2025年7月24日(木)

そわそわする日。こういうのは飲み薬の症状で出るアカシジアかも。それはそれとして朝から果物市場を回る。途中で通所先から電話があった。じぶんがそこで初めて開いた展示会をほかの利用者さんも開いてみたくなったとのことで、その件についてこちらの話を聞きたいから来てほしい、とのこと。よい流れが続いてるという思い半分、休みたいなあという思い半分で、あす午前に訪問することに。日がなアカシジアらしきそわそわ感があり、さっきジアゼパムを適当に取り出してぼりぼりしたところ。たまには書いてよいような気がするけれど、発症前後の数年はやばい感じの病み方をしており、薬物、自傷、夜のお仕事など、ひととおり爛れていた。同期から「おまえがおまえじゃなくなっていくのをどうすることもできない」とか、医者から「ありゃ死んだ目をしているな」とか、ネットで知り合った方から「すべてに絶望したような昏い瞳、気に入りました」とか、いろいろなひとからいろいろ言われたことを覚えてる。話が逸れたけれど、そのころの癖で処方薬はかみ砕いて飲むのだよね。成分が一秒でも早く脳に届きますようにという気持ちはあいかわらず。病み系の話題や仕草は卒業したつもりでいるけれど、ときにはそういうのをぶつぶつ書きつけるのも古傷を撫でるようで心地よく思う。これを書いているあいだに処方薬が効いた感じ。心地よく、と感じることが、当時のじぶんをいまのじぶんはやわらかく受容しているのだなあと思えて、こういうのは愛おしい。ここの雑記を振り返ると2022/3/9にこうしたことを書いていて、改めてほんとうに時間のかかったことだったのだなと思う。じぶんが過ぎ去った話を扱うのは、折り合いがつき、あるていど解釈も済んでいる状態のときなのだよね。

2025年7月24日(木)

だらだらと過ぎし日。意欲や楽しさの感覚が戻ってくることを期待してひたすら休息を取っているけれど、それらを前提にするのって筋の善し悪しとしてはどうなのだろう、と考えていた。まず、現実との齟齬がある。そして、じぶんはいずれ変化する。であれば、いまは意欲がなくて楽しさを感じにくいな、という受容のほうがすんなりとできるのでは。あまりそうならない気がするのは沽券みたいなところで、趣味の多彩さや能動的に面白がることに自負があったからなのだろう。シゾイドパーソナリティの感情の淡さについてはじぶん自身、工夫の要る側面だなあと思う。意欲や楽しさが感じられなくても行動できる箇所に注目すれば、そこがじぶんにとってのなにかなのかもしれない。ChatGPTの言葉ではあったけれど、取り戻すではなく、もう一度初めから育てていく、という捉え方は筋がよいように思う。いつも通り推敲しないまま書きつけて、おやすみ。

2025年7月22日(火)

仕事のあと道の駅へ寄ってキャラメルのようなチーズを買ったり、山の上のほうへ行って展望台からの景色を眺めたり、はちみつ専門店であれこれ試食したり。気持ちにゆとりがあるね。那須高原も湯本のあたりまで上がると車は多くなく、うねる緑のトンネルをくぐっていくのが涼しく気持ちよかった。はちみつは気まぐれだったのだけれど、野の花の蜜や春先の蜜、樹種ごとの蜜などいろいろなものがあり、甘さと花の香りのニュアンスがさまざまでおもしろかった。野ばらの花の蜜をひとつ購入。帰ってきてからは疲れておふとんのなかでごろごろ。

2025年7月21日(月)

昨日は疲れて書き忘れた。教習所へ行って所内を運転し、うちへ帰ってきてすぐ疲労で眠り込み、未明に一度起き出してベランダで焚き火をしつつビール。そしてもう一度眠り込み、けさは身体が起きていないような微妙な気だるさのなかお仕事へ。帰ってきてからはなんとはなしに過ごした。あした行ったらしばらくお休みにすることにして、今宵はおふとんでゆっくりしては。

2025年7月19日(土)

お仕事をすこし短めに切り上げて、予約していた輸入ビール屋さんで買い物をし、帰途。友だちから「知り合いが保護した子猫の引き取り手を探している」旨を聞いて、それならうちで引き取ろうかという話になった。親猫のいなくなった子猫は体重300グラムほど、生きられるかどうかわからないくらいのあんばいらしく、もうすこし大きく育ったらそのときは県内を縦断して引き取りに行くことに。原付では子猫が耐えられないだろうから車で行く都合があり、そのためにペーパードライバー教習を早めに済ませる必要が出てきた。宵のころ、庭でひとり花火。うん、火を相手にするのってたのしい。子どものころにした花火を思い出すといまだからわかるようなこともあり、それでも花火のまばゆい炎は綺麗だなあと思う。んー、教習所とうちでごろごろ、天秤がゆれるくらいの気持ち。おふとんへ。

2025年7月18日(金)

やや早めに目覚めて午前中に仕事を済ませようと思い立った。美術館に入るところで警報を切るのを忘れ、事務室に防犯ベルを鳴り響かせてしまったものの、たまによくある系とのことで警備会社へ連絡を入れ一段落。そのまま仕事を片付けてタマゴタケを探しに別荘地をうろうろ。目当ては見つからなかったものの、雨降りの後なためか目につくきのこはちらほらあったほか、チタケをひとつ見つけた。もう出ているんだね。量が確保できるとは思わなかったから採らなかったけれど、ここで採れるという発見がうれしい。その後は予約を入れたクリニックへ向かいワクチン接種。三回目のこれでA型・B型肝炎はひとまず向こう十年は大丈夫。うちでは観察ケースを持って田んぼの水を掬ってきたり。通りすがった田んぼの持ち主から「昔と比べて水質は悪くなったなあ」と話を伺った。見た感じ、その一帯の田んぼは整っているというか、そのぶん生きものの気配は薄いかなと思う。とはいえ持ち帰って観察すると、小さな生きものがいろいろいる。ぜんぶ説明すると大変なので、小さな蟲師の世界と表現したいところ。緑の粒がふよふよしているのってボルボックスだろうかと思ったり、強いライトを当てて眺めるのが楽しい。関東はきょう梅雨明けしたとのこと。疲れてねむたい。おやすみ。

2025年7月17日(木)

雨につきお休み。雨は昼前から上がったため、溜まっていた用事を片付けにあちこち買い物をしたり、書類手続きや投票をしに市役所へ行ったり。クリニックへ電話を入れ、A型・B型肝炎ワクチンの予防接種、の三回目の予約はあすに取れた。ペーパードライバー教習は教習所へ飛び込みでも大丈夫らしかった。ホームセンターでスウェーデントーチというものを見つけ、思わず買ってしまった。切り株に十字の切れ込みが入れてあるだけのものだけれど、この構造ならロケットストーブのように効率よく給気して燃えそうね。うちでは『リュミエール!』を観た。映像記録の黎明期、シネマトグラフという装置をつくったリュミエール兄弟による映像集、108作。映像というのは現れた当初から面白さや驚き、滑稽さといった要素を強く含んでいたのだなーと思う。よくも悪くも情動に訴える娯楽、エンターテインメント向きの形態。おなじくフィルムを使う写真は当初、霊的なものを写し取れるのではと考えられていたり、その後は芸術の一表現として延びていくわけで、こっちはなんというか、真面目よね。後半にはらくだの隊商が行く映像があるのだけれど、たぶんオスマン帝国のそれだよねと思うと、そんな歴史上の存在にしか思えないものが映像として残っていて目にしたという驚き。各地に大帝国がまだ生きていた、19世紀の時代性や雰囲気ってずっと興味があるなあ。シネマトグラフは当初50秒ほどしか記録できなかった(そのために演技の指示など工夫もあった)とのことで、なんとなく、ショート動画SNSというのは源泉を踏襲している感。夕餉にて、庭のフェンネルのつぼみを大量に刻み、オリーブオイルと塩でお刺身に和えたのを食べた。フェンネルのつぼみや穂の部分、密のような甘さがある……。もしかしてこれを単体でサラダにした場合、花の蜜のように甘いサラダができるんだろうか。あすあたり関東で梅雨明けの発表があるのではとか。梅雨明け十日の晴れ間をぬって二泊三日くらいの遠出はどうだろうと考えていたものの、いまはのんびりしたいみたいだ。身体感覚をくみ取るのだいじ。

2025年7月16日(水)

朝は産直を覗くなど。ChatGPT相手に楽しさを感じられる手ごろな娯楽を相談するうち、ベランダで小さな焚き火をしたくなった。そういうガジェットがいろいろあるねえということで、スターリングエンジンのキットや水生生物観察ケースなどとともにポチる。巴波重工の卓上減圧蒸留器というのが気になるけれど、これはちょっと手が出ない。ハーブやそのへんの植物からアロマウォーターを取り出せたら、水たばこ的に喫ったりスピリッツに垂らして飲めたりできる? あすの雨は半端な時間に上がりそうね。

2025年7月15日(火)

ときおり強い雨が降る梅雨も終わりの空模様。洋楽の名盤を中古でポチったり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー(下)』を読んだり。

2025年7月14日(月)

台風の影響で雨降りにつき、水曜までお休みの連絡を入れた。ぱっとしない体調の日で、こんな日には早めに眠るのがよい。弱ってしまった茉莉花については、挿し芽で増やしてあった株を一回り大きな鉢へ植え替え、部屋へ持ってきた。花が咲いているところ。