2018年7月15日(日)

暑い日が続く。

昨日は雲巌寺へ向かい、境内の中をしばし散策した。当寺は観光寺ではありません、ここで考えたり感じたことを持ち帰って下さると嬉しいです(うろ覚え)、という立て札があった。JRが雲巌寺含む八溝地域のプロモーションを行っているからだろう、内心ぎくっとはした。この辺りは年中雲が湧き出す立地だからなのか、雲巌寺の周囲の自然は植生がちょっと変わっていた。そこかしこで木々の枝先に、苔だか地衣類の緑色したもさもさが大量にぶら下がっていて、どうもそれらは風から水分を得ているようだ。この辺りでは緑茶や紅茶が作られており、最近では烏龍茶も開発しているとか。いくらかの異邦観に栃木のダージリン的な趣を感じた。

2018年7月10日(火)

富安陽子さんの『盆まねき』をオンラインで注文してから、『キツネ山の夏休み』をこの夏に再読したいことを思い出した。後者は95年前後の課題図書だった記憶がある。

2018年7月9日(月)

環境によってこのサイトが表示されたりされなかったりする現象が、サーバーとドメインを移管した昨年末からずっと続いていた。で、その原因と解決が見えた。単刀直入にいうと、サイト全体の設定でSSLを導入すれば見える(閲覧出来ているはず)。保護されていないサイトはブラウザによって閲覧出来なくなる、なんてどこかのweb記事を読んでいたはずなのに、今さらだよ。スマホ向けのCSSも作れるようになった、作ろう。

日々の雑記だけでは味気ないし、その日目にとまった記事のへリンクや、時事のメモなんかをこの雑記に付け加えても良いかも、なんて考えたりしていた。そういったことが出来る便利な「はてな」は名前だけ知っていて、なんとなく利用を避けている……使う切っ掛けが単に無いのだよねえ。

Webというなんでもできる空間があるのだから、企業の便利なサービスに頼りっきりにはならずに、「自分で作る自分の巣」という姿勢を失わずにいたい。

忘れてしまうことの抵抗からここの雑記を付け続けていた、にしてはわりとあっさりと、一週間くらいの放置ができてしまった。そのあいだに西日本の広範に水害が起き、三年前の那珂川溢水氾濫よりもひどい梅雨明けの大雨となった。こういうときに外野ができることは、いつも通りに生活することだ。きっとあとから役に立てることなど巡ってくる。

Scoobie Doはいいね。僕がScoobie Doの存在を知ったのは、元はといえばFreeTEMPOの情報を漁っていたからだ。Namorada do Vento(FreeTEMPO echoed mix)のLPから『風の恋人-茜色が燃えるとき』を経由して『4×20』にやって来て、お洒落というより孤高さに好ましいショックを受けた。楽曲や歌詞にちらほら「夜明け」という言葉が散在しているのも好きだ。このバンドは夜明け前の最も暗い時間の黒でできているのに違いない。

そういうえば今日、散髪した。頭の風の通りがよいね。それらしい日に狙い定めて、少しばかりお山の空気を吸いたいと思う。

2018年7月2日(月)

サキは明け方の四時半ごろに逝った。僕は夜通し付きっきりで彼女を看ていて、それが今こうして少しばかり慰めになっている。

夕暮れに家族皆で墓を掘り、埋葬して花など供えた。彼女を包むため、十年来の愛用で彼女自身もよく遊んだかばんの中へ入ってもらい、僕は記憶のよすがにと思ってヒゲを一本もらった。

今日はひどく暑くて晴れた日だった。食欲はそれなりにあるけれど、落ち込んでしまうな。悲しみはあとから効いてくるのに違いない。しばらく、ぱっとしない日々が続くはず。

2018年7月1日(日)

今日の夜明け時と夕暮れに、蜩が美しく鳴くのを聞いた。たぶん今年の初蜩。

六月の眠りは嗜好品なんて気取って、寝しなの読書と共にそれをちびちび味わっていたら、あっという間に七月が来てしまった。戻り梅雨はあるかも知れないけれど、梅雨明け発表もあったことだし、夏到来だね。さよなら麗しい月よ。七月は現実が幾つもの層を作っていて、それらを透かしてものごとを感じているかのようだ。毎年そう。

サキは今日から水も飲まなくなった。もう少し。

このところ自分の中で急に株を上げているScoobie Doの、『4×20』という結成二十周年記念のコンプリート・ベストCDを、いま聴いてる。CD3枚+DVD1枚とボリュームがある。当面はこれと同『何度も恋をする』を聴いているはず。

2018年6月29日(金)

放っておくと一週間があっという間だなあ。今日、関東甲信で梅雨明けした。散歩もそれなりに続いてる。

サキは生存していて、いよいよ食事が喉を通ったり通らなかったり、黄疸なのか耳の内側が黄色みを帯びてきたりというところ。

2018年6月24日(日)

散歩コースを延長して、歩きでの一時間強を確保した。身体の動きが熟れてくる三十分経過くらいからわけもなく走りたくなる。感情が昇華される感覚があって楽だ。

2018年6月23日(土)

断片的に、いなくなってしまったひとの話をすることがある。曰く「~のおばちゃんにはいろんなことを教わらないまま、逝ってしまったねえ」というような。かぶと虫やきのこを採るといった山の歩き方なんかの、そういう土地っ子のフレーバーを継承できなくて、静かに残念に思う。それはどうしようもない。

祖母、叔父、猫と、今の周囲には死の陰が濃い。そのわりには自分が微妙に鈍感になっているというか、日常感が感覚の表層を覆っているというか。