞いた。近ごろは叔父に小言を言われるから会うことを避けていたのだけれど、そのうち顔合わせに行ってみるかという気になってる。僕の母方の家では去年に祖母が逝ったし、祖父ももうじき自分は死ぬと告白していた。思い出の風景が少しずつ変わっていく。
別にテーマにしているわけでもないのに春~初夏らしさのある本に、クラフト・エヴィング商會『テーブルの上のファーブル』(筑摩書房)があった。「昼月、昼酒、昼寝つき」「この世は昼でも月下です。」という言葉にピンと来た方は手に取ってみて欲しい。そういえば吉田篤弘の新著をずいぶんと読んでいないなー。