お仕事。あすからお休みとすることにしてのんびり。
2025年9月1日(月)
お仕事から帰ってきていつものようにシャワーを浴びたり仔猫を構ったり。ハンドメイドのヘアゴムが届いていた。かっわいい。そのうち、きちんと髪を切ってもらってはという気になり、さっと出かけてお店で毛先や襟足など整えてもらった。いままでは伸びたぶんをはさみでじょきじょきして済ませていたものの、こういうのはさっぱりする。訳あり品で詰め合わせのいちじくを取り寄せ、昨日から食んでいた。くだもののうちでいちじくがいちばんすき。あと何回桜を見られるだろうくらいの気持ちでいちじくの出回る季節を楽しみにしてる。取り寄せて数品種あったうち黒いちじくらしきものはねっとりして甘みが強く、これ美味しいと思った。花の香りが強い品種もあり、もっといろいろ味わってみたいねえ。ふと思い立って髪を切りに行けるって、じぶんのなかでは重いタスクとして滞っていたものでもあるから、それができるのは気ままに働けている現状下でゆっくりと回復している証しのように思う。ていうか自身の遅々とした回復量に比べて、週五のフルタイムで働けるような健常者のバイタリティが信じらんない。そうした頑張りが利くことや頑張ることへの評価を前提に回っているこの社会には問題あると思うし、やはり世間には適応するふりだけで後ろで舌を出すように生きよう。世の中を動かしているものって強迫的だなー。そういえばDAKSのペンケースは修理できないと公式からお返事があったため、きょう接着剤を買ってきてちぎれた箇所をつなぎ合わせていた。柔らかさが残るボンド系ではなくて、きちんと硬化するタイプがよかったかも。まあこれでこのペンケースはまだまだ使えるから……。疲れを感じることだし、おふとんへ早めに入ろ。
2025年8月31日(日)
なにごともなかりし日。
2025年8月30日(土)
のんびり。いま髪を束ねているヘアゴムはふつうのミント色のを数十個まとめ買いして使っているのだけれど、ちがうのないかなーとなんとなく検索していたら、Creemaにハンドメイドのかわいいのやおしゃれなのをたくさん見つけた。のでポチる。平和だこと。ここ何日か夜が居心地よくて夜更かししてる。明朝は産直へ行ってみたいから、ほどほどにしておやすみ。
2025年8月29日(金)
日中は仔猫の相手。うちへ来た当初はミルクをスポイトで飲ませていたのに、いまはレンジで温めた離乳食をお皿からはぐはぐと食べる。まだ十日しか経ってないのに成長するものだなー。目元の印象も赤ちゃん猫から仔猫へとすこし変わった気がする。ここ何日かは気分がとても楽。
2025年8月28日(木)
きのうに引き続きのんびり。仔猫は遊んでいると、やんのかステップらしき動きも見せるようになってきた。動きも来た当初から比べると活発になってきて、ご飯はふつうにお皿から食べる。
2025年8月27日(水)
仔猫の相手をしつつのんびりごろごろ。夜半のいまふと思う、壁に飾っているAIアーティストの絵についてのこと。夜の街明かりを見下ろしている黒猫の絵で、飾っている壁によく馴染むし、これはこれでよいねと思ったのだった。この絵を飾ってみたのは、じぶんがAI生成画像をどう受容するのか知りたかったことに加えて、写真技術が登場した当時のひとたちの写真への感じかたも知りたかった、という動機もある。それで現時点の感想としては、上記のこれはこれでよい、という内容。それは、産業革命以前のモノが基本は手製の一点ものだったところから、それ以降のモノはどんどん大量生産の既製品に移り変わり、それで現代の生活は違和感なく回っている、当たり前となっているその感覚とおなじように思う。たとえばいまのご家庭の食器って工場で作られたかたちの綺麗なものばかりだよね。それでここからが思うことなのだけれど、上のAIアーティストの絵やいっしょに並べているほかの作家の絵を眺めていて感じるのは、そこに制作者の存在を感じるかどうか。たぶんね、いままではなにかを作るのは当然のように人間だったから、そんな存在の有無なんて気にしなかったんだ。そこにAI生成画像を並べてみると、じぶんは思っていた以上に、作品というものに作り手の存在を探してる。これはただの物体やデータではなくて誰かがなにかしらの思いを込めてつくりだしたもの、その思いを辿るところまで含めての作品なんだと思う。きっとこれからはAIに生成されたものが生活や日常を埋め尽くしていくし、それで違和感もなく回っていくのだろう。現状の身の回りにあるものがどこを取っても工業製品なように。そこから思うこと。先の例えでは食器なんてニトリで買ってくるようなもので間に合ってるみたいに書いたけれど、生活を大切にするひと、食事をより味わいたいひとであれば、窯元や陶芸家が手ずからつくりだす、そういう器を求めたりもする。かたちの整った均一な工業製品よりは不完全かもしれないし、再現性のない一点もので値段は高いし、手に入れようとすると足を運ぶ労力や審美眼を養う必要があったりもする。それでもひとのつくったものを取り入れることには潤いと、おそらくはより大きな潮流に抵抗する意思がある。こうしたことが、AI以降の世の中でも、作品と呼ばれるもの全般に及んでいくと思うんだよね。それは雑に換言すると物語性といってもいい。そのひとがいかにそのような表現を行うに至ったかという生き方と価値観のこと。上のほうで写真技術がと書いたけれど、写真にはふたつの系統があり、ひとつは美術のいち表現としての流れ、もうひとつは記録を行うものとしての流れ。写真技術が登場して以降、絵画はリアリティから逆に自由になって本質を追究できるようになったそう。じぶんは写真をあれこれするなかで表現寄りのスタンスにおり、AI以降は絵画がなぞった流れを写真を通した表現で追っていくことになると思う。ここで戻ってくるのが、作品の背後に制作者を感じることの物語性と、それを求めてくれる人々のこと。このじぶんの視座に関心を持ってもらえて、眼差しを追体験してもらえること。いずれAIのほうが高度にリアルになっていくとしても、大抵の表現がAIでできるようになるとしてもなお、ひとがつくることの意義や存在感はより大きくなっていくんじゃないかな。そしてなにより結果だけが得られるAIでは決して代替できないもの、わたしがそれをする過程の面白さ、この価値もまた大きくなっていくはず。環境については間違いなく熾烈になっていくだろうけれど、いまなにかをつくっている人たちは、AIがあってもAIにできてもつくることを続ける、それでよいのだった。じぶんについて言えば、写真を通した作品をこのまま好きにつくっていく、ささやかな表現であっても日々の暮らしに馴染んだことだし、そうするのは自然なことに感じるから、ということに尽きる。ここまで書いてふと、冒頭のアーティストの絵はいつ飾ったんだっけと振り返ってみたら、ちょうど一年前のきょうだった。とくに意味はなくてもこんなことはあるんだね。もう窓辺でぬいとのんびりすることにして、おやすみ。
2025年8月26日(火)
きのうの続きのお仕事を切りよく済ませて満足し、今週はもうおしまいということにして帰途。仔猫は離乳食も食べるようになり、きのうかおとといにはうんちも出たのだった。ぼんやり過ごすうちに夜。
2025年8月25日(月)
お仕事へ。各方面から頑張りすぎと言われている件で「だらだらやろうと決めました」と奥様に話すと、一緒にいた同僚のTさんが「こんなの聞いたこともない」と爆笑していた。敷地内の手をつけた箇所がかなりすっきりしたことに満足し、残りはあすに任せて帰途へ。うちでは仔猫の相手をしたり、床でまどろんだり。あいかわらず口笛を吹いている。
2025年8月24日(日)
日の暮れるころから夕立。気がつけば夢中で口笛を吹いて一日過ぎた。エアコンのフィルターを掃除したところ明らかに冷たい風が出るようになり、夜に寝苦しかった理由はここだったのか……と思いつつ、足が冷えるためルームシューズを履いた。