午前中は元相談員の方と会って書類にサイン。そのあと元通所先へ立ち寄り建物の写真を撮った。うちへ帰ってきてからはその写真と併せてクチコミを投稿するなど。ほか、本を読んだり、のんびり。これが他者の言動に過剰反応してネガティヴ感情を増幅させる、じぶんの神経の誤配線だ、と腑に落ちる出来ごとがあった。ある種の認知の歪みと言い換えることもできるかもしれない。神経の誤配線≒生い立ちの傷。それをそうと捉えられると抑制が効いたようで、荒れそうになった感情はやがて静まったのだった。脳神経の配線には可塑性がある、というのが傷からの回復においては前提となるし、ポリヴェーガル理論だと制御できたという体感の積み重ねを重視するので、きょう腑に落ちたこの自己認識は大切にしよう。認知の歪みや愛着の傷というものについて考えていても、これがそれだという認識はなかなかむつかしいものだと思う。じぶんはなにかしらの考え方というものについて、腑に落ちて体感として身体に落とし込むという捉え方を通らないと理解に至りにくいんだよね。素直に外部の思考を採用できる要領のよいひともいるのだろうけれど、まあいいや。じぶんはこのありようをしているし、これはこれなりにうまくいっているよ。この誤配線は、こちらが内心怒りや不満を向けている他者と自己が内的に対立しているときの、その対立構造をつくるもの。対立を生じさせるのは自他境界の曖昧さからくる他者の他者性の受け入れがたさによるし、境界の曖昧さはそれを踏み荒らされた経験の積み重ねでできているだろうし、ひとりを好む性質がある時期において苦しめられた経験から、協調という生き残り戦略とのあいだで極端に揺れ動くようになってしまっている、その未だ解放/統合されずにある生存への苦しみとも言えるし、遡れば守ってもらえなかった、放っておかれたという生育過程での愛着の傷へと辿れる。これらによって形づくられているじぶんの側面は現在でも、こころに穴が開いているタイプの人々のパターナリズムや依存/支配/搾取性といったものを刺激するようで、そうした人々をこちらに引き寄せる要因になっている。……ここまで書いていて、考えていたことをふと思い出した。なにか嫌な言動を受けその場で言い返せずに不満をため込んでしまうタイプの人って、じぶんも含め多いと思う。こうしたひとに向かいがちなのが、その場できちんと言い返すべき、主張をするべきという意見。それをしないからそうなのだ、と。とても正論に見える。こうしたことについてはつねに表面の問題と根っこの問題、上流と下流の問題、そこへ至る経緯があるのだけれど、えてして行使しやすい論というのは表面や下流の話になっていて、それを形づくるおおもとの問題を扱わないことで論を強く雑にしている。この話でいうと、「なにか嫌な言動を受け」の際に発生する受け手の、とくに感情面での反応。ざっくりいうと、もし愛着形成に課題があったりするような場合では感情を受け止めてもらえたという経験が不足していることがあり、そうなると成長しても自身の感情把握がうまくいかなかったり、それに時間がかかり手間取ったりする場合がある。また、こうしたケースでは即座な闘争/逃走反応に向かえず、背側迷走神経系優位な凍りつき反応で対処してしまうこともある。このような「その場での反応が出遅れ、即座に処理できず溜めてしまう」人たちのバックグラウンド(ほかのケースもあるだろうけれど)を想定した場合には、その場で言い返すべき、という意見は雑駁であり行使しにくくなるはず。持論であるけれど、相手にそれなりに関わるつもりでなければ、その相手にこうすべきだという論調を向ける気はしない。もし自らの正しさを受け取ってもらいたいとしたら、その正しさだけでなく対話や信頼関係、引き受けが要ると捉えてる。……話を元に戻すと、いまじぶんが対処すべきフェーズとして念頭に置いているあれこれの課題は、誤配線がここにあるという、きょう腑に落ちた感覚で取り扱いがしやすくなるはずなんだよね。書いていたら長くなってしまった。ほかに浮かぶ考えがあるならそれは別の日に。ここで切り上げて、あとはのんびり過ごそう。
