2020年11月15日(日)

鍋が欲しい。土鍋でもなく、調理してそこから食べる、ずぼら者のための手頃な鍋が。ニトリにあるだろうかと見てきた。サイズ感は18cmがぴったりきそう。でも、そのサイズなら片手で持てるでしょということらしく、思うような両手鍋は見当たらなかった。長い柄よりも取っ手のほうが卓上では扱いやすいように思う。じゃあネットで探そうと考えて帰路。それからドラッグストアでプロテインの棚へ行き、ざっと相場を窺った。一度に買うとなると高いのだな。SAVASというブランドに一食分のトライアルタイプがあったため、そちらを何種類か見繕った。リングフィットのモチベーション維持になればと思うものの、気になる味がどんななのか見当もつかないな……あとで飲んでみる。暗所へ置いたヒアシンスが底からもさっと発根していた。しし座流星群の前哨戦のつもりでこれから空を見るつもり。明日の夜は水曜どうでしょう最新作が始まるらしく、録画せねば。

2020年11月14日(土)

ぐったりしていたら一日が過ぎてしまった。17日のしし座流星群は現時点で曇りそうな予報が出てる。出現期間の分布は長めのようだから、もう今日ではあるけれど、晴れそうな次の夜に空を見るつもり。2001年の流星雨は残念なことに見なかったのだよね。詳しくないけれど、ああいう大出現は百年に一度くらいなのでは。まあでも、空はいいものだよ。それからきょうはポケGOのコミュニティ・デイがある。アメの乏しいエレブーを捕まえておきたい。

2020年11月13日(金)

通院先の先生に、患ってみて失うものばかりではなかったかもと話すと、どこかしんみりしながら「感情が戻って明るい気持ちで前を向けるのはよいことです、愚痴をこぼしてばかりの患者さんもけっこう多いんですよ、そういう人は笑わないでしょう」とおっしゃった。まあね、さすがにこういうのはしんどいものね。先生も大変なんだな……。それから地元自治体の期日前投票を済ませた帰りに、空の橙と青のあいだに広がる藤色のグラデーションが綺麗で写真を撮った。Lightroomモバイルは慣れるととても便利だ。プリセットを作ったおかげで好みの加工は簡単になったし、最近になり刷新されたカラーグレーディング(明暗別色補正)は操作がとても感覚的になり、いい感じの色を見つけやすくなった。でも、自分の使い方はまだほんの小手調べみたいなものなんだろな。noteのワタナベアニさんの記事に、目移りしていろんな効果を写真に掛けても仕方がないから自分の一つの理想に近づけていくことをしよう、そうすればどの写真を見てもこれはあの人が撮ったものだと分かってもらえる、とあった。フィルムに手がかりがありそうな気はするけれど、ローライちゃんを持ち出すのはちょっと気後れする。リングフィットのカスタム機能で腕と腹部を30分ほど動かす。友達とやりとりしていて、いつか旅行へ行けたらいいねという話があり、世の中の状況もあるからふわっとした話題ではあったけれど、行けるときのために準備は少しずつしていこうと思うのだった。『今夜はうまいぞぉ!』と『ラジアンリミテッドフライデー』と、金曜の夜は好きなラジオが集まっていてうれしい。ラジアンF待ち。

2020年11月12日(木)

がっつりと掃除をする。その途中、物置のあたりに水耕栽培用のガラス鉢があるのが目に入った。じゃあ時期もいいからヒアシンスを育てようと思い、雑多な買い出しのついでにホームセンターを回って、大きな球根を一つ見繕った。ごく一般的な紫色の花が咲くやつ。いま手元でシャコバがつぼみを付けているから、このまま行けば寒くてこもりがちな季節にも、花の彩りを複数楽しむことができるはず。かなり小ぶりなプラ鉢は外のムスカリなど持ってきてみよう、と思って手に取ったもの。日中ばたばた動けていたわりにキーボード掃除が残ってしまった。これはあす以降に。キートップをぜんぶ外してきれいにする作業って不思議と心が安らいで好きなのだよね。文章入力でほかにこだわれる道具も見当たらないし、使い続けるうちこのキーボードへの愛着が湧いたってこともあるんだろう。ちょっと祈りにも似ている。『タイタニック』観た。いい映画だったのだけれど、細部のあちこちがラピュタと共通しているように思い始めてからは、そちらに気を取られがちだった。手を貸してくれるモリー・ブラウンや機関部の駆動、人がごみのように落ちていく沈没シーンなど、結びつけようとするとだいたいにつながりがあるように見える。それはそれで面白かったけれども。ラストで現在のローズが寝間着のまま現れるところは、つい先日聴いた木村弓さんの『いつも何度でも』の歌詞「閉じていく思い出のそのなかにいつも忘れたくないささやきを聞く」を思い出した。なんだろ、目覚めるともつかぬまま世界が小さな領域へ取り残される、そういう状況に抵抗と魅力を感じる。『BLAME!』のラストのあれ。海中へ没していく宝石の美しさが記憶に残る映画だった。

2020年11月10日(火)

『ブレードランナー(ファイナルカット/字幕版)』観た。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を先に摂取していたから、この作品はもう抑えてあるけれどまあ評判がいいから映画も、という気持ちで望んだのだけれど……幻想的な雰囲気に心地よい高揚感が相まって、一生忘れないだろう作品になった。雨降る屋上のあの悲しみを上回る美しさと、そこからなだれ込んでいく引きの場面の高揚感に、すっかりこちらの気持ちは持っていかれた。物語のしんがりに壮大な背景がちらっと登場するのってたまらない。そしてところどころ振り返ってみると、ロイの言動のニュアンスが変わる。たとえつくられた存在であっても、仲間を思い生きたいと願うのは、人間と同じじゃないだろうか。デッカードはレイチェルに歩み寄ってしまうし。ロイ(たち)は辺境へ連れて行かれ、そこで恐怖に耐えながら信じられないようなものを目の当たりにしてきたわけだけれど、そうした者たちが「感情を持つと面倒だ」という理由からあまりにはかない寿命を施されていることが、とても悲しい。そうした彼が見せた微笑みの尊さもよかった。この何ヶ月かで映画を観るようになった理由は、自分の集中力が鑑賞に堪えられるようになったからなのだった。映画っていいなあ。こんないいものにいままでさっぱり手を付けなかったのはまあしょうがないものの、時間の流れの奥行きを圧縮して名作ばかり味わうという意味では、とてもリッチな体験をしていると思う。今年の春先に始めた往時の名盤漁りもこんな贅沢さだった。作品と向き合える準備ができていると、感動は心へ届くものだね。明朝は0度近く、木曜の朝は氷点下になる予報が出てる。

2020年11月9日(月)

創作地名のリストアップはとりあえず一段落。アクリル球に書き込んでいる世界地図と手元の地球儀とを見比べてみると、書き込んだ陸地がわりあい大きめだった。陸海の比率は大雑把に地球の3:7を軸にしたほうが気候を想像しやすいように思う。地球のランドメイクには感心してしまう。地中海の出口から中東、南/東南アジアを貫いて南太平洋へなだれ込んでいる一連の造山帯の、そこの生き物の暮らしや気候だけでも、よくこんな変化に富んだものができたよなと嬉しくなる。こういうのはいくらでも凝ることができるけれど、お話をつくったりなんだりのベースのつもりでいるから、自分なりに進捗を覗っていきたい。そしてモチベーションを保つために、ところどころ見切り発車したっていいんじゃないかと思う。AdobeのIllustratorが使えるようになれば幅広いことをやれそうな気もする。ちらっと確認すると単体のサブスクは高いんだな……いま契約しているフォトプランが例外的なだけだった。まあでも、どんなことができるか考えてみる。

2020年11月8日(日)

市の文化祭へ。会場の入り口付近で参加票を書き、検温してから入場シールをもらう。僕のようなふらふら集まってきたものが言うのもあれなのだけれど、標準的な対策を施した上で開かれたイベントだったことに、丸裸ではないのだなーという多少の安心感はあった。ただ、目当てにしていた小中学生の美術作品は一切展示されておらず。このイベントでは柱となるはずの出し物だけれど、そういうの設営したりそこへ人が滞在していくことを考えると、衛生上やむを得ないのかもしれない。菊の花も今年は展示されていなかった。そちらは先日書いた状態のまま道の駅に並んでいるんだろう。半ば屋外なステージでギターを弾く男性の歌を聴いたり、フリマを覗いてビートルズのレコードを買ったり。会場を訪れる人足は例年通りに見えた。それから一度帰宅して夕どきを待ち、再び市街へ出かけて散歩しながら写真を撮った。写真って、やっていることとしては風景を視線に沿って切り出すものだと思うのだけれど、今回は午前の行動で疲れていたからか、そうした「おっ?」と感じる歩留まりというか頻度が露骨に落ちた。創作で関心を維持するなら、心身の疲れは真っ先に取り除くべきだな……。出発前に地図上で見つけた中国茶の店の前も通った。茶葉の商店かと思いきや、ドア越しに見る手狭な店内にはテーブルや椅子が並んでいたから、どちらかというと喫茶寄りの店なんだろう。それならこちらがもっと元気なときに来ようと思って帰着。少し話がずれるけれど、市内の純喫茶「茶羅」がこの伝染病のあおりを受けて閉店したそう。あの店のメニューにあった生卵入りのコーヒーはとうとう頼むことがなかった。町の風景なだけでなく多少は思い出のよすがでもあったから、それがもうないことを思うとしみじみとさみしく、むなしい。そんなわけで気になる喫茶店には入れるとき入っておいた方がいいんだろな。市街地にはほかにも紅茶がおもな喫茶店を確認してる。コーヒーではなくお茶のお店ってこのあたりでは貴重だ。なにかをしようとして自分の感情を確認するその都度、判断は揺らいでぶれて、なにに対してもちっとも誠実じゃないなと思う。そもそもの感情で判断するところが悪手だ。苦い顔をしてでも意思を頼りにすべしということは分かるのだけれど、その場の気持ちにライドされてしまう……。病的というか疾患の後遺症に近いものなので飲み込むほか余地のない部分もかみ締めつつ、なんとかできないのかなこれと手をこまねいてる。

2020年11月6日(金)

『グリーンブック』を観る。先の『最強のふたり』関連のおすすめとして友達から教えてもらった映画。あちらは裕福な障害者の白人とスラム出身の黒人という配役だったけれど、こちらはピアニストの黒人とがさつな用心棒の白人という、全く逆の構成になっている。視聴し始めた当初は白人向けの「大切なものを教えてあげる」という作品なのかとひやひやしていたのだけれど、徐々に黒人への差別を含めた、さらにセクシャルあるいは普遍的なみんなへ向けた抵抗としての、ドンとトニーの双方向に変化がもたらされる作品だと思ってからは、その勢いに飲まれていた。後半で警察からの不条理な言いがかりを切っ掛けにふたりが留置場へぶち込まれる場面があり、ドンの「暴力では勝てないぞ、勝ちたいなら品位を保て」とトニーの「俺ならそいつ(留置場のベッド)には触んないね」に、今の世と繋がる凄みを感じた。大きな時代性に抵抗していても、それらの尊い記憶として継承されるのは、わずかな個人間の信頼だけなのだ。ものは言い様だから絶望かもしれない。小さく確かな入り江、景勝地、緑の谷、そういったものが限られた人々の記憶に残り、いつしか失われていくんだろう。それらが存在することをただ知っていたい。そして、いずれ大きな流れが変わっていくのなら、その河へしれっと合流して未来を託していこう。そういうことを思う映画だった。