五月三日から六日まで、三泊四日の小旅行に出掛けていた。栃木の北の端っこから犬吠埼へ、そして茨城沿岸を北上するために、買い物かご付きの黄色い原付で出発。現地からの実況を少しばかりついったやわっさーへ投稿しているので、気になる奇特な方はサイトのinformationのリンクからどうぞ。
初日。暁の出立。上着は三枚着ればいいだろうと読んだが、これは初っぱなから最後まで裏目に出続けた。夜明けはとにかく一番冷え込む時間帯だ。昼ごろ茨城の海へ出るまで、コンビニを見つける度に暖かい缶コーヒーと煙草で小休止を入れた。那珂川沿いの国道294号線を南下。途中で三毛の美猫と出会う。にゃ、と鳴きながらすり寄ってきて、写真を撮ろうとしている内によそへ行ってしまった。その先で飼い主らしい女性が「あきら、おいで」と言って連れ沿って行ったから、あきらさんは賢いんだなあと思った。そして水戸市街で迷うこと暫し、何とか海沿いの51号線へと出る。そこから四時間程掛けて、灯台の見える犬吠埼の君ヶ浜しおさい公園へと到着。小雨の降る強く寒い北風の夕方だった。早速灯台と原付の写真をデジ一で撮っていると、大学生らしき数人が寄ってきてコンデジを見せ、集合写真を撮って欲しいという。ふと見やると海を背にした欄干の前で十名程の僕よりも若い一行がわいわいやっていた。サークルかなんかだろうか、思い出の写真が欲しいのかなあ、などと考えながら快く引き受けた。じゃあ撮ります、いち足すいちはー? なんて僕も調子の良いものだ。何枚か撮ってカメラを返すと幾人もからお礼を言われた。こんなことは悪くない。そうして一行が去った後で、防風の植え込みの脇に、海側へ面するように手早くテントを組む。テントの中で濡れたジャケットを乾かし暖をとるため、Zippoの携帯用ガスコンロでお湯を沸かし、コンビニ弁当と熱い豚汁を頂いた。磯のとどろきや風のうなり、屋根を叩く雨音、色んな音に包まれて煙草を吸いつつのんびり。そのうち夏用のシュラフにくるまり瞬く間に眠りへと落ちた。
二日目は未明から気持ちの良い晴れ。ガスコンロで湯を作り、ルピシアのボール型茶こしに詰めた茶葉を湯の小鍋で淹れる。海が燦々と輝き潮風も心地よい。アールグレイを飲みながら太陽の下で改めて眺めると、犬吠埼灯台は白亜の巨大な塔だった。ひとまずコンビニ弁当を平らげてから、君ヶ浜の磯をぶらぶらと歩いてみる。がらくた蒐集が趣味な僕の御眼鏡にかなうものはあまり見当たらなかった。小石を幾つか拾ってはポケットへ転がしてまたぶらぶら。気が済むまでそうやって、その気になってきたところでテントと荷物を畳み、崖の高台の上の灯台へ向かった。
灯台には二つ駐車場があったが、僕はどうやら遠回りをするらしい近道と書かれた入り口へ来てしまったらしい。お食事処や宴会所、土産物屋へ続いている廊下の脇にソファと灰皿、電気のコンセントが見つかったので、しばらくそこで一服しつつスマホの充電というか盗電をしてしまった。廊下の往来を観察して、コンセントに刺さっている変なものに気付く人がいないようなのを確認すると、僕はふらふらと土産物屋の方へ歩いて行った。途中でお食事処のおかみさんとすれ違ったので開いている時間を訪ねたのち、お土産の品々を物色。どこの土産屋でも良くある品ばかりだが、それがかえって旅情のようなものを満たしてくれる。漁船用の壊れた集魚灯が1500円とか2500円で売られていて、これは少し欲しいなと思った。が、似たようなものは二、三年前に大洗の海辺で拾い自室の机に飾ってある。結局、水色ラメ入りイルカの蛍光キーホルダーを買った。これは小学生かそこらの頃同じものをどこかで買った記憶があり、懐かしくて手を出してしまった。そのうちふらりと灯台のある方へ向かった。
鯉のぼりの掲げられた犬吠埼灯台──道案内の犬吠埼にはInubou”sa”kiとローマ字が振ってあった──の入り口で東日本大震災宛ての募金チケットを買って、まずは資料展示室へと入る。リチャード・ヘンリー・ブラントンという人のブロンズ像があった。明治政府の御雇外国人だったということだ。日本の近代航路標識事業の創設を主として、鉄道・電信・都市計画など多岐にわたる分野で業績を残した人であったらしい。僕はパソコンにいっとき灯台画像フォルダというのを作って収集していたから、こういうお雇いさんにはかっこよさとロマンを感じる。 一通り資料を眺め、読み、念を入れてデジ一で壁の説明を丸々取り込み、予備知識も万端と言うことで灯台へ上ることに。犬吠埼灯台の回り階段は九十九段あった。結構息の切れる階段だ。降りる人と上る人とで道を譲り合いつつてっぺんへ。狭い潜り戸をくぐると眼下に煌めく太平洋があった。うむ、素晴らしく何も言うことはない。旅の幾つかの目標のうち、一つがこれで果たされた。感動のままに再び階段を下りる。出口のところで資料展示館というのが目に入ったので、とりあえず入ってみることにする。モザイクタイル写真の灯台の絵と、資料で読んだ灯台のレンズ、フレネルレンズというものの原寸見本らしきものがあった。きらきらと輝いていて綺麗だ。無数のプリズムを組み合わせて作られているためこのように見えるそう。
……犬吠埼灯台の光源はメタルハライドランプが使用されており、第一等のフレネルレンズを通して36km先にまで達します……灯台のレンズは、レンズの焦点距離で表のように等級が決められています。そこで第1等レンズを使用している灯台を第1等灯台と呼びます……現在、1等や2等の大型の灯台レンズが新しく制作されることはなくなり、反射鏡と組み合わせたり、フレネル・レンズを複式にした、小型で高性能の機種になっています……
とのこと。展示館には犬吠埼灯台の様々な写真や船乗りたちのロープの様々な結び方などが展示されていた。
ひとしきり灯台欲を満足させたところで先のお食事処にて海のものを戴くことにした。表の日の光を良く取り込んだ和風れすとらん「船主」へ入り、奥の席で壁のメニューとお品書きを交互に眺める。サザエのつぼ焼きなど美味しそうではないか。迷った末、刺身定食と一緒に注文をお願いした。前者はすぐに運ばれてきた。生きたサザエを火あぶりなのだ。次第に香ばしい潮と野生の香りが漂ってきた。貝の蓋がきゅっと引っ込んでぐつぐつと煮える。見計らって火箸とフォークでこじ開けて下さいね、と言われたが、慣れない手つきで蓋に挑戦しても中々隙間にフォークの先っぽが刺さらない。ちょうど刺身定食を持ってきたおかみさんにお願いすると、するっとワタまで引き抜いてくれた。お礼を言ってサザエに食らいつく。うむ、苦くて旨くてこりこりしていて。ビールなど欲しいと言ってみたくなったがこの後また原付で走らねばならないのでやめておいた。刺身定食にはわさびがたっぷり乗っている。ああ、ここで旨いもん食べながら酔っ払ってみたい、心底そう思った。大根のツマまで一筋も逃さず食し、腹がくちくなったらお会計。食後の一服と言うことで店を出、廊下の出口そばのソファに腰を下ろして電気どろぼうが済むまでボケッとしていた。
さて、来た道を戻らねばならない。次の日に大洗と那珂湊を巡るためだ。午後一時半頃に犬吠埼を発ち、国道124号と51号線を北上する。距離およそ100km、四時頃に大洗海浜公園へ着いた。原付から荷物を下ろして駐車場へ近い砂浜にテントを張る。夕闇が迫っていたが、陽が完全に落ちるまで、まだしばらく間があった。ビーチコーミングなんて洒落たことでもと、めぼしいものを拾いに海岸へ歩いて行くと、浜の高いところにハマグリやらシジミらしい貝殻が呆れる程転がっていた。多分3.11の津波の時に打ち上げられてしまったのだろう。辺りは別段臭わなかった。波打ち際を歩いていると、だんだん潮が満ちてきているらしく、ちょうどそこに今洗われようとしているハマグリの貝殻がぽつんとあった。思わず持っていたデジ一で連続撮影。こういうさまは『前髪焦げた』でのんべんだらりと書いているお話の挿絵にちょうど良いんじゃないかな、なんて考えたり。ヒトデの干涸らびたのや白い貝殻を幾つか拾ってテントへ戻った。コンビニ弁当と豚汁をがつがつと食べ、煙草を好きなだけ吸い、地吹雪のように飛んで打ち付けられてくる砂の音を聞きながら、気がつけばぐっすり眠っているのだった。
三日目。暁よりも早く起床。今日という未明を楽しもうと、リュックの中にとっておいたスコーンやクッキー、チョコレートなどを取り出し、オランジュショコラの紅茶を淹れてのんびり夜明けを待つ。深夜二時かそこら頃、少し離れた駐車場で、何ともいえず珍妙な音楽を馬鹿でかい重低音でカーステレオから流している阿呆がいた。三時半頃に若人たちの駄弁り声。六時か七時頃にはサーファーらしき人が数人と連れ添いらしきいい歳したおねーちゃんたちがテントの前を往復していった。要するにここはそういう場所なのだ。が、テントの中に引きこもってガスコンロに鍋をくべ、表の朝の空気を取り込みながらのほほんとしていると、何も気にならないのが不思議な感じではある。時間を掛けて朝食を味わい、陽もやや昇ってきたところで腹ごなしに浜辺を散歩。波打ち際に誰かの足跡を見つけたので何となく撮ってみる。後で見直して気がついたが、この足跡、途中で消えているのだ。波にかき消されたんだろうか。何だか変なもの。
朝七時半頃テントを畳むことに。その調子でいけばアクアワールド大洗水族館へ朝一番に入ることが出来るはずだと算段したためだ。しかし、警備員の方々に二輪車駐車場を案内して貰いつつ入り口へ赴くと、既に家族連れたちが三組ばかり並んでいて、おまけに開館は八時半からだった。好きでやっていることだが、僕はイベント施設で並ぶのは相当苦手な方である。しかも後からどんどん家族連れや恋人組が後ろに並ぶ。前の方では一組の家族連れが揃って床というか地べたにあぐらを掻いて座っていた。旅先でなくともそういう光景を目にしてしまうのは情けないものだ。だがやがて時はいたり、入場ゲートが開いたのでその場を離れることが出来、ほっとした。
九時から「イルカ・アシカ オーシャンライブ」という演目がなされるというビラを貰ったので会場へ。前列の方は水しぶきで濡れますので……などのアナウンスの後にレジャーシートの販売タイムが挟まれていた。上手いものだと思ったが邪念は捨てることに決めているのだ。はじめにアシカのショウ。時折ズルもしたがいろいろな芸を見せてくれた。調教師との掛け合いが愛嬌たっぷりだ。一人と一匹で頑張るアシカの名前を聞いたのに忘れてしまった。確か女の子だったように思う。続いてオキゴンドウとイルカ二頭のショウ。大ジャンプをしたり水中逆立ちをしたり、客席のそばでお腹を見せたりと、イルカ好きにとっては辛抱たまらないひととき。いやあ実にめでたかった。約三十分の演目で、一日七回プログラムがあると言うことなのだが、連休末日だったためか一度目の会場は先着順であっという間に満杯だったなあ。
その後、水族館内を順路に従って巡る。見たもの、撮ったものは沢山あるが、とりあえず一番大きそうな魚、マンボウを。縦横共に人の背丈よりもでかかったかも知れない。そういえばエトピリカなんて鳥の名前を見て「ん?」と思ったのだけれど、家に帰ってきてからそれが「情熱大陸」のエンディングテーマ曲のタイトルだったと気がついた。Wikipediaには『エトピリカ:ウミスズメ科の鳥。エトピリカとはアイヌ語でくちばしの美しい鳥の意味。絶滅危惧種(環境庁)』とある。確かにくちばしの大きな鳥ではあった。水槽の中のラッコやアザラシがこちらを見つめているようなのを面白く思ったりもした。彼等は水の中では俊敏だ。ゴマフアザラシだったか、見ていると器用に壁でターンして泳いでいたっけ。
満足いくまで館内を見学し、入退出ゲートを再びくぐり、足早に土産物ショップへ入った。実を言うとこれが水族館での僕のメインイベントなのである。お目当ては動物のぬいぐるみ。この大洗水族館では過去二度、イルカのでっかいぬいぐるみをお連れしている。予算の都合が付く限り気に入ったものを連れて帰りたいと願って旅程に組み込んだのだ。原付に乗せられないような時は宅配便で送って貰おうかなとさえ考えていた。が。結局散々悩んだ末に、皇帝ペンギンの仔供のハンドパペットをひとつ購入した。肌触りはふかふかすべすべですんごく愛らしい。うちには僕と同い年のパペットウサギさんがいるから、これで対になるわけだ。ひゃっほう。
ぬいぐる欲も満たしたところでそろそろ那珂湊漁港へ向かうことに。適当な方向へ橋を渡って適当な通りの端へ原付を止め、適当な魚市場へと足を踏み入れた。出たとこ勝負である。ふらふらと人混みをすり抜けつつ市の磯と潮の香りを嗅ぎ、何だかいろいろ変わったものに目を楽しませていた。そこに魚の切り身売りのおっちゃんが現れ、本マグロの中トロ三千何某と書いてあるのをこれこれ一緒に買うなら合わせて二千幾らにしちゃるよ、とか言うのだ。値札にはなんの意味があるのか。よく分からないが美味そうだし景気もいい。その真鯛が食いたい、お幾らするのかと聞くと半額程度である。考えているうちにおっちゃんは真鯛二切れのパックをもうビニール袋に突っ込んで、氷貰うならあっちだから、と言う。千円札を渡すと何故かお釣りが返ってきて、おっちゃんはおう間違えたねえ、と笑った。何だか気持ちがいい。そんな空気に飲まれた僕はふらふらと歩いて回って、別のおっちゃんに、酒の肴に向いてるおっちゃんのおすすめ教えてくれと尋ねた。そうだなあ、サヨリの焼いたのなんか美味いよ。そう言っておっちゃんはもうかごに手を伸ばしている。30cm程の大きさの揃ったサヨリを六匹。塩振って焼くのさと教えて貰った。そうしてぶらついているうち、今度は生きたカキとレモンが山積みになっているのを見掛ける。当たり前だが大きさで値段が違う。どうやって生で食うの、とかどのくらい保つの、とか尋ねると、蓋開いたんなら一晩は生でも、と答えてくれた。焼いてもいいし生でもいいし、開いて貝柱切って、レモン汁ぶっかけて、と言うわけなので、三種類の大きさの真ん中を四つ売って頂いた。生もんだからあそこで氷貰ってね、タダだけど箱詰めするんなら四百円だよ、そう言われて、おばちゃんとおねーさんが受付をしているカウンターに発泡スチロール箱と氷をもらいに行った。これだけ買えば沢山だろうと思ったのだ。魚に貝に氷をどっちゃり箱へ入れて貰い、発泡スチロール箱を抱え僕はふらふらと市場を抜けて原付の所へ戻った。原付の荷台は小さいので、ゴム紐できつく括る。もうこの車にも僕の背中にも物を乗せる場所はない。
さて、出発……の前に僕は電話を掛けた。茨城県高萩の友人、Sさん宅へだ。彼とは連休に入る前、一度連絡を取っていた。そっちに遊びに行くから、ついでに寄るかもと。Sさんは勤務時間の不安定な職場にいて、急に仕事が入ることも良くあると言っていた。今日の夜、これから酒飲みに寄ってもいいかと聞きたかったのだが、自宅電話は出ないままだった。仕方がないかと思いながらも、僕の自宅への帰り道は高萩の国道461号線、Sさん宅のすぐそばを通るのだ。一応彼のアパートで待ってみるかと重たい装備で茨城沿岸を北上。住宅地で少し道に迷い、うろ覚えの彼のアパートを見つけた時は日が暮れるちょい前だった。夜に八溝山地の峠越えをするのは気分ではない。というか嫌だ。止むを得ずというかなんというか、僕は結局そのアパートの駐車場の影の片隅にテントを張り、Sさんが夜の間に帰ってくることに淡い期待を抱いて眠りへと落ちた。
四日目、最終日。アパートの電気は消えたままだった。ま、そういうことも時にはある。明け方に冷え込んだのでテントの中でガスコンロで暖をとり、陽が昇るまで待つ。朝七時半頃荷物を畳み、Sさんの部屋のポストにメモを残し、栃木へ向かって出発。道中、花貫渓谷の花貫ダムの脇を通り、遅咲きの山桜と木々の新緑のコントラストに目を奪われた。そこかしこにヤマブキが黄金色の花綵のように咲き乱れていて、道すがら山菜採りの方々を幾人も見掛けた。海のものも美味いが山の旬のものも美味い。多羅の芽など摘んで天ぷらや御浸しにするのだろう。国道をひたすら走り、まっすぐ自宅へは帰らずに道々の古本屋へ立ち寄った。水族館でぬいぐるみにさしてお金を掛けなかったことで割合な金額が浮いたままだったので、前々から揃えたいと思っていた蟲師のコミックを探し回ったのだ。数件巡って、蟲師全十巻の他に古本のオフィシャルブックを手に入れた。めちゃんこ重たくて背中が痛い。給油するため鄙びたガソリンスタンドへ入って店のじいちゃんにお願いしていると、満艦飾な格好の原付を見た彼は、旅をなさっているんですね、うらやましいですなあ、と微笑んだ。
そんなこんなで自宅の部屋へ帰ってきたのが六日の午後二時半。お腹も大概空いていたが、それよりも道中四日間リュックを背負い続けていたことでの背中の痛みと疲れの方が酷かった。うだうだと本棚に手入れして、夕方お風呂に入ってすぐお布団へ潜り込み、硬くなくて寒くない安心できる寝床があることの幸せをしっかりかみしめ、ぐっすりと翌朝まで眠り込んだ。
持ち帰った海の幸については先日家族と食し、ついでに母が実家から貰ってきたシロキ(コシアブラ)の御浸しも一緒に頂いた。こうして僕は旅の思い出と共に海鮮と山菜をたらふく味わったのだった。Sさんに関しては後日連絡が取れ、夏になったら今度は必ず会って酒を飲めるようにしようと約束を交わし、一安心したところ。こうして雑記を書いていると長いようで短いような四日間だったと思う。どちらにしても今日の雑記は長いほう。細かく書けばもっと色々あったと記憶しているけれど、この辺で一区切りにしよう。
あ。昨日は母の日だった。母が祖母を那須のチューリップ畑へ連れて行ったので、同行して二人の写真を撮影し、プリントアウトしたのを渡した。それから取って置きの葛菓子と砂糖菓子をそれぞれに。喜んで貰えたようで、こんな機会でもないと何も出来ないから、ね。今日はここでおしまい。