仕事の帰りにカラオケをして、ホームセンターで仔猫のおもちゃを見つくろい帰途へ。棒の先にひもと毛玉が付いているあれ、あれで遊ぶのが気に入ったみたい。カラオケはね、歌うたび、楽しさの体感が微細にだけれど、着実に感じ取れるようになってきているのがわかる。流行った歌っていうのは流行るだけの理由があって、歌いやすさも兼ね備えているんだね。うまいとか下手とか気にせず聴くだけだったものを歌ってみる面白さがあるよ。夜になり疲れが染み出すのを感じる。今週はもうおしまいにしておふとんでゆっくり。
2025年10月14日(火)
うちでのんびりして仔猫と過ごす。ぽつりぽつりと雨粒が落ちる曇天のもと、部屋にはストーブがあり暖かで、外の風を嗅ぐこともできるし、読む本もあればぬいも撫でており、仔猫が周りをうろちょろして遊んでいる。なにひとつ不足がないことを思ってほんの一瞬だけくすぐったいような感じがした。千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)を読み終えた。この本、誰もが思い悩むような事柄について考える足場がふんだんに提供されていて、しかも批判をくぐり抜けてきた哲学を咀嚼してもらえるゆえ確かな力にもなってくれる印象。基本的には脱構築という考え方が中心に説かれるなか、おおーと思ったのは、家族中心の物語がベースという側面のある精神分析に対し、多様な関係のなかでいろんなチェレンジをしてじぶんで安定をつくること、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、ということ(ざっくり)を論理立てた哲学のことや、アイデンティティというものによって自分自身と終わりのない闘いを求められている近代以降の人々が、そこから一回り外に立つための哲学のことなど。終わりの「……身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。……」という言葉は行動に開かれていてよいな。哲学って、純粋に考えるためのものと人生哲学と呼ばれるものとでは性質が異なると聞いてる。タイトルの現代思想というのも両者を行ったりきたりして成り立っていることを思いつつ、生きる指針を得るためにはどちらも滋養になりそう。というか、よく言われるようなことっていうのはだいたい哲学者たちが通ってきた道であり、ひととおりの答えとより踏み込んだテーマがすでに用意されていることは、こういったものを知れば把握できそう、なのだなー。哲学がなんの役に立つのと問えば、主体的に生きるためにはごはん食べるくらい必須なのでは。仔猫はだいたいこちらの周りで遊んでいて、気が向くとドアの向こうの広いスペースへ出て行きまた戻ってくる。なんだか思うのは愛着について行われたという研究のこと。親という拠点があるから子は離れても安心して戻ってこられる/それが成り立っていないことがある、ということなのだけれど、仔猫を見ていてもこちらをよりどころにすることで安心してほかの場所を調べに行ける、というのが見てわかるのだよね。ひとも猫も似たところがある……。アクリルにいる「瀕死の火焔竜夫婦から卵を託された行きがかりの旅人」、そのひとはそれをどんなふうに引き受けていったんだろうと思っていたのだった。仔猫を見ているとそのあたりに腑に落ちてしまうような心の動きがあるように思う。
2025年10月13日(月)
それとなくお仕事するうちに時間が過ぎたのはよかったものの、長話に付き合うのはやめたいなーと思った。温めた昼ごはんが冷める。これは相手が話し終わってくれるのを待っている&いい感じの応答を醸してしまうこちらが悪いので、じゃあこのへんで、みたいに線を引いて切り上げる練習が要るね。いや、なんでも原因をじぶんに求めて他者は変えられないからとするのもそれはそれで均衡が取れてない。このへんはバランスが大切。日没後はかなり穏やかな気持ち。虫の声が減ってきたことを庭の暗がりから感じる。疲れを感じるから早めにおふとんへ。
2025年10月12日(日)
仔猫はもう大運動会の年ごろになり、体力が有り余っていくらでもケージの外で遊びたくて仕方ない、くらいに自己主張するようになった。とはいえ常時付きっきりで見守りながら遊ばせるのもひとの都合があるし……ということで、二階のスペースを掃除してそこに仔猫を放てるようにした。フローリングの目地まで全てきっちり綺麗にしたいし、置かれたまま使わないものや要らないものはまとめてクリーンセンターへ持ち込みたいけれど、それは後々。きょうはもうよい仕事をしたよ。と思いつつ、そのスペースの蛍光管を替えるためホームセンターへ買いものに行った。照明もそろそろLED仕様に工事をしたほうがよいけれど、一度に全てを完璧にというのは求めすぎであり、ここはひとまずこのくらいでよし。初めてそこへ連れてこられた仔猫はいかにも猫らしく探索をしていた。なんだか遊びたいようなのはそうなのだけれど、そのうえで人間が近くにいないと不満なのか心細いのか、こちらがドアひとつ向こうにいっただけで大声で呼ぶねえ。居室とスペースは行き来できるようにしておこうか。諸々の状況を鑑みてうちのなかを常に自由に過ごさせるにはまだ早いにしても、これで仔猫が前よりも遊んでいられる環境はできた。それとは別の話で怒りを感じやすいコンディションにあり、あー。交感神経優位、扁桃体の興奮、思考の反芻、このあたりはセットというか循環となってネガティヴな感情を招いているんだよね。そこで思考を止めれば楽になり解決というわけではないにしろ、マインドフルネスはじぶんを解きほぐすアプローチのひとつとして有効なのだろな。手元で読みさしなウ・ジョーティカ『自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義』(魚川祐司訳、新潮社)はこれ一冊でヴィパッサナー瞑想の核心を説く感じだけれど、じぶんはもっとゆるく型から入ってそれっぽく体験してみるための本が向いていそう。それからふだん使っている椅子の高さ調節用ガスシリンダーが壊れた。値段のわりにはそれなりに長く使ってきたことだし、これも買い換えどきだなーと思う。しばし逡巡して、ここから夜更かししたいのだなと感じる。こうしたときこそ早めにねむるがよい。おやすみ。
2025年10月11日(土)
なにもしていないけれど思考が走って疲れる日。そんな日ばかりとはいえきょうはわりとげんなり。ねむりましょう。
2025年10月10日(金)
のんびり。ストレートネックの気があるのではと思って簡単な方法で確かめてみると、軽くそのよう。それで首回りのストレッチをいくつか試していた。胸骨のあたりを開くストレッチも効果があるそうで、これはじぶんの呼吸や声の課題と大きく重なる部分でもあるだろうから、一連の要素として気に留めておけたら。愛着の傷や内なる子どもと言葉にすれば一言で済んでしまうけれど、これまでの歩みの総体なんだよね。一つの物語には回収されない生身の複雑性を、雲をつかむように多面的なアプローチで捉える、そのためにこころや認知だけでなくソマティックな方面からも、知識と技を織り交ぜて接する。……というのがおおよそ理想だと思う。ひとつは日常のいろいろな場所で安全の感覚を確認してみることだね。放っとくとひとりでひたすらのんびりしているだけにじぶんの提言がめんどくさいのだけれど、こんなふうに出てくる方針にはよいことがあるから、気の向く範囲でその声に従ってみる。いまはどの趣味にもさして関心が向かわない代わり、こうした事柄にはそれとなく手が伸びる感じ。
2025年10月9日(木)
おふとんのなかでぬいたちと夕近くまでを過ごす。身体と神経を弛緩させて力を抜く、というのはできるのだけれど、これではないなと思う。もっと意識の底のほうに凝り固まった防衛反応みたいなのがあるはずで、それを解ければ意識や身体が周囲に馴染むようなリラックスの感覚があるはず。意識の底というか神経系の反応や配線くらいの話であり、たまに手がかりとなるような感覚が起きるのはおもに体調やメンタルの揺らぎ由来であって、直接こうしようと思ってすぐに手が届くわけではないかも。まあね、取り組んでいる以上はいずれ変化が訪れるだろうから、ひとまずは深呼吸と安心/安全の感覚をじぶんに与え続けることだよ。車があると灯油を買いに行けてよいね。
2025年10月8日(水)
流感の予防接種を受けてアレルギーのおくすりをもらうなど。いま、夜更かしして朝。防衛を解いたときの安堵が押し寄せる感じ、それを前の晩の寝入りばなに感じたのだよね。体感の切り替えで再現できないものか。
2025年10月7日(火)
たらふく眠ってすこし遅めに出勤。きのうの続きで泥に足を踏み入れながらセイタカアワダチソウの除去を済ませ、ひと仕事終えたことにして適当なところで帰途。途中で一時間ほどカラオケ店へ立ち寄り、うちでひと休みしたのち病院へ向かっておくすりをもらい、お店でお寿司を食べた。なんか元気だね。あすは流感の予防接種の予約が入ってる。歌を歌うたびに口笛がうまくなってる感触がある(当社比)。使ってなかった階段をざくざく上ってる感じ。届いたスマホにデータ移行ちゅう。
2025年10月6日(月)
出勤したもののなんだかやる気なし。セイタカアワダチソウを取り除くにあたって泥のなかへ踏み込みつつ作業し、そこでメンタルが削られたこともあり、適当な理由をつけていつもより早めに退勤。じぶんの都合を優先したければすこしの面倒を惜しまずに話すことだなーと思う。帰り道、金木犀のやわらかい橙が地面に積もるように散らばっていて、こんなときは台湾烏龍茶の香りがするんだよねと香りを吸い込んでみたり。このあたりでの花期はもうそろそろおしまいか。。。日がな微妙に気だるいコンディションであり、こうしたときは早めに眠って目覚ましをかけずに起きるのがよいのだよね。澄んだ空に中秋の名月。
