2021年4月25日(日)

いちじくや宿根草を植え付けた。残りの苗はあす以降に取りかかる予定。祖父母と叔父が立て続けに亡くなったことと関連して、母は自分の時間が欲しいと言っていた。石油ストーブは中の灯油を空にして物置へ仕舞った。27日の朝は遅霜で寒そうだけれど、このあたりで生活空間をすっきりさせて気分を変えたい。

2021年4月23日(金)

見つけたアミガサタケ三本を使ってクリームスープとバター炒めを作った。きのこなのに香りとうま味がすっとしていて、いろんな料理に合いそうなおいしさだ。通院先では、玄関の床に降り注ぐ日差しが待合室の奥の壁にまで照り返し、まるでそこに南国のプールが揺れているかのように光が動いていた。夏へ向かう陽気さを明瞭に主張する、ずっと見ていたくなるような麗しい光だったな……。診察が終わって外へ出ると、空も風もまぶしかった。風光るという言葉はそんなときのためにあるんだろう。ものごとはただ存在するからそこにあるのだけれど、人間はそのときどきの具合の善し悪しによって、周りのものごとを美しいとかおいしいと感じたり、あるいは目の前が真っ暗に感じられたりする。ものごとの受け取りかたが単なる主観なら、僕は自分の具合をうまく調整して周りの環境を快く感じながら過ごしたい。梅雨入り前のからっとした気候を写真にたくさん記録しておけたら。

2021年4月22日(木)

朝から日没まで山菜採りや庭の作業などをして、文字通り一日中歩き回った。疲れた。季節を読み損なったためたらの芽やコシアブラは空振りだった。その代わり、独活やジュウモンジシダが群生する斜面を見つけたり、あけびの芽がたくさん採れたりと、これはこれでよかったと思える収穫を上げることができた。ポケットに入れて持っていった水野仲彦『新ヤマケイポケットガイド4 山菜・木の実』(山と渓谷社)は、写真と情報が適切にまとまった図鑑で持ち運びしやすく、実用的だった。アミガサタケも二つ発見。山菜の天ぷらを揚げるのはあした。くたくたで頭が回らない。

2021年4月21日(水)

抜根作業は終わった。業者さんは親切だったのだけれど、重機で固められた土を再びやわらかくする作業のことを思うと今はげんなり。ときどき来る余裕のなさには自覚的でいたほうがよいのだろうな。背の低いものを中心に楽天で花の苗を注文した。早めに床へ就いて、あしたか明後日は山菜採りにいけたら。

2021年4月20日(火)

アミガサタケの発生場所を再度訪問。雨が降ったあとだから期待したのだけれど、前回残したきのこの他に生えているものは見当たらなかった。もうしばらくそこへ通って発生頻度を確かめるつもり。庭の抜根はあしたまで掛かりそうだ。

2021年4月19日(月)

造園業者さんが来て、庭の切り株を掘り起こして抜く工事が始まった。明日の日中には終わるそう。切り株っていうのは骨が折れるもので、僕ひとりでは直径30センチあるような切り株を(複数)取り除くことはほとんど無理だ。重機は強い。今朝、白いクレマチスが一輪だけ開きかけていた。本格的にクレマチスが咲き始めたら、薄明の光で撮ろう。

2021年4月17日(土)

雨降る日。モッコウバラに這わせるクレマチスと冬咲きクレマチスがほしい。おぎはら植物園のサイトは注文過多によりサービスを一時休止していた。この季節だと仕方がないよなーと思いながら、欲しい植物の苗についてはそのリストと入手先をブラッシュアップしているところ。ねむたい。

2021年4月16日(金)

髪を切ってさっぱり。目を付けていた場所の一つでとうとうアミガサタケを見つけた。木立に囲まれイチョウが生える境内の焚き火跡、のすぐ近く。地面は固めで比較的露出しており、それほど管理されておらずにヤエムグラや苔が生えていた。どこだったかアミガサタケの記事に「すみれがそばに生えていたりする」とあったように思うけれど、環境はそんな感じかもしれない。陰か陽かで言えば陰の雰囲気がある場所で、地面は下草に覆われきっていない、ということなのでは。これでアミガサタケの出てくる環境が多少なりイメージできそうだ。ただ、僕の見つけた個体はイエローモレルというタイプだと思うのだけれど、これは枯れ葉の色に紛れて探しにくいことこの上ないなと思う。今回は「こうした場所/この時期なら生えているはず」という前提でしゃがみながら目を凝らしていたら、運よく目に入ってきた。とりあえず大きいほうをひとつ採ったから、あとでどんな味か確かめてみたい。あすあさっての雨でまた生えてくることを期待しているけれど、あまりに採ってしまうと蒔くべき胞子をきのこが作れなさそうだ。おととしと去年の春はアミガサタケ探しが空振りに終わっていただけに、こうしてやっと目的のきのこに出会えたときは、じんわりと高まるうれしさがあった。こうしたはかない構造物が、自然の摂理を示すように人知れず土中から姿を現すことに、ありていな表現だけれど生きものの営みへの驚きや不思議さを感じる。