2025年12月8日(月)

あー腹立つ! じぶんを担当してくださっている支援組織(のひとつ)の方が職場に最初の挨拶と情報共有にいらしたのだけれど、雇い主である奥さまはあなたたち(支援組織)のやってること分かんない、うるさいうるさい! とひとしきりキレ散らかしたのだった。こちらへ向けて、そんなふうに人の手なんか頼っていたら大人になれない、大人になろうよ、とも。抑制が外れてまくし立てた彼女に割って入り、担当者さんとはおもての駐車場で話した。二人して目をこすり鼻をすすりながら、たぶん悔しくて。感情的なショックを受けると身体は数十分でひとまずの調整をするもので、そのあいだに揺らいだ感情を抑圧せずしっかり外へ出しておくとあとに引きずることが減る、そんなふうに理解していたから、そうなるように話した。障害への支援サービスがじぶんにとってどれほど大切で必要としていることなのか、その認知度が一般にはこういうことなんですねということが、繰り返し自分の口から出た。こちらとしてはいまの感情について話すことでお互いの受けたショックを振り払いたかったのだけれど、担当者さんは私の方が支えられていますねと仰り、矢面に立たされたその方が感じた怖さを思いつつ、その言葉がなんだかありがたかった。支援職という立場とその現場についてのあれこれを思う。身体が冷えはじめるころにはお互いすこし笑えるようにもなり、挨拶をしてお見送りをし、そのあとじぶんも退勤し、元通所先へこの件の情報共有の電話を入れて帰宅。もうそろそろじぶんも求めていない他者の言葉をそのまま受け取るつもりはなく、分からないなら適当にしておくこともできただろうに、勝手に耐えきれなくなったひとが残念な自己紹介をした、と解釈してる。私はものごとが分かるという自負に真新しい概念=理解できなさが乗ったときの我慢ならなさと拒絶。戦中戦後生まれって、自分の力で生きてきたという自負=裏を返せば助けが欲しかったとき誰にも頼れなかったという意識が自覚はなくともとても強いようで、おそらくその延長上で、差し伸べられた手を信じて握れるじぶんのような存在に強いジャッジを繰り出すことがある、と見てる。大人がどうとかその手の人格への批判を持ち出すのも、そこに自意識のこじれがあってそうせずにはいられないことで、そこにあるのは孤独ではないかな。奥さまは、私と彼は直に向き合っているのだからそれだけでいいということを強く主張したけれど、だったら後ろから撃つなボケー。雇用関係というのは事実上非対称なの! 理解してよという要求は捉えようによっては一種の暴力かもしれない、でも爆発するのは別の問題。かっとなった勢いで他人をやり込めると自分自身への整合性がとれなくなってあとで辛い気分になるものだと思っているけれど、せめてそれくらいのひとではあってほしい。その場で誰のメンツも潰さなかったつもりだし、他人の協力を取りつけることがいかにむつかしいかとか、あちらとこちらという安易な線を引かないようにとか、じぶんだって複雑さを抱えていられる力=ネガティヴケイパビリティを試されているんだよ、といった内省もないではないものの、じぶんは理不尽に感じたのだということについて、無理に客観視をしたり、えずきながら飲み込もうとしたり、内心で物わかりよくなる気は毛頭ないなー。じぶんがどんなとき誰のほうを向くかわかりやすい……。書いたらすっきりするかと思ったけれど、まあ微妙よね。さいきんは内受容感覚というかおなかの消化器あたりの感じが分かるようになってきて、そこはいまもまだやや冷たくて嫌なぎゅっとした感覚がある。この身体は大切にされるべきもので脅かされてよいものではないから、今夜はのんびりしておなかの緊張を和らげよう。。。

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