2026年4月12日(日)

五月のような爽やかな日差しと青空だった。そして風に当たっているといくぶん冷える。日中の物陰にはまばゆい季節特有の青みが乗ってきた。桜も散ったなーとあたりの木々を見つつ、切り替えのある気候だことと思う。桜がすっかり散ってしまうと、じゃ、もの憂いのはこのあたりでね、さあてここからはやることやっていかないと、みたいに足早な新緑の気分のようなものを感じる。そしてそれに追いついていけずにぼんやりしているじぶんのことも。葉桜が伸びていくなかで気持ちも身体も佇んだままなのは、学生のころからあいかわらず。あいかわらずというのか、この感覚は時をあっさりと越えてあのころと共にある、というのか。身体的。しょうもない話になるけれど、歯茎が腫れてしまい週末で病院がお休みなため、余りものの痛み止めと抗生剤でやり過ごしていた。おくすりに対するふしだらさも比較的あいかわらず。主治医から言われてここで触れていた「いまのじぶんに満足してみる」について別の角度から思ったのは、じぶんはじぶんに限界を認めていない、限界があるという前提をしていないな、ということ。一度は損なわれた機能であってもこの先は回復し続け緩やかに上昇し続けるみたいな想定がある。その側面で言うと障害を負うということに無自覚とも言えるのだろうか。そのあたりにおいて諦めるという発想はそもそも知らない潔癖な感じ。んー、どうだろうねえ。できることとできないことを受け入れろ、というのも違う気はしているんだよ。でも、このあたりの考えについてぜんぶを一度に書き出さなくてもよい気がしている。夜はまだ冷えてルームシューズが要る気温。ポケモンZAはひとまずエンディングが流れ、しんみり。ストーリーはまだ続くようす。キーボードを打つ手が止まり、なにか思案していたことはないかと頭のなかを見渡している、この感じがもしかしたら居心地はよいのかもしれない。書き出すだけ書き出したら一時的に空になる、その瞬間は、瞑想しているかのように思考がなくて軽い。ふだんほとんど触れないことだけれど、大変な時代だと思う。情報革命という苛烈さのなかにいるし、疫病も戦禍も日常的に触れているし、個は分断されやすく、欲望と抑圧が社会経済を駆動している。勝ち筋に乗るというやり方は個人的にしたくない一方、ちゃんとしなければという自己監視も強引に強いられたくはないなという思いがある。平穏はほしいものだけれど、それについてのさまざまな条件や留保、意味づけ、じぶんがなにをするのかということになると、歯切れのよい語りにはならない。夜更かしの時間を明朝へ回せるならよい傾向だね。おやぷみ。

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