2021年9月26日(日)

きのうに引き続き、きょうもなにごともなく過ごしてしまった。しまったって、辛いわけではないし、別にいいはずなんだけれどね。これから靴を磨いてシャツにアイロンをかけるか……。あしたはひとさまの住まいへ出向いて、外壁の電源カバーを新しく作れるかどうか、様子見する予定。今朝、ここへ書き付けていた掌編を読み返すうち、んー? と思っていた箇所へ必要なひとことがピースのはまるように思い浮かんだ。そのひとことのおかげで伝えたいことのピントが絞られたように思う。原稿用紙二枚くらいのものだけれど、こうした自分の息が続く規模の短編をパッチワークのようにつなぎ合わせることができれば、それでひとつの作品になりうるのでは。気長に楽しくやろう。

2021年9月24日(金)

定期通院先へ。取り組めることのバリエーションが増えてきた、と先生に話すと、「趣味も多いし前向きだし、できることも自然に増えてくると思いますよ」とおっしゃった。それは環境に恵まれたり状況の成りゆきといった要因が大きいように思うから、いま手にしている幸運を手放さないようにしたい。先生のこの言葉は一言ずつが金のような状況を指していて、そうなるまでに自分でも人生の時間を費やした自覚があるだけに、ほんとありがたいな……。周りからいわれている気がする「趣味が多い」について自分ではピンとこないのは、それについて悩まずに済むほど恵まれている、ということなのかもね。ネットを見ていると上限知らずになるし。

2021年9月23日(木)

資格のテキストへ手をつけた。この級なら知っていることをきちんと再確認すれば受からせてもらえそうな内容だけれど、三菱のユニホルダーがノートを擦る感覚が心地よいようで、わりと無心のまま取り組めた。技能や資格を身につけるときは、そんなのは分かるからもっと先をやらせろという態度ではなく、一から十まで順番に、確実にやぐらを組むことが最短コースなのだろう。そして、もしなにかにストイックに取り組めるなら、進捗が早いか遅いかはさして問題とはならないように思う。少なくとも、やる/やらないの違いよりは。

2021年9月20日(月)

お彼岸初日につき母と、父の墓と母方の墓をハシゴした。やっぱり早いみたいで墓地への来訪者は少なめ。そのあと工場を回って帰着。祖父宅の屋敷内にある、義母やいとこたちが残していった叔父の家を、母方の大叔父が買い取ろうかという話が持ち上がっているそう。それだと祖父宅の扱いとあわせて、全くの他人に渡るよりは話がすっきりするのかな。そうしたお金がないということをこれまでは聞いていたけれども。それから母のいとこというのか、僕にとっては絡み酒をしてくる親戚のおっさん……の母が、たしかきのう亡くなったそう。その人は介護施設に入っており、もう長くはないという判断が出されたとき、おっさんは親を引き取って看取れたらという愚痴を、母方のもうひとりの大叔父に相談したそう。僕にとっては関係が遠いということでいままで話が流れてこなかったのだけれど、周囲の判断が確定する前に耳にしていたら、僕はおっさんに看取らせるために行動したよ、という話を母にした。疫病対策のためにおっさんは母親と面会が叶わず、彼女は施設で眠りながら息を引き取ったと聞いた。葬儀は近親者だけで執り行うそう。

2021年9月19日(日)

朝のうちに果物屋へ出かけてぶどうを手に入れた。甲斐路が安かった。このぶどうの紅茶の香りが好きだ。うちへ帰ってからは、しそを倒した場所へ母のサルビアの苗を植えたり、届いたクレマチスの苗を柱の周りへ植えたり、庭の作業をいくつか。夕方見た夕焼けと月は、久しぶりの空の姿のように思えた。きのうおとといと掌編に没頭していたせいか、ほかの場所で使う言葉までがそちらの表現に引きずられる感じ。

2021年9月18日(土)

きのうの続き。デスクトップ機のエディタと紙のルーズリーフを前にしたり、ベッドでごろごろしているうちに、書きためていた複数のイメージが結びついて、ビラの一編になりそうな短い話をいつのまにかまとめ上げていた。自分なりに浮かされるようにつくった気がする。不思議な力だなー……。松任谷由実の『acasia(アカシア)』からイメージを借りた掌編で、もう幾年も前に発行したきりの折本……の、エンディング直後の話になったから、ビラを発行するとしたら、そちらの折本も手に入るようにした方がよいのだろな。極端なむらっ気に左右されやすいため、この先の進捗はまだなにひとつ見えないけれども。こういうとき掛かりっぱなしになるエンジンは、きちんと火を落として生活の側に合わせたほうが、あとあとの全体のパフォーマンスは上がるのだよね。あした早起きできたら少し出かけたい。

2021年9月17日(金)

『聖者たちの食卓』を観た。巡礼者に無料で食事を提供する寺院の人々の風景。余計な声は一切なく、あるのは食器を洗ったりめしを作ったりする喧噪だった。作業の合間にバックグラウンドで流すのに向いているとなにかで読み、たしかにそうなのだけれど、その一方で黙々と淡々とめしを作り食器を洗い奉仕する人々の姿や顔に、生きている実感を感じ取れる気がした。それが視聴者のお気楽な共感であれ、こうした映像なら観ていたい、心地よいと思わせるものがあった。それはさておき個人的に、こうした異邦の環境音みたいなものに惹かれる。たしか昨日、クレマチス3鉢、常緑性かつ冬咲きの「ユンナンエンシス」2つと白地に赤い花弁な「アイ・アム・レディ・キュー」の苗が届いた。土日の天候によっては植え付けることも可能だけれど、くるのは台風だしね。日没後に買い物へ向かう道すがら、わけもなくよろこびに包まれていた。自分がどんな存在なのかとかこれからどうなるのかとか、そういったことは一切心配にも思わず、いまこの瞬間から汲み出されるなにかが強烈にいまを肯定していた。こうした感覚はときおり訪れる。風景への圧倒的な没入感だったり、すべてのものが存在することへの実感と祝福だったり。「自分が特別なのではなくいまを特別に思えたら、なにかを喪うことすら受け入れられるのでは」という考えは以前から抱いているのだけれど、それはここまで強い受容なのかもしれない。きょうは例のビラの素材になるような短い話が書けないかと日がな考えており、進展は見えなくとも頭の中であれこれ取り組めたことが、こうしたよろこびの源泉らしかった。きのうの面談で「やりたいと思っても取り組めない」と相談したら、「一度空になったやる気を溜めているところなのでは」という解釈をもらい、それならいずれすんなり取り組めるようになるかもね、という話へ落ち着いたのだった。イメージを借りるつもりで松任谷由実の『acasia(アカシア)』を聴いている。この歌は口笛が吹きやすくてよいな。