2025年12月10日(水)

仕事はお休みの連絡を入れた。脳で身体をいじめるのはもう止めたいでしょと思っていても、ぐるぐる思考のループにはまると出口もなく煮詰まってくるもので、久しぶりにじぶんの呪詛にあてられていた。夕方ごろふと、こういうアプローチを試してみるのはどうだろと思ったとたん、気分が変わった。こちらが一対一で直接に説明することには状況的に見込みがあるかもしれない。ひとに理解や協力を求めることはむつかしいし、分からないひとは分かりたくないひとな可能性もあり、分かってほしいという姿勢にはつねに暴力性が潜んでいる。それでも「向き合っているのだから言いたいことや嫌なことがあるなら私に直接言うはずだ」という言葉が出たならそこを支点にしてみる。ひとまず対処を試みること、具体的な対処の筋道をつけて行動しようとするとき、悩むことから解放されると感じる。では、先方が「分からない!」と言った領域はどこか、どのような言葉にすれば伝わりやすいか。じぶんが健常者のように振る舞えるため実情が伝わりにくいこと。障害者扱いしないのが本人のためだし尊厳だというロジックが相手側にはあるかもしれない。先方の認識は尊重しつつ、この疾患がやはり重い病気であることをどう伝えるか。向こうのメンツを立てること。回りくどいことには怒り、腹が据わっていることはよく評価する相手なので、単刀直入だと通りやすいこと。2000年以降大きく変化し整備されてきた障害者を取り巻く法律/雇用環境について、それ以前の価値観である相手に最低限どこを押さえてもらえたら助かるのか。障害者雇用促進法というものが施行され、こういった支援や福祉サービスを受けることは現在では権利であり、そのために支援組織や人員の関与、連携が重要なものであるし、それを職場が排すると法的に問題があるかもしれないということ。障害者差別解消法により、事業者には合理的な配慮の提供が義務づけられたこと。このへんは読まれなくとも資料を用意していくと効果があるかもしれないし、元通所先のスタッフさん方やこの件を食らった相談員さんに相談することで重心や勘所が掴めそう。現状のままだと職場と支援組織との接点が失われるぶんサポートに影響が出るかもということで、この件についてスタッフさん方にメールというかたちでも伝えておくと、じぶんによりリソースを割いてもらえるかもしれない。関わってくれるひとは多いほうがよい。いずれも先手を打って主体的に動くとよりよい流れになる気がする。高齢者の認知リソースに収まるようシンプルに伝える。結局という言葉は好きではないけれど、結局のところは高齢者に認識を変えてもらえないかと意図しているわけで、年齢的にそれはさして期待できないことだというのは前提としてあったほうがいい。これは複雑な社会問題であって、そこをひとことで言い切りたいひとであれば、根本的に伝わらないかもしれない。見方によっては操作を試みるとも取れるのだし。面倒くさい、嫌だと言われたらいったんそこまで。ここまで書いておいてあれだけれど、いまじぶんは正しい側にいてそれを伝えたいのだという暗黙の前提があり、そこから間違っている一面は考慮したほうがよいね。思い通りということはこの世にあり得ないのだけれど、状況に即して誠実に振る舞えたと実感できたなら、それだけ冷静かつ適切に判断を切り替えることもできる。無理だと感じたらサンクコストに囚われず去るという選択肢だって保険として持っていていい。じぶんは根本的なところで自由に生きてよいし、じぶんで下した判断を納得して引き受けられるなら、むしろ爽やかになれるように思う。うまくいかなかったらなんて不安は先取りする必要がなく、できることから気長に試すのが吉。対処しようとする姿勢から生まれる力強さを感じていい。よし、この方向性を試せそうか、スタッフさん方に相談してみるのがよさそう。もう日付が変わったし、これ以上考えるとそれはそれで煮詰まるから、きょうはここまで。

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