2010年11月21日(日)

大田原市佐久山・御殿山公園の紅葉祭へ行ってきた。箒川を渡って段丘を登り、佐久山街道へ。一見寂れた感じのある街路だが、この地域では結構頻繁にイベントや祭りが開催されている。

紅葉祭開催期間の末日・十一月二十五日までは、午後五時から九時半あたりまで園内のライトアップが行われているとのこと。もう時期的にぎりぎりだし、折角のいいお天気なので昼間に出掛けた。駐車場の脇ではおっちゃん達が仮設テントのもと談笑しており、公園の入り口で地元のおばちゃん達がおでんや甘酒、大判焼きを売っていた。財布の中に百円玉が一個転がっていたのでそれでおでんのこんにゃくを買った。ほんのり柚子の香る味噌を付けてもらって、まずは食べる。地元らしいそれなりな賑わいの中で、携帯電話から一眼レフまで様々にカメラを持った人が目の前を通り過ぎていった。

カエデ ツタが登る 一面の紅葉御殿山公園は山の側面にある。眺望の良い場所を探して傾斜の急な階段を上りながら、辺り一杯のカエデの大木を見渡した。名札を見ると土佐楓とある。何故土佐なのか分からずにいたが、今ググったところではこのページ那須高原の四季 佐久山御殿山もみじ祭が詳しい。以下、引用の引用。

佐久山御殿山公園の楓について

安永年間(1772~1780年)佐久山藩主として四国山内土佐守一豊の子孫である資敬公(福原家佐久山藩23代藩主)が養子として迎えられた時、純粋の土佐楓5~6本を持参し、佐久山城敷地内に植え故郷を偲んだと伝えられ、今は1本のみ現存している。

佐久山地区活性化協議会が配布する資料を引用

佐久山と聞くと僕はどうしても夏場の花火大会を思い出してしまうのだが、ここ御殿山公園は佐久山城趾であり、割と市内でメジャーな方の観桜、観楓スポットだ。丘陵の南東側にある展望台に登ってみると大田原市街地が一望出来た。少し下に目を動かすと箒川、佐久山街道(旧陸羽街道)、佐久山小学校が順に見え、学校脇の銀杏の木が見事ビビッドな黄色に染まっていた。

園内をぶらついているうち、枯れ草の茂みに鳥居が立っている事に気がついた。見ると御殿山稲荷神社とある。こんなところにも、と、思わず写真にぱちり。鳥居 質素である。駒狐さまはいなかった。灯籠の後ろに寄進と書いてあり、雑草に半ば埋もれるように石碑が立っている。

御殿山稲荷神社

縁起

此の稲荷神社は鎌倉時代則ち文治三年那須の守護那須太郎資隆公次男佐久山次郎泰隆公此の地に初めて築城せし折城内鎮護として京都より伏見稲荷の神霊を奉祀す

……

廃藩置県後は旧藩士により祭祀し護持されてきたがその社殿老朽し仍って佐久山在住藩士子孫十七名相計りここに新殿を建立す

……

平成十年七月吉日

漢字ばかりで読みづらいが、文治 – Wikipediaという年号は十二世紀、鎌倉時代のもの。那須太郎資隆というのは那須氏初代当主であり那須与一公の父親であるらしい。此の稲荷神社、かなり由緒と歴史ある代物だ。その割には参道は雑草で一杯だったし、こっそり覗かせてもらった内部は質素な造りになっている。まあいいや、こういう神社のあり方も、忘れられずにいるだけ恵まれているのだろう。

割とあっさりとした帰り際に近所の母の実家へ立ち寄っていこうと思い、手土産に大判焼きを買った。売店のおばちゃんの話で、近々市だったか地元新聞の写真コンクールがある事、上手いのが撮れたら応募するといいよという旨を聞いた。いやいや、と苦笑いしてその場を立ち去ったが、そうだな、そういう目標の建て方もあるなと思った。

それから実家に向かい、祖父と祖母に御殿山稲荷神社の事を尋ねてみた。「お稲荷さまといったら警察署の前のだろう」。どうやら地元の祖父母も御殿山の稲荷神社の事は知らなかったらしい。代わりに、近所で「お稲荷さん」と呼ばれている、個人のお宅で祀っている稲荷(神社ではない)のことを聞かせてもらった。ああ、確かにあの民家の脇には鳥居があるが、稲荷だったのか。そう話しながら、この地元の史跡の話もしてもらった。年上の人の話は聞くものだなと改めて思う。今度晴れている日にその辺りへ出掛ける事にして、今日はこの辺でおしまい。

2010年11月20日(土)

馬鹿みたいに天気が良かったので散歩に出掛けた。

よく分からない山の中を登ったり降りたり、農家のおっちゃんに道を訊いててくてく歩く。干してある大根家の前にぬか漬けのためのものであろう大根が干してあった。山の中なので起伏が激しい。くねる林道を歩くのは楽しいが、上り坂はあんまり面白くないな、などと考え事をしながらぶらついた。農家のおっちゃんの話で羽田沼だけでなく琵琶池にもハクチョウは来るよという事を教えてもらったので、ハクチョウ到来の季節になったら行ってみようと思う。一時間ほど歩いただろうか。万歩計を持って出るのを忘れたので詳しくは分からない。額に汗がにじむほど良い天気だった。落ち残った柿

午前中に郵便が届いた。何かと思って差出人を見るとVISIT FINLANDとある。思い出した。一週間ほど前、フィンランド政府観光局(リニューアル中らしい)のWebサイトで観光案内の資料を送って貰えるよう頼んで銀行振り込みをしてきたのだ。

何故唐突に観光パンフと思われるかも知れないが、体を最も壊していた時期に、僕はパンフレットとか本屋の無料小雑誌を集めるのに凝っていた。空想や妄想の種を育むのにそれらがもっとも手頃だったのだ。そういう事をarmchair travelingと呼ぶ事を知ったのは結構後になってからだ。あまり関係ないがarmchair travelerでググると最初に出てくるAmazonのAmazon.co.jp: The Armchair Traveller;Southbound:というアルバムは僕も持っている。中にはode music productionの創始者となったbayakaやchari chariの名で知られている井上薫氏など大御所の音楽がいくつか収まっている。紙のジャケットの内側には雪国を歩く場面と南国の浜辺に横たわる座椅子の写真が拵えてあって、Southboundの名の通り南へ旅立ちたいとき聴くと良い一枚だ。

話が逸れたが、僕は元来空想好きな上に収集癖持ちだった事もあり、あちこちの観光パンフ集めは次第に熱狂的なものになっていった。そこで興味を持った(最近は「触手を伸ばす」とも表現するらしいな)のが世界各国の政府観光局で配布しているパンフレットだ。ネットで資料請求出来る国のものはほとんど集めたと思う。んで、今更になってフィンランドのパンフを請求した理由だが、フィンランド政府観光局刊行の「トラベルノート」を久しぶりに眺めようとして部屋を探したのだが見つからないのだ。置く場所は本棚しかないから迷うはずはないのだけれど、良く引き出すからだろうか、どうにも何かの拍子に無くしてしまったらしい。仕方なく再度請求をした、というわけだ。フィンランドの観光パンフ今回届いたのがこちらのパンフ達で、画像の中の「Finland Summer Guide 2009」以外のものは無料で上記のサイトから請求出来る。もちろん他に有料パンフは沢山あって、フィンランド観光局のものは出来が良く内容も充実しているので、一度サイトからご覧になるといいだろう。

政府の観光パンフというのは七割方が有料で、ネット上からの請求の半分位は切手支払いとなっている。観光収入に力を入れていない、若しくは自国を広報する手段をWeb上に持っていても内容に乏しい国々は、資料を請求しようにもそもそもフォームが無かったり、どんな資料があるのか書いていなかったりする事が多い。そういうときは都の各政府大使館へ足を運んで訊ねればいいだけなのだが、何せ今暮らしている地元は首都圏とはいえ端の端っこだし、熱烈に蒐集していたころは関西の方で生活していたしで、訪れる機会に恵まれずにいる。今はもう熱烈な衝動と妄想がやってこないので、いずれいわゆる「若い頃集めていたレコード」になるのかなあ、と思ったり。

フィンランド政府観光局刊行トラベルノート「トラベルノート」の事。親しみやすいテンポで綴られた38ページの小雑誌で、国の統計情報から首都ヘルシンキ周辺の地図や施設・散策案内、フィンランドに関する細々とした図鑑などど、とても濃い内容となっている。想像を刺激するのにちょうど良い写真と文章のバランスが旅へのあこがれを非常に良く?き立ててくれる。僕は現在体を壊して療養中の身だが、それを治して海外へ行けるようになった暁には、夏の北欧にもぶらっと行ってみたいと思う。

2010年11月18日(木)

大間々の展望台からこれは矢板市の八方ヶ原・大間々の展望台から眺めた那須地域。左手に那須連峰がある。本日の八方ヶ原は天気が変わりやすく少し吹雪いていた。

昨日は那須温泉郷の殺生石へ行ってきた。曇りがちな天気のもと那須街道を抜け湯本へ至る道へ。

殺生石のふもとから流れ出でる湯川を渡る手前の駐車場に車を止め、まずまっすぐ殺生石へ向かった。殺生石辺りは礫や岩がごろごろしていて歩けないため、観光用の歩道が敷かれている。一番手前にあるのは盲蛇石。これは案内によって「Mojaishi(もうじゃいし)」「めくらへびいし」と二つの呼び方があるようだ。この石は賽の河原と呼ばれる岩だらけの一帯にある。賽の河原のイメージからなのか単純に登山道としての中途にあるからなのか知らないが、そこかしこに小石が積み上げられている。ふつうはこれをケルンcairnと言い、いつ、どこで誰が始めたのか分からないくらい世界中の山々で見られる光景でもある。が、ここは亜硫酸ガスや硫化水素ガスの吹き出す死の地だ。亡者と鬼の三途の川縁といった方が似合っているのだろう。

盲蛇の湯の花木道を歩き、湯の花採取場へ至る頃には、辺りはすでに濃い硫黄の匂いで被われていた。ここの湯の花にも謂われがあり、昔、ある男が盲の蛇に出会い親切にしてやったところ、その恩返しとして湯の花の作り方を教わった、のだとか。側の小石を拾ってみると、それは黄褐色をした硫黄と小砂利の混ざったそれだった。

教伝地蔵賽の河原だから地蔵菩薩もいる。河原中央の教伝(教傳)地蔵と千体地蔵だ。実際には千体もいないのだろうが、ひとつひとつに編み帽子がかぶせてあって和む。花も供えてあるのは近くの温泉神社の人のものだろうか。教伝地蔵のあるところは教傳地獄と呼ばれていて、これまた昔、親不孝をしたために天罰を受け死んでしまった青年を供養しているという。

九尾の狐伝説、殺生石木道の突き当たり、正面の断崖上にあるのが殺生石だ。殺生石と言えば九尾の狐、玉藻の前。鏡が池のほとり、桜の木の上にいるところを三浦介義明に矢で射貫かれ絶命した……ここまでが玉藻稲荷での言い伝え。こちらでの伝えによれば、この妖狐は死後、更に毒石へ姿を変え毒気を放って人畜に危害を加えたとのこと。そのため「殺生石」という名が付いたのだが、案内板にはのちに会津示現寺の玄翁和尚が岩にこもる妖狐の恨みを封じ、ようやく毒気も少なくなったと書かれている。予備知識では確か、和尚が金槌(玄翁)で岩を打ち砕き破片が日本各地へ四散し、そのため各地に九尾の狐伝説が生まれる事となった、はずだったかな。大陸、つまり海を渡って飛んでいった破片もあって、それが向こうでまた伝説を生んだという話まであるくらいだから、玉藻稲荷と殺生石との間の伝承は多少のズレくらい構わないのだろう。

頬っ被りのきつねさん 那須湯泉神社と九尾稲荷木道を左手に逸れて橋を渡って数百メートル行った先に、那須湯泉神社と九尾稲荷がある。何だかこの雑記ではキツネや稲荷神社の事ばかり書いているような気もするが、烏ヶ森稲荷といいここといい、なぜ稲荷というのは脇とか隅っこのほうにあるんだろうか。それはともかく、この九尾稲荷神社には詳しい説明書きが見当たらなかった。造りもそう古くはないし、おそらくは九尾の名を冠したのみでごく普通の、五穀豊穣を祈るための社なのだろう。

那須温泉の発見にも謂われがある。七世紀頃の昔に、狩りで傷ついた白毛の鹿を狩人が追っていたところ、その鹿が温泉に浸かり傷を癒しているのを見つけた、というのが那須温泉の初まりだという。

鹿の像近くに足湯に浸かれるあずま小屋があったので入ってみた。結構熱い。足湯は二つの湯に分かれていて、僕の反対側の湯ではおばちゃん方が三人、同じように足を浸かりながら談笑していた。しばらくして湯から上がり帰り道へ戻っていったが、家に着くまで足はぽかぽかしていた。うむ、今度は体丸ごと湯に浸かりたい。

2010年11月14日(日)

今日は母の誘いで笠間稲荷神社に出掛けてきた。車で揺られる事一時間半、茨城県の笠間市へ。

参道に近い駐車場はどこも満杯だった。母の目当ての「笠間の菊まつり」というのが10月16日から11月23日まで開かれているらしくて、加えて日曜日の朝だった事もあり、付近は人でごった返していた。この103回目のお祭りでは、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」を模した菊人形展と菊花の品評会をやっており、参道から手水舎、御本殿、裏庭の有料展示ゾーンに至るまで、笠間稲荷神社を貫くように五千鉢以上という菊花が展示されていた。

大和古流奉納たどり着いた朝十時ごろは、菊の花の香りが漂う中、拝殿の前の広場で「大和古流奉納」という奉納の儀が行われていた。男性が垂れ幕の的に弓を射って場を清めているらしいのだが、人だかりの為によく見えないしアナウンスも聞き辛い。四神の朱雀がどうだとか玄武がなんだとか途切れ途切れに聞こえてきている内に、儀は割とあっさりと終わってしまったらしい。七五三で来ている子供連れ向けの行事が始まったようだったのでその場を人に譲って離れた。手元のパンフレットによれば、大和古流(こる)奉納式とは、諸処の芸や道を継承している大和古流の当主がその奥義を奉納する式、なのだそうだ。

菊 虻社務所の反対側に展示向けの菊花がずらりと並べられていた。先日大田原市の産業文化祭でやはり菊の展示会を見てきたが、それよりもだいぶん規模が大きい。花の善し悪しは素人目には分かるはずもないのだが、一つ一つの花ぶりは見事だと気圧された感じがした。菊花の種類も数百以上と絢爛豪華だ。肌寒い空のもと、何匹かの蜂や虻がたかって蜜をすすっていた。

お稲荷さまの群れ御本殿の裏手の売店が建ち並ぶ方へ歩んでいくと、ケヤキかなにかの木の隣にお稲荷さまが地面に沢山並べられていた。石造りのものもあれば焼き物のものもある。見た感じどこか欠けたりしている風でもないし、どうして置いてあるんだろう。不思議な光景だ。

銀杏の紅葉裏門を出て菊人形の展示場である笠間稲荷神社美術館へ来た辺りで、あたりがやたら臭うのに気がついた。地面を見ると紅葉した落ち葉に混じって、銀杏が至る所で踏みつぶされている。これのニオイだったのかと少し顔をしかめながら券売所の脇を通った。正面に櫓があり、でん、と坂本竜馬とその妻お龍の菊人形が佇んでおり、日本初新婚旅行、とこれまたでかく看板が立っている。その周りを囲むように意趣をこらした菊の展示が行われていた。それは古都の風景だったり富士山だったりと、よく作ったなあとただただ感心するばかりだ。竜馬と加尾美術館の中では坂本竜馬の生涯をパネル展示と菊人形の組み合わせで展示していた。悲しい事に僕は高校で世界史や日本史を学ばなかったので、龍馬の事もあまりよく分からなかったのだが、江戸と明治という時代を駆け抜けた志士だったようなことは分かった。写真が大好きだったらしく、晩年はゆったり暮らしたようで何よりだ。

菊も見終わって、茶店で味噌田楽と甘酒を頼むとお茶が出てきた。気遣いに心も温まる。ちゃんちゃんこのお稲荷さまとちびコウ参道をぶらぶらと歩いている内にちゃんちゃんこを着たお稲荷さまを見つけ、ぬいぐるみと一緒に写真に撮った。仲見世でお稲荷さまの焼き物を見つけ、家の部屋に置くつもりで三寸のを買ってしまった。鳥居をくぐり表道に出ると、バスでやって来たらしい観光客達が大勢、門の脇の椅子に座っていた。その横でまたちょいと休憩。やがて歩くうち、笠間のマスコットキャラクター、いな吉くんというのが目に入った。辺りの店は笠間稲荷神社にあやかって、いなり寿司やキツネの焼き物などを並べているようだ。半ば歩行者天国とかしている道路を渡り、車に戻った。大変活気のあるところだったなあ。来るのに時間は掛かるが、また新年に入ったら行ってみたい。

おうちのお稲荷さまで、こちらが自室のCD棚の前に置かれたお稲荷さま。対でひと組だった。神棚が無くここしか場所がなかったので、ここにお酒も備える事に。何か御利益でもあるかなあ。

2010年11月10日(水)

原付で病院へ行ってきた。朝一番で出掛けた為、待合室で待つことなく診察。ついでにインフルエンザの予防接種をお願いする。看護師さんの話で、今年のワクチンは新型フルーと季節性の二種類が混合されたものだと聞かされた。去年の予防接種のときはそれぞれ合わせて二本の注射を打たなくてはならなかったと聞いて、去年の接種を避けておいた自分にうなずいてしまった。注射も採血も嫌いではないのだが。

十時半ごろに病院を出、買っておいたコンビニ弁当を近くの公園で食べる事にし、途中でブックオフに立ち寄った。開店まで駐車場で待つ事しばし、やはり一番で入店する。人気のない店内が気持ち良い。漫画本を三冊、あまり迷わずに購入した。僕は以前に、和泉なぎさ氏の「リアリスの私写真」と冬目景氏の「LUNO」という漫画を古本屋で見つけてから、「一冊で完結している漫画本」にはまっているのだ。もちろん物語の大まかな流れをぺらぺらっと読んでみてから購入するかどうか決めるのだが、四コマ漫画などを除き一冊で完結している漫画というのは、その性質上こじんまりと程よくまとまった作品に当たる事が多い。だらだら立ち読みして内容をある程度まで把握してしまってから家でまた読み返すというのは性に合わないのだ。関係ない事だが、一週間ほど前に105円で買ったダニエル・キイス氏の「アルジャーノンに花束を」はまだ手を付けてすらいない。ハツカネズミが出てくる話だったような。近いうちに読んでおこう。

店を出て原付にまたがり「烏ヶ森公園」へ向かって国道を横に逸れた。この烏ヶ森公園の真ん中には烏森神社というのがあるのだが、僕は今回来るのが初めてなので先に弁当を食べて一休みする事に。ベンチに腰かけて弁当とコーヒーを取り出しちびちびと食事。弁当のご飯に手を付けた瞬間、あ、これは失敗した、と思った。コンビニのレジで「暖めますか」と訊かれたとき、ぼんやりとしていて「結構です」と答えてしまったのだ。御飯粒がすこし糊化していて硬い。ああ、これはあんまり美味しくないなあと思い、ベンチ前の池の鴨に餌をやるまねをしつつ、黙々と箸を動かした。

野良犬かな半分ほど食べた頃、黒茶色の中型犬がリードも無しにとたとたっと駆け寄ってきた。周囲には飼い主らしき人物はいない。不意を突かれて足を動かすと、その犬はびくっと飛び退いて、ちょっと用心する様子を見せた。きっと野良犬なのだろう、うちの飼い犬も元野良で人の足の動きに非常に敏感だから、その反応ですぐ分かった。ひとかけの硬いご飯を地面に転がしてやったところ、ゆっくりと近づいてきてぱくんと食べる。もう無いよという身振りをすると池の向う側へ駆けて行ってしまった。耳の後ろに草の種を沢山ひっつけていたなあ。藪の中でも走っていたんだろう。

食べ終わって、コーヒーを片手に芝生のある方へ向かう。日が照っている間は昼寝なのだ。少し離れたところでは作業員のおっさんたちがなにやら談笑している。ごろりとくつろいでひなたぼっこ。焼けるような日差しが心地よかったが、一時間も経たないうちに広い雲の縁が太陽をかすめ始め、次第に薄日になり、とうとう曇ってしまった。日が当たらないとこの時期は風が冷たい。やおら腰を上げて芝を払い、神社のある方へと向かった。

烏森神社烏森(からすがもり)神社は松林に囲われた小高い丘の上にあった。階段を上ると少し息が切れる。歩いているうち四、五人とすれ違って挨拶。平日でも割合訪れる人は多い様子だ。そのうち頂上の神社にたどり着いてちょっと驚いた。普通の神社かと思っていたが稲荷神社なのだ。正確には神社の後ろに稲荷の祠がある、という風なのだが。朱の鳥居 祠 お稲荷さまキツネの小さいぬいぐるみを連れてこなかった事を少し後悔したが、まあそんな事はどうでもいい。祠に続いているらしい朱の鳥居をくぐると、あった。お稲荷さまだ。駒狐さま、とでも言うのだろうか、右と左で顔がちょっと変わっている。奥の祠はこざっぱりと掃除されていて、落ち葉よけなのかボンネットのようなもので被われている。真新しい銅板葺きの祠に青い榊。つい最近整備されたばかりのようだ。そういえば朱の鳥居の手前の神社の壁に古い絵馬が並んでいたなあ。誰かがいつも手入れしているんだろうか。

お稲荷さまの前に五円玉をお供えして写真に撮り、来たときに素通りしてしまった案内板をよく読んでみた。

烏森神社

一 御祭神 天照大神・豊受大神・倉稲魂の神・印南丈作/矢板武 大人命

一 創立年代 延喜二年(九〇二)創建
明治二一年(一八八八)四月五日 烏ヶ森稲荷神社遷宮

……

一 由緒沿革
烏森神社の前身、烏ヶ森稲荷神社は、平安時代の延喜二年(九〇二)、上石上村(現、大田原市)の農人田守という人が、烏ヶ森の丘の上に祠を建て、豊受姫命を祀り五穀豊穣を祈った事に始まると伝えられています。……鎌倉時代初めの建久四年(一一九三)、将軍源頼朝の那須野巻狩の際、この丘を展望所として、総指揮を執ったと伝えられ、……明治十八年(一八八五)四月十五日、開拓事業の成功を祈願し、那須疎水開削の起工式が神前で行われました。……明治二一年(一八八八)、社殿竣工、四月五日、開拓者の氏神として、……遷宮式(ご神体を移す式)を盛大に執り行い、烏ヶ森稲荷神社は、「烏森神社」となりました。……以来、烏森神社は「開拓のおやしろ」として崇敬され、現在に至っております。

平成十一年(一九九九)九月吉日 烏森神社社務所

社務所なんてどこにあっただろうか、と思いつつも、この烏森神社と稲荷の謂われについて中々面白い事が書いてあって、この案内板を素通りしなくて良かった。この辺りは昔から水の利が悪く、明治時代になって那須疎水が開削されたのだが、その当時の非常な苦労を偲ばせる遺物があちこちに残っている。僕も那須疎水開削の苦労を描いた演劇「那須の大地」を小学生の時に見た事があり、友人の一人が後年演劇でそれを再びやると言うので見に行った事もあり、地元の歴史としてちょっと興味のある事柄だった。那須野巻狩でも関わりのある神社だという事で、先だって玉藻稲荷神社を見てきている自分にとってはとても面白い。ちょっとWebで調べてみたところ、先月十月二十三・二十四日に那須塩原市で「那須野巻狩まつり」というのが行われていたらしい。隣の市なので情報が入ってこなかったのは残念だが、機会があれば来年行ってみたいと思う。

ちょっと話が逸れたが、「この丘を展望所として……」というくだりに感心して、丘を降りるときに下界を眺めてみると、松林の間から西那須野や大田原の町がよく見えた。そうやっていると何だか地元や地域の歴史が身近に感じられるから不思議だ。先々週に「那須野ヶ原風土記の丘」という史跡や文化財の展示施設で知識を仕入れてきた事もあるのかも知れない。近々またどこか歴史を学べるところを探してみよう。

2010年11月5日(金)

ここ一週間ほど、原付であちこち出掛けていた。紅葉の下見という下心もあったのだが、十日ほど前に塩原の奥の上三依(かみみより)へ行ったときは紅葉はまだ始まっていなかった。ただ一本の木立だけが真っ赤に染まって、近くのそば屋のおっちゃんが嬉しそうに話していた。昨日、那須野ヶ原公園へ行ってみたところ木々が少し赤く変化していた。数日前に市内の母の実家へ行ったときに祖父が「あと一週間か十日でここらにも霜が降りる」と言っていたから、その通りなのだろう。黒羽の雲厳寺の境内はまだ青々としていたなあ。ゆっくりと秋が山から下りてきているのだろうか。

昨日の午前中は那須野ヶ原公園へ行ってきたが、何もせずに原っぱで昼寝ばかりしていた。良く晴れていたんだもの。昼時になり小学生の群れがご飯を食べにやって来て、寝ている側に陣取り始めたので、様子を見計らって退散。朝のうちはジョギング客や犬の散歩連れなど人が多かったけれど、昼を過ぎてしまうと公園内はやや閑散としていた。祝日の翌平日だからだろうか。園内をぐるりと一周、散歩して帰る事にし、ドングリなどを拾った。

夕刻、友人からメールが届いて、遊びに来ても良いかと言う。構わないよと返すと30分ほどでやって来た。相変わらず彼はうちの猫に目がない。「サキちゃん、会いたかったよお」などと猫なで声で言っている。猫も僕の部屋まで付いてきたので入れてやり、最近の出来事や音楽の話に花が咲いた。話に寄れば彼は、つい最近入社したばかりのケーキ屋を首になったそうだ。詳しい事情はここでは省くが、とにかく彼の友人の紹介で今度はパチンコ屋の従業員をやる事になったらしい。大変だったな、まあ次の仕事が見つかって良かったじゃないか、と言うと微妙そうな表情をしていた。彼も原付に乗って会社へ通うのだが、これからの時期は寒いからねえ、と言っていた。この辺りは冬になると「那須おろし」という冷たい強風が吹く。彼はヘルメットがフルフェイスではないため、風が当たって寒いのなんの、ということらしい。通勤も大変だ。

ひとしきり最近の一押しピアノ演奏家などの音楽の話題を語り合ってから、彼は帰っていった。すでに夜十時ごろになっていて、夜風がとにかく寒い。彼の原付はマニュアル式でもらい物のため、今日僕の所へ試運転に来たという事もあったのだが、発進するまでの手順がめんどくさい。僕のDioなんか楽だよ、地球にも優しい、などと軽口を叩いた。ようやくエンジンが掛かったのでさよならを言って見送り、ささっと家に引き込んでしまった。じきに霜が降りる。寒いのだ。

2010年10月23日(土)

朝早くから家族で出掛けた。行き先は茨城・国営ひたち海浜公園。コキア(ほうき草)の紅葉が見頃だというので行ってみる事に。大田原市湯津上から那珂川町などを抜けてひたちなか市へ。

常陸大宮市を抜ける途中で物産センターみわ・ふるさと館「北斗星」という、道の駅を兼ねている所へ立ち寄った。その名の通り近隣の作物の直売などを大いに行っている。来たのは十時ちょいごろだったか、かなりの人出と賑わいだった。道の駅みわ 近場で採れたきのこたち今はきのこの季節であり、軒先には採れたてのきのこが並んでいた。真っ赤な色合いで目を引くタマゴタケやぶっといマツタケなども並んでいる。クリタケだったかなんだかが一房、と言っても軽く一キロ以上ありそうな大房なのだが、3600円で売っていた。母が帰り道にまた立ち寄って無花果を買っていこうと言い、暫しの休憩ののち車に乗った。

揺られる事一時間ほど、東海村に差し掛かったところで緩やかな渋滞に捕まった。今日は実に良く晴れた行楽日和で、多分その為の渋滞なのだろう。原子力センターだかなんだかの敷地の柵が二重の鉄条網で囲われていた。

十時半ごろ到着。ひたち海浜公園の西口から入ると、渋滞対策のためか駐車料金の後払い用紙が配られていた。入園料は大人ひとり400円、小人80円。公園に入ってコキアの植えられている「みはらしの丘」へ向かいながら、人出に押し出されるように脇道の林へ。中の軽食屋でとりあえずコーヒーを飲む。傍らでわい性のちっちゃなシクラメンが咲き、クリスマスローズが青々と茂っていた。茨城県の特産品、お芋を使ったタルトが美味しい。

一息入れてまた歩くとみはらしの丘へすぐたどり着いた。が、コキアの紅葉目当ての人連れが多すぎて人間も渋滞している。人混みをかき分けて目の前に開けたのがもこもこしたコキアの埋め尽くす丘陵地だった。コキアの丘上記のWebサイトでは21日付けで紅葉が真っ盛りとの事だったが、本当に真っ赤っかだ。すれ違う人がみな携帯やカメラを持ち、草を撫でてまりもみたいと呟いている。僕自身は海ぶどうみたいとか呟きながらカメラとコキアの海へ飛び込んでいった。

みはらしの丘の頂上にはこれまた「みはらしの鐘」というのが突っ立っていて、訪れる人が皆それを揺するので始終がんがん音が響いていた。周りは三脚とバズーカみたいなどでかい一眼レフカメラを持った人ばかり、僕はポートレート向けの小振りな18ー55mmズームとぺったんこな15mm広角レンズを首にぶら下げているのみ。なんだか所在なげな気分になり、意識して気持ちを紅葉に向けた。多少のばらつきはあったが一面が赤紫に染まっていて、実に見事な風景だ。昨日の関東地方の天気予報では直近の明日23日が最も良く晴れるでしょう的な事を言っていて、これは日曜日よりも土曜日の方が混むなあと思っていたのだが、その通りだった。丘の向う側からはひたちなかの海が見下ろせた。左手にコンビナート、右手に岬、手前に防波堤、その先に水平線。コキアの赤とコスモスのグラデーション、セイタカアワダチソウの黄色が帯を作っていた。水平線へ。人混みの間を縫って海をぱちり。

海の見える丘を去るのは惜しかったが、お腹も空いていたので出店のある広場へ降りて行く。ウナギの蒲焼きが煙で人をおびき寄せて、何十人という行列を作っていた。日差しは飽くまで強く、木陰に座ってみたらしだんごをもそもそ食べたのち、ぶらぶらと園内を散策。手際よくビニールシートを貼って談笑している家族連れなどは近場から来たのだろうか。ぷお~っと気の抜けたサイレンを鳴らしながら汽車という名のトラックが通り抜けて行く。そのうち高くて目立つ観覧車が目に入ったので、それを目指してみる。

海抜百メートルという観覧車は「プリンセスフラワー」とか言うのだそうだ。乗車券もお高い。まあそれは良いとして母と乗ってみた。車内のスピーカーから流れる海猫と潮騒の音がわざとらしいが、気分も乗ってしまえば中々良い感じだ。「大」観覧車と言うだけあって上からの展望も良い。何より海と水平線がぐるりとみえるのだ。さっきのコキアの丘よりも目の位置が高い。内心はしゃいでいるうちに12分間の遊覧は終わった。

お土産屋で母の好物であるうまい棒納豆味を買い、常陸那珂有料道路を跨ぎてくてくと外周を巡っていく。西口ゲートの手前に公園事務所、兼屋上エコガーデンと言うのがあった。僕は個人的に常々屋上というものに興味を持っているので、迷うことなくその屋上庭へ向かった。が、見てみると、公園事務所の上にあるのに植木の水やりすらテキトーな感がする。枯れているものもあった。屋上を出しに使ってゆるせん。

それでもまあ案内板のマルチングとか軽量土壌とか色々の緑化のための用語を眺めて西口ゲートへ向かった。即席の虹と、脇を通っていった子供たちが正面の噴水を指さしてなにやら騒いでいる。よく見てみると、噴水の霧が立ちこめたところに日が差して虹が出来ているのだった。写真では見づらいがきちんと七色映っているのだ。少し感心してしまった。

道の駅みわの食事渋滞を避けるため午後の日が高いうちに撤退したが、再び道の駅みわへ着く頃には(山間部なので)日は落ちぼんやり薄暗くなっていた。無花果はまだ売れ残ってあったのでそれやらラッキョウの根やらを買い込む。ピーマンが大袋で一つ100円。遅いおやつ代わりに、子持鮎の塩焼きと柚味噌こんにゃくを買って食した。季節ものの子持鮎が特に美味しくてしっぽから頭まで丸ごと食べてしまった。

本日は海辺の紅葉を眺め虹を見、夕餉に鮎を食らったわけで、まさに満ち足りた気分で「imaginary inquiry : bayaka – Amanece – 2003 ode music production remix」を聞きながら夕暮れの帰途についたのだった。

2010年10月22日(金)

原付に乗って大田原市ふれあいの丘シャトー・エスポワールへ行ってきた。

ふれあいの丘というのは、僕の住んでいるこの市の公共宿泊を兼ねた多目的施設だ。僕が小学生の頃は毎年、学年ごとに研修だか何だかと称して泊まりに行っていた記憶がある。二、三年前に天文台とプラネタリウムが出来たのを思い出したので、興味半分、原付の運転練習がてら行ってみる事にした。

途中で道の駅那須与一の郷│栃木県大田原市に立ち寄った。この道の駅の事は後々またこの雑記に書くとして、とりあえず休憩。売店でコーヒーフロートを買った。ちょっと涼しい。コーヒーフロートとちびコウ「竹のギャラリー」と言う施設の一角で著名らしい方の工芸品を見学してから出発。

ふらふらと原付を飛ばし20分ほどで到着。時はもうじきお昼だったので、コンビニで買ったおにぎりを原っぱのよく分からないモニュメントに背もたれながら食べた。ふれあいの丘天文館というらしい施設は写真の建物の裏手にある。ごろりと横になって一休みしてから行ってみたところ、プラネタリウムは午後一時半からのスケジュールだという。一時間ほど暇が出来たわけで、そのあいだ天文館の隣の自然監察館へ寄ってみた。

一年前にここへ来たときは「世界77カ国チョウ展」と言うのをやっていたが、今回は「世界のクワガタムシとカブトムシ」の展示をやっていた。タイトル通りの事や様々なクワガタ・カブトの飼育法、標本集の展示だ。特に飼育法などは、名前は忘れてしまったが、市販のえのきたけの栽培瓶のようなものに幼虫を入れて育てるなど、真新しいものが幾つかあった。しかしどのクワガタやらカブトも生きているのかいないのか、飼育かごをこつこつ叩いたら動いていたからまあ生きてはいるんだろうけれど。季節を外した今は活気がないのだろう。標本それよりも約2000点という昆虫標本の展示が目に入った。多くが国内で採集されたもので、チョウやハチ、タマムシなどと幅広い。小一時間ほど見学して楽しめた。

天文館の入場料は一人300円。ここには県内屈指の反射望遠鏡があるというので、まずそちらの案内を受けた。ドームへ上がって二階でまず目に入ったのは65cm反射望遠鏡(フォーク式赤道儀)というでっかい望遠鏡だ。65cm反射望遠鏡壁にはこの望遠鏡で捉えた天体、惑星だとか星雲だとかが幾枚も貼られていて、折角なので色々と質問をしたりした。十年ほど前からの主流はパソコン制御による天体の補足追尾だそうで、ここの反射望遠鏡もある一流メーカーの品らしい。面白いのはこの望遠鏡が二人同時に観望出来る(デュアルワンダーアイ)という事で、人待ちが多くてもスムーズに見られる方法なのだそうだ。ドーム二階の表には屋外観測場があり、そこに10cm屈折望遠鏡(太陽望遠鏡)が設置されていた。あいにく本日は薄曇りで太陽は見られなかったが、接眼鏡から雲が流れていく様子は見られた。夜の観察会ではこの観測場に15cm屈折望遠鏡(ドイツ式望遠鏡)が二台設置されるらしい。

一通り質問をしたり案内を受けて、プラネタリウムを見る事に。平面の壁に投影するスクリーン型プラネタリウムというもので、僕が見たのは秋の星座のお話だった。ギリシャ神話の物語を中心に、ペガスス座がなぜ上半身だけなのかだとか山羊座やアンドロメダ座やらやらの由来だとか、ミラやアルゴルという変光星の話など、結構内容の充実した時間を過ごした。昼間だったので、見学者は僕一人きりの貸し切り状態。おかげでゆとりを持って見学出来た気がする。

しかし初めての距離を原付で運転してみて疲れた。天文館・自然監察館は上のふれあいの丘へのリンクから辿れるので、興味のある方はどうぞ。

2010年10月18日(月)

しばらく散歩を休んでしまったので方角を変えて出掛けてみた。割と近所の羽田(はんだ)沼へ向かう。

公民館の広場で老人連中がゲートボールと座談会らしきものを広げていた。道すがら缶コーヒーを買って店のあるじのおはさんに挨拶。アメジストセージの見事な花壇があった。

坂を登ると「この先750mに羽田沼」とある。道の脇のウド畑から、甘くて青臭いニオイが漂ってきた。昔、子供の頃は、このウドの実に細長い松などの葉っぱを引っかけはじき飛ばして遊んだものだった、と思い出す。畑の中からは雀の騒々しい鳴き声が聞こえてきた。大群が藪の中に潜んでいるらしい。と思うまもなく、遠方から害鳥退除のための「どーん」という発砲音が鳴り渡った。

大したことが起こるでもなく羽田沼へ到着。小さいながらも休憩所、トイレ、駐車場が整備されている。ベンチの一角に腰かけて、買ってきた缶コーヒーをちびちび飲む。ベンチから柵を一つ向こうにマガモがわらわらいて、おっさんが一人、カモだか鯉だかに餌をやっていた。マガモの群れ 羽田沼

この羽田沼は栃木県内で唯一のハクチョウの飛来地だ。昔、と言っても二十年近く前には、市の反対側の琵琶池(びわいけ)にもハクチョウが飛来していた。僕が羽田小学校に来た頃にはもう琵琶池になんかハクチョウは全くと言っていいほど来なくなって、代わりに毎冬の羽田沼のハクチョウの数を競うようになっていた記憶がある。僕が小学六年の冬には最大およそ300羽だった。白鳥(はくちょう)情報-栃木県大田原市にある白鳥の沼(羽田沼)の紹介 : プランニングオフィスワンによると近年では毎冬千数百羽が飛来するらしい。すぐそばの農家の方々や小学校の生徒が連携を取って餌付けを行ってきた成果だろう。が、目の前の看板には「水鳥にエサを与えないで下さい~」とある。読めば、水質の悪化によって池とその下流の生物相の減少が目立っているという。この羽田沼の下手にはミヤコタナゴが住んでいる用水路がある。ミヤコタナゴはこの辺りでは別名オシャレブナ、オシャラクブナとも呼び、栃木県では確か市内の数カ所にのみひっそりと生息していて、国の天然記念物にも指定されている。この羽田沼のミヤコタナゴは一時消滅の憂き目を見そうになったが、小学校内での飼育と近隣農家の理解などによって今も生きながらえている、らしい。僕は実際に用水路で捕まえたことは無く、学校の事務室の水槽で泳いでいるのを見た事があるだけだ。

話がタナゴに逸れてしまったが、十年前に比べてハクチョウの飛来数は数倍に増えたわけで、水質の悪化は当選の帰結だろう。ブルーギルやブラックバスの無責任な放流が一時期騒がれていたが(今もか)、この沼にもその手が伸びていて、それらの餌食としてミヤコタナゴが池から姿を消してしまった。上で下手の用水路に、と書いたのはその為だ。水が多少汚くとも、相が貧弱であれ、ブルーギルやブラックバスなどは強く繁殖出来る。ハクチョウがいない季節にはそれらを駆除するために網を張って対処したりもしていた。今現在は過去のそれほど過敏に周囲が反応することはなくなったらしい。池の水質改善とハクチョウ飛来数の維持がこれからの課題のようだ。

当然ながら今はまだハクチョウは一羽もいなかった。底冷えのする秋の終わりごろにぽつぽつとやってくるはずで、その時期になると駐車場脇にここ数年から、一件の出店が立つようになった。寒い中で喜ばれるのだろう、たい焼きとたこ焼きが売れる。ゴミ捨てかごを設置していないのでごみは持ち帰りになるわけだが、それでものんびりするぶんにはありがたい。そういえば、市の中央を流れる蛇尾川・蛇尾橋の脇にもだいぶ古くからこぢんまりしたたい焼き屋がある。秋冬のみ営業しているのだが、先日通りかかったときにはもう開店していた。このたい焼き屋では小倉あんとクリームがそれぞれ110円で売っている。以前寄りかかったときには写真撮影お断りですと言われ、ちょっとがっかりしながら小倉あんを近くの高台で食べた記憶がある。このたい焼き屋はこの市の冬の風物詩でもあり、ネット上のコミュニティでも時々話題に上る。必ず待ち人が行列を作って並んでいるので、場所は通りかかればすぐ分かる。

また話が逸れたが、とりあえず池の脇のベンチで一休みし、間近でマガモを眺めてみた。餌が貰えないと分かると向こうは興味を失ったのか、ガアガア言いながら離れて行ってしまった。そこへ近くにいたおっさんが穀類をばらまく。この場合、「エサを与えないで」にどう当てはめればいいのか分からないが、とにかく集まってくるカモの数はすごい。一瞬で50羽ほどが集まり貪っていた。

ポケットに空き缶を入れ再び出発。やはりというか慣れると歩きやすい。途中で何かの木の実がぎっしりと生っているところを見つけた。木の実この木の実も餌を求めるマガモによって、枝の下の方に実が少ししか付いていなかった。

家に帰ってきてから、テーブルの上のコルチカムに花が咲いているのを写真に撮った。コルチカムは日の当たり具合で花の色が決まるらしく、庭の外のそれは薄紫をしていたのに部屋の中のは真っ白だった。あとから植え替えてやったが、もう花の時期を過ぎているようでしおれていた。コルチカム

最近睡眠の浅い日が続いているが今日はよく眠れそうだ。今、ココアにベイリーズを垂らしたものを少し飲んでいる。そんなカクテルあるのか知らないが、美味しい。

2010年10月11日(月)

家族でりんご狩りに行ってきた。市をまたいで三十分程度、長井りんご団地と呼ばれる地域へ。

今日は朝早くから自宅の庭掃除をしたりと慌ただしかった為、途中のコンビニで朝食を買い、市の西を流れる箒川の河川敷で一時休憩。河川敷の両端はススキとセイタカアワダチソウでいっぱいだった。看板が立っていて、ここから上流16.9kmに塩原ダムがあり……とある。僕らが目指しているのは寺山ダムの方向だったのでさして気にもとめなかったが、その看板の脇に小川が流れていてうぐいだか何だか魚が数多く泳いでいるのを見つけた。確かこの近くにはオオタカの保護区があったんじゃなかったかな。

長井りんご団地の一帯の各農家ではりんご栽培を柱とした兼業農家をやっていて、一本の道を入るとそこかしこにりんごの直売所がある。直売というからには朝摘みが喜ばれるのだろう、早朝でも辺りにはひとけが多く、彼方此方の売店に家族連れが集まっていた。販売のおばちゃん達も忙しなく試食用のりんごをむいている。

しばし迷ったのち、僕らは加藤農園というりんご狩りとその直売を行っている売店へ入った。りんごジュースやら何やらと一緒に今年の新米が売っていて30kg7500円。りんご狩りをしたい旨を伝えると、まず現在狩れるりんご三種類の品種を味見して、それから、という流れになった。紅玉、秋映、ジョナゴールドの三つが今の時期に狩れる品種だという。王林は酷暑の影響で二週間ほど先にならないと、らしい。んで、味の方。紅玉は身が締まっていて酸味も強い。僕好みだ。秋映は口当たりがよい。さっぱりしている。ジョナゴールドは先の二つを足して割った感じで、身が程よく柔らかい。結局紅玉を狩ることとなった。

りんご1 りんご2 りんご3りんご園の木は太くてごつごつしていた。紅玉は園の奥にあるという。行ってみるとしたたるような赤いりんごがたわわに実っていた。下の枝の方はすでに狩られていたらしく良さげな実が残っていなかったので、脚立を使って上の枝を探ることに。手のひら一杯の大きな赤いりんごをもぎ取った。数えること、十個。写真を撮ったりしながら園内をぶらついて、直売所のカウンターでお会計、1500円だった。端数はおまけ。

売店の駐車場の脇には濃い色をしたコスモスが茂っていた。風が吹いていて上手く写真に収められなかったが、ビビッドなピンクとチョコレート色をしたコスモスがりんごと山々を背景にして花盛りだ。隣ののぼりに「クール宅急便 りんご便」とあって、こんな需要もあるのか、そうだよな、遠方から来る観光客もいるんだな、とそんな事を思った。

次に向かったところは栃木県民の森方面。こちらには寺山ダムと、その支流につながる尚仁沢(しょうじんざわ)がある。尚仁沢の上流には尚仁沢湧水があり、これは名水百選の水源地の一つに数えられている。高地の冷涼な風を突っ切り曲がった道を上って行く。途中の道のりでツクツクボウシが季節を間違えたように鳴いていた。15分ほどで下流の駐車場に到着。小さな駐車場だが車で満席だ。案内板には、ここから遊歩道を1500米登ると湧水に至る、とある。高原山の山麓590mに位置し、山岳仏教の盛んな奈良時代には修験者はここの水で身を清めたことから精進転じて尚仁となったという。

僕ら一行は沢の下流から来たが、母によれば十何年前に来たときには上流から下ってすぐの位置に湧水があるルートもあったはずだとか。来てしまったものは仕方がないし、体を動かせとも言うので、1.5kmの山道を登っていくこととなった。途中までの道のりは舗装されていたが、手前にあるあずま屋を通り過ぎると、途端に岩と木の急な斜面が広がっている。しばらくして汗がにじんだ。よくもまあ昔の修験者達はこんなところに道を作ったものだ。思い切り大股でむき出しの階段を上り下りしてぜえぜえと息を吐く。途中で何人かとすれ違って挨拶。降りてくる方は息が軽い。湧水はどこまで行けばあるんだろうなあと思っていると看板に500m先、湧水、とあった。スクウェア 締め付ける蔓ともすると下ばかり見て歩きがちだが、木の根がスクウェアに交差している所を見つけてぱちり。そのとなりでは太い藤蔓か何かが木をぎゅうぎゅうに締め付けていた。

下りの夫婦連れに後どれくらいかと尋ねると5分程度だという。登り道ではそれ以上に感じたけれども、しばらくして親子連れやカップル達が散らばって一休みしている場所に出た。どこに湧水があるのだろうと辺りを見まわすと、あった。尚仁沢湧水岩の隙間からぼこぼこ水が湧き出している。一息ついて清水を手に掬い、ごくりごくりと飲む。うまい。汗をかいたのが良かったのか周囲の冷涼な空気と光がそうさせるのか、ひんやりとして爽やかな感じのする水だ。手頃な木の根を見つけて腰かけ、目の前に立っている看板を眺めた。……日量6万5千立方メートルを噴出し、四季を通じ湧水量は一定で水温は年平均11度と変化なく……昭和六十年七月二十二日環境庁より全国名水百選の一つとして選定された……とのこと。名前が変わる前の環境庁とあるとおり、看板には苔と落ち葉が積もっており、脇に朽ち果てたテーブルが一つ転がって、そこにいろんなきのこが地味に主張するように生えていた。

辺りはまだ緑濃く一面に苔むしている。座ってのんびりしていると溶け込んでしまいそうな空気だ。ときおり眩しく日差しが差し込み生き返るような気持ちがした。しかし座り込んだままでいるわけにもいかない。しばし休憩を取ったのち下山することにした。

下りは足も軽い。先ほどすれ違った夫婦連れがあと少しと言っていたがその通りだ。行きは40分ほどだったか、下りは30分と経たずに歩くことが出来た。半ばで沢が三方から集まって集合しているところがあり、緑と白の調和した様子が目に良く映えた。

ふもとの駐車場に着いて、熊出没注意と看板が立っているのを見つけた。確かにこの辺りは広葉樹も割合多く、以前近隣の八方ヶ原で角の生えていない鹿を見た事やその仲間のふんを見掛けたこともある。秋口には熊も出るかも知れない。休憩を入れてから山を下りた。もう一度来るときには真っ赤に色づいていることだろう。ネット上の書き込みで茶臼岳の頂上は紅葉が始まっている、と言うのを見掛けたが、高原山や八方ヶ原はあとどれくらいだろう。

昼下がりの帰り足、塩谷町から各方面に出でる交差点で、宇都宮方面の道路が延々と渋滞しているのを見掛けた。三連休最後の日だからなあ。これからの紅葉シーズンはもっと混むだろう。一応は首都圏から日帰りで秋を楽しめる距離だしね。日光や那須に比べれば今いちマイナーではあるけれど、塩谷や八方も近年訪れる人が増えた。これからも身近にお山と親しめる地元であって欲しい。