なにもせず過ごす。なにもせずというのはぬいたちと過ごしたり、花や風景を眺めたり、インセンスを焚いたり、ネイル塗ってたり、勝手に走る思考に任せたり、音楽に合わせて口笛吹いてたり、じぶんたちの声に耳を傾けたり、仔猫の相手をしてたり、ほかにもいろいろ。なんとはなしに5年前のいまはなにしてたっけとここを振り返ると、2021年4月末からNPOさんと関わるようになり本格的なリハビリへ入っていったようす。まずはひとと関わり社会性を取り戻そうというところから始まり、五年かけて仕事を辞めるまでの一連の経験をひととおり身につけ、ひたすら前のめりで走ってきた疲れを取ろうと休息に入っているのだな……。五年かー。長いとも早いともつかない、両義的な感じ。当時の思いとしては、踏み出したらひとりの安寧には戻れないよ、さりとて現状のままでいくといつか厳しくなる想定でいるほうがいい、現状もじゅうぶんしんどいのだから、他者に揉まれるしんどさでしんどさを越えていく見通しを期待してみようか、くらいだったと思う。漕ぎ出したらましになるかなという期待は、雑に言うならうっすら思っていたようによりきつくなってるし、お真面目に意味づけするならよく成長しているね、というところ。ひとつ感じることがある。本格的なリハビリに入る前な五年前の文章からは、いまよりも俯瞰が効いてじぶんをすこし離れ冷静に見、感じている視点を感じるんだよね。逆に言うといまの文章からはじぶん自身との間合いが近すぎてほかのものが見えない、周りの描写が効いてない印象。引きの撮りかたに対する寄りすぎる撮りかた。ずっとじぶんと向き合ってきたとはいえ、それゆえその自意識の窮屈さに気がつかなくなっているとしたら、自己と距離を置くのは選択肢。端的に五年前の文章には自然の感受が多く、またそうありたい、風通しや気持ちのゆとりを持ちたいと感じる。いまがその機会ということでよいのだろう。どうやって? というのはね、型から入ってみてもいいんだよ。疲れて閉じた生活に由来してもいるわけだし、ここに書きつけるネタのために外へ出てなにかを見てくるとかね。遠くを見よう。季節の現れを探してここに書けたらじゅうぶんに行動してるよ。……と、ここまで書いておいてきょう考えていたことを思いだした。じぶんに駄目出ししすぎ! 向上や変化を要求しすぎ! 休んでるときはほんとになにもしなくてよくて、それが唯一であるし近道でもあるの! まあちょっと距離置いて自然のほうは向くけどさあ。それから思ったこととして、ぜんぶ許してもいい、ぜんぶ過ぎたことだしね、許すというのも謎だしどうでもよくなれるし、これからのことは自由な白紙として手に入れたんだから過去の感情は心底手放してもよいからね、など。
