2021年4月17日(土)

雨降る日。モッコウバラに這わせるクレマチスと冬咲きクレマチスがほしい。おぎはら植物園のサイトは注文過多によりサービスを一時休止していた。この季節だと仕方がないよなーと思いながら、欲しい植物の苗についてはそのリストと入手先をブラッシュアップしているところ。ねむたい。

2021年4月16日(金)

髪を切ってさっぱり。目を付けていた場所の一つでとうとうアミガサタケを見つけた。木立に囲まれイチョウが生える境内の焚き火跡、のすぐ近く。地面は固めで比較的露出しており、それほど管理されておらずにヤエムグラや苔が生えていた。どこだったかアミガサタケの記事に「すみれがそばに生えていたりする」とあったように思うけれど、環境はそんな感じかもしれない。陰か陽かで言えば陰の雰囲気がある場所で、地面は下草に覆われきっていない、ということなのでは。これでアミガサタケの出てくる環境が多少なりイメージできそうだ。ただ、僕の見つけた個体はイエローモレルというタイプだと思うのだけれど、これは枯れ葉の色に紛れて探しにくいことこの上ないなと思う。今回は「こうした場所/この時期なら生えているはず」という前提でしゃがみながら目を凝らしていたら、運よく目に入ってきた。とりあえず大きいほうをひとつ採ったから、あとでどんな味か確かめてみたい。あすあさっての雨でまた生えてくることを期待しているけれど、あまりに採ってしまうと蒔くべき胞子をきのこが作れなさそうだ。おととしと去年の春はアミガサタケ探しが空振りに終わっていただけに、こうしてやっと目的のきのこに出会えたときは、じんわりと高まるうれしさがあった。こうしたはかない構造物が、自然の摂理を示すように人知れず土中から姿を現すことに、ありていな表現だけれど生きものの営みへの驚きや不思議さを感じる。

2021年4月13日(火)

自分なりの配色を見つけて写真編集を楽したいと思い、あれこれ弄っているところ。配色とは書いたけれど、印象的な写真かどうかは撮影時におおかた決まっていると思う。逆光/対象までの経路に光線の強弱がある条件や、朝夕の金色や青の時間/午前の斜光などは、撮るものに実力以上の下駄を履かせてくれる。晴れた日にはそうした条件が重なるから狙い撃ちしたい。FILMGRABが参考になりそうなのだけれど、映画のスクリーンショットひとつにしても、色合いの再現性を見つけ出すのは難しいものらしかった。画の印象を決めているのは色よりもコントラストや彩度などの階調コントロールにある、らしい。

2021年4月11日(日)

祖父宅から掘ってきた野蒜を、日当たりのよい庭の縁へ一列に植えた。もう一列ほどあってもいいかも。うちで野蒜を採れるようにしたい下心だけれど、祖父宅の植物を少しうちで引き取りたい、という考えもあってのこと。ざっとあと十年は心配いらないとしても、いずれあの屋敷は他の人の手に渡っていくものだろうから。それに、僕なりに祖父母や叔父を思い起こすものが身近に欲しい、ということもあるかもしれない。

2021年4月9日(金)

めぐりズムのおかげで目の周りの凝りが一時的にでも解消された気がする。疲れていそうな家族に一包ずつ渡した。きょうは風が強く寒い日。タンポポの葉と野蒜を採ろうと祖父宅へ寄ると、母が草むしりをしていた。彼女は人がよすぎるように思う。定期通院先では長い待ち時間のあいだに舟をこぐ人々が現れ、看護師さんが窓を開けていた。自分も診察でながっちりをしたことは度々あるから、診察室から出てきた人は肩身の狭い思いをしなければいいなと思う。文庫を持ってきてよかった。星野道夫『旅をする木』(文春文庫)はこうした待ち時間に読み進めている本で、なかなか読み終わらずにもう数ヶ月も方々を行ったり来たりしている。その中にある、生命体の本質は他者を殺して食べることだ、という文が目を捉えた。動物たちの霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきてふたたび犠牲になってくれることを祈る、その無言の悲しみに私たちが耳をすますことができなければ、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないか……というもの。人間が肉を食べるのは自然なことだということを、ふんわり考えはしつつも根拠をうまく言葉にできずにいたから、納得しながらその悲しみにこちらまであてられてしまった。先生は引き続きどこかくたびれて見えた。